88.蕾
万里子はスティリカの話をじっと聞いておりました。
その表情に変化はあまり見られませんが、それでも大変な衝撃を受けているであろう事は、長く一緒に居たスティリカには分かります。
「あなたを……とてもとても大きな事に巻き込んでしまったわ。――ごめんなさい」
スティリカは万里子が座る寝台の横に跪くと、万里子の目をしっかりと見て言いました。
その言葉に、万里子の瞳が揺れます。
「日本に帰る方法が無いって……そういう次元の話じゃないのね……? 私、ここの人間なのね?」
どうして自分だったのか、なぜ、もっと美しく、もっと器用に物事をこなせる他の誰かではなかったのか――万里子の脳裏にこびり付いていた事です。儀式をこなした今ですら、何かの間違いではないのか――そんな思いは拭えませんでした。
でも、ここで知ったのは、考えていた以上に重く、大きな真実でした。
万里子でなくてはならないのなら、その理由が欲しかったのです。あなたで間違い無いと、その道筋を示して欲しかったのです。ですが、自分の居場所だと信じていたあの場所も、所詮は借り物だったと言うのです。
「私は……ただの“器”なの?」
ポツリと零れた言葉にスティリカは苦しげに顔を歪めました。
「――違うわ。それは違う」
「違うって、何が? 伯母さんが、あたしを連れて神殿に行ったのはそれが目的だったんでしょう?」
スティリカは悲しそうに瞳を伏せました。
「それは違う! あのまま、ヤンテがただ消えていたら、あなたのような親のいない赤ん坊が一番最初に犠牲になっていたのだ。キリエはこの世界を救いたかった。それは、あなたも含めたこの世界の全てだ!」
二人に割って入ったのは、それまで静かに見守っていたライカでした。
「光を失えば必ず世界は混乱に陥る。事実、そうなった。略奪に殺戮……小さな街のいくつかは消えてしまった。そんな時代に、一番最初に犠牲になるのは守るべき存在のいない孤児達だ。確かにキリエのやり方は強引であったもかもしれない。だが、今、君は生きている。それが大事なのでは?」
その言葉に、万里子は黙ってしまいました。
理不尽な目にあってしまったという思いは簡単には消えません。ですが、混乱した世界に残らなかった事で無事成長できたというのもまた確かなのです。
窓辺の光篭から、万里子を慰めるようにピィという声がしました。
「あ……」
立ち上がろうとした万里子よりも先に、それを手にしたのはスティリカでした。
「ラブルね……。光玉と鞄が合体してる……ジル殿とルヴェル殿の作ね」
「……うん。私……ラブルさんが光がなくちゃ生きていけないって知らなくて……消えてしまうまえに慌ててここに入れたの」
「――大丈夫みたいよ。中からきちんと命の熱を感じるわ。それに……中に空間魔法がかけられているわね」
「私……本当に何も知らないんだ……皆、先の先まで考えて用意してくれていたみたい」
「その、髪も?」
万里子は胸の前に垂れている髪を手にして薄く微笑みました。
「クラムの術みたい。体中が熱くて高熱にうなされて……正直あまり覚えてないの。気が付いたらこの髪色になってて……ヤンテの姫は黒髪黒目だって知られているからだって言ってたんだけど。……似合わない?」
「あなたの身体の中にはヤンテ神が居るというのに、なんて乱暴な方法を――! そんなにしっかりと色が定着するという事は、余程強い術をかけなければいけないはずよ。あなたには耐性が無いんだもの……あら?」
スティリカは両手で万里子の髪を持ち上げ、万里子を上から下までじっと眺めました。
「……おかしいわ……これが初めての術では無いみたい……」
「え?」
万里子は不思議そうに問いかけました。スティリカは万里子の目をじっと見詰めるだけで、それ以上は答えてはくれません。
「……万里ちゃん。あなた、好きな人は居るの?」
「はっ? えっ? な、何? 突然!?」
突然問いかけられ、万里子は慌てふためきました。
オデコから変な汗がふき出します。
「い、いないよ! いるわけないじゃない! 大体、そんな風に見られた事っ――!!」
しどろもどろになって否定しますが、イディの告白が甦り、万里子の顔は真っ赤になってしまいました。
「万里ちゃん?」
「……あの……その……」
視線を泳がせる万里子の肩をガッチリと掴みました。
「――何か、あったのね?」
「ええと……」
万里子自身、最近の慌しさで立ち止まってはいられませんでした。ですが、改めてそう聞かれるとあの夜のイディの告白がまざまざと思い出されます。どんどん火照る顔を手で押さえて困った顔をしている万里子を見て、スティリカは溜息を零しました。
「万里ちゃん。話してちょうだい。あなたがこの世界に戻ってきてからの事を、全て。大体、お披露目の式典に居た女は何? あなたがみすぼらしい格好でコソコソと隠れるように行動しているのを見て、本当に驚いたわ」
「え? 伯母さん、見てたの? だって、私ジルさんの結界の中を通って舞台裏に行ったんだよ?」
ジルはこの世界では一番の魔術師だと聞いていました。ジルの結界を見破るのは、ジルと同レベルの魔力が無いと無理だとシアナは話していたはずです。
「あ……そうか……。ジルさんとは親戚になるのね? 魔力がかなり強いって言ってたけど、それでなの?」
「ええ……前はそうでもなかったんだけれど、こちらに戻ってきた時、十七年間消えていた魔力が急に甦って、身体の中で爆発したような感じになったのよ。気が付いたら以前以上に強大な魔力が身体に宿っていたの。それまで抑圧されていたのかしら」
それからスティリカに促され、万里子はこれまでのことを全て話しました。
儀式により、二人の候補が残ったものの、すぐにもう一人のマリコが本物とされた事。ジルが拾ってくれたけれども、ただ与えられるだけの生活が申し訳なくて自立しようとルヴェルを頼った事。そこに宮殿のマリコから影武者となるよう、式典の招待状があった事。
思えば、この世界にきてまだ一つ季節を過ごしただけに過ぎません。なのに、驚く程様々な事が起こり、万里子はその渦に飲み込まれていたのです。
ガルディスのジャーレの罠に自分の未熟さを痛感した事。ジルの利き手に大きな傷を負わせてしまった事。頑張ろう、前を見ようと思っても生来の消極性はなかなか抜けないもので、どこか及び腰でした。前に進んだつもりでも、周りはもっと早く進んでいて万里子は常に走って息切れした状態だったのです。そんな中のイディの告白は、自分の弱さを試されているようで、逃げたいと見透かされているようでとても悲しかった事……やっと出来た友達のネストラードが、スイル行きを決意した事――様々な事が思い出され、感情が高ぶり、次から次へと言葉が出てきます。
「ネストはあんな風に言ったけど、私が原因だって知ってるの。だって、ミルファさんがそう言ったんだもの。喉から手が出る程私が欲しいって。でも、私を無理矢理スイルに留め置けばヤンテの怒りが落ちるから、代わりにスイル人の血を濃く引いたネストをもらうって……私が無事ラウリナに帰れるのは、ネストの決断のお陰だって……でも、私言えなかったよ。皆が皆、自分を犠牲にして私を守ろうとして……すごく迷ったけど、私に今出来る事はネストの決断を受け入れて応援する事だけで……情けなくって。悔しくって……」
いつの間にか涙が頬をつたいます。
スティリカは、そんな万里子をそっと抱き締めて背中をポンポン、と優しく叩きました。自分の肩に万里子のオデコを乗せて軽やかなリズムで背中を叩くのは幼い頃からで、万里子は懐かしさにしゃくりあげました。
「だから、ちゃんと知りたいって思って……私である理由が欲しくて。でも結果皆に無理させて……なのに、こんな……こんな事って……!」
「あなたに異世界の話は教えてきたつもりだったけれど、あなたの頭の中では物語の中の事でしかなかったのね。こんなに傷ついて……。私にもっと上手く伝えられる方法があれば良かったのに……ごめんね」
「伯母さん……私、日本への思いはもう断ち切らなきゃいけないのね。知りたいってそれだけの思いでここまで来たんだもの。私にはもう、帰る場所が無いのね」
顔を上げた万里子は真っ赤に充血した目をスティリカに向けました。それは新たに零れようとする涙を堪えているようにも見えました。
「そうね……ここがあなたが戻る場所で、日本こそが、あなたの仮住まいだったのよ」
とどめを刺された気がしました。ここが、根を下ろす場所なんだ――。万里子は日本に残してきた思いを断ち切るかのように、ぎゅっと目を閉じると、再びスティリカに抱きつき大声をあげて泣きました。
ピィ……ピィ……
寝台の傍らで心配そうに無くラブルの声に、万里子はようやく顔を上げました。
存分に泣き、胸に重くのしかかっていた思いは少し晴れましたが、瞼はすっかり腫れています。おまけにずっと抱きついていたスティリカの質の良い衣は万里子の涙を吸って濡れてしまいました。
「あっ……ごめんなさい」
「いいのよ。私実はもっと罵られたりするんだと、思っていたのよ」
「そんな……」
「ううん。万里ちゃんは昔から色々考えすぎ。周りに気を使いすぎ。気を使いすぎて、動けなくなってしまうのよ。でも、動いたら動いたで今度はそれで迷惑をかけたのではないかって思ってしまうのね……万里ちゃんには、安心感を与えるようなパートナーが必要ね」
「え……?」
重い瞼を擦ろうとした万里子の手を、スティリカが止めました。すると、そこにすかさずライカが冷たい水で濡らした布を渡します。
「こら。擦っちゃダメよ。明日目が開けられなくなるわよ」
そっと瞼を冷やすスティリカのするがままに、万里子は身を任せました。
「パートナーって……どういう事?」
「え? 言葉通りよ。私は少し前から考えていたの。そうね。この館にはまだ部屋は沢山あるから、落ち着いたらもっと広い部屋に移りましょう。お互いを知るのはそれからでもいいと思うの」
万里子には、スティリカが何を言おうとしているのか分かりません。
「あの……伯母さん? 私、伯母さんに話を聞いて、あと入れ違っていた荷物……先に紅い石を返そうと思って持ってきたの。後は私の荷物もらえたら……氷が解けたらラウリナに戻るよ?」
「いいえ。あなたはイルー人なのよ。今王都がどんな状態かはある程度知っているけれど、何も万里ちゃんが巻き込まれる事は無いわ。あなたはずっとここに居て、たまにヤンテ神殿に赴く程度でいいのよ。ここが本当の故郷なんだもの」
思っていたのとは違う方向に話が進み、万里子は慌てました。それでは皆が万里子を隠して王都から出してくれた事も、クラムルードの婚約者を演じたのも全てが水の泡です。
「でも伯母さん……今、私クラムの婚約者って事になってて、それで他国が変に手出しできないようにってしてもらってるんだけど……」
ですが、スティリカは何でもないとでも言うように軽く首を振り笑い飛ばしました。
「そんな小細工をしなくても大丈夫よ。だって、ヤンテの姫君は国王はおろか一族の長とも結婚できないんだもの」
「え……」
なぜだか万里子は息が止まる程の衝撃を受けました。
「好きな人はいないんだもの。問題は無いわよね?」
スティリカの言葉は万里子の耳を素通りしていきます。
「万里ちゃんがイディ殿の思いを断ってくれて良かったわ。手遅れになるところだった」
安心したように笑うスティリカの顔をぼんやりと眺めながら、万里子はなぜか自分をじっと見詰める熱く紅い瞳を思い出して胸が締め付けられそうになりました。