85.キリエの昔語り
「伯母さん……うそ……なんで……」
驚きのあまり、万里子はそう繰り返し呟いておりました。
その様子に、目の前のキリエは可笑しそうに目を細めると、両手を広げて万里子をそっと抱き締めました。
「待っていましたよ」
その声も間違いなく伯母のものです。
「伯母さん……!」
それに応えるようにキリエは万里子の背に回した腕に力を入れました。
それが肯定の意味なのだと知り、万里子もキリエの背に腕を回し、強く抱き締めました。
「元気だった?」
「伯母さん……どうして? ほんとにほんとに伯母さんよね?」
キリエをじっと見詰め、万里子はまだ夢を見ているのではないかと思いそう問いかけました。キリエはそんな万里子に苦笑すると、座るように促しました。
「そうよ。向こうでの名はサトウマリコだったわ」
顔は勿論、すらりとした長身も伯母そのものです。ですが雰囲気が少し違っていたのが気になりました。
「髪……灰色だったのね」
「そこが気になるの? 全く、まりちゃん……いや、マールは変わらないなぁ。あちらでは少し目立つから、白髪染めで黒くしていたの」
「そう……なんだ」
「そうよ。言っておくけれど、白髪なんかじゃないわよ。元々白が混じった灰色だったの。だって私はイルーとナハクの混血だもの」
キリエはさらりとそう答えましたが、万里子は大きな驚きに襲われました。
「えっ……?」
伯母が日本人ではない――そもそも地球人ですら無いと知り、万里子は戸惑いました。
確かに日本では万里子の伯母で、実家を継いだ父のすぐ上の姉として親しく親戚付き合いしていたのです。それが元々この世界の人間だという事実に、万里子は混乱しました。
なぜ、自分だったのか――なぜ? それを知る為の旅だったのに、こんな形で真実を知る形となった事に万里子は恐怖を感じ始めていたのです。
召還されたのは、『サトウマリコ』でした。その中から臍の紅い石を持つ人間だけが残されたのです。そんな事から、万里子は自分がこの世界の事情に無理矢理巻き込まれたのだと信じて疑いませんでした。だから、還る手段がどこかにあるかもしれない……なぜ自分だったのか理由が欲しい……そう思っていたのです。ですが、蓋を開けてみると、万里子が生まれた時から既に近くにこの世界の人間が伯母として存在していたというではありませんか。
それではまるで――
万里子はそこまで考えてブンブンと勢いよく頭を振りました。
(そんな筈無い……だって……だって私は、日本にお父さんとお母さんが居て……)
父と母――では、伯母はなぜ異世界人なのか?
まり子は父の姉です。ならば、父は……では、自分は? 出来損ないの万里子。人並みの万里ちゃん。兄や妹が近所で話題になる度に存在を忘れられた万里子……なぜ、ここに召還されたのが兄でもなく、妹でもなく、万里子でなくては無かったのか……そもそも、なぜ万里子は『マリコ』なのか……。
「万里ちゃん。――いいえ、マール。混乱するのも無理は無いわ。もっとちゃんと説明するつもりだったのだけれど……地球では私もどんどん地球人に同化していった。おぼろげになる記憶を、この世界を本に残すしか、出来なかったわ」
叔母は、売れないファンタジー小説家でした。おかしな世界に、おかしな動物。空を飛んだり、精霊が人類と共存する不思議な世界――その不思議な世界観は一部の人には人気がありましたが、とてもではありませんが本で食べていけるほどではありませんでした。でも、万里子は叔母の書く世界がとても好きでした。特に大好きだったのは、言葉を話す真っ白な馬――。
「ここの世界の事を、書いていたの? 私に、教える為に?」
「幼いあなたに、どんな方法で教えたらいいのかしらって、悩んだわ。大きくなってからでは、私の記憶が鮮明である自信が無かった。だから、物語にしたのよ」
「そういえば私、小さな頃……『まり子叔母ちゃんは、魔女みたいね』って……」
その言葉に、キリエは思い出したようにふふっと笑いました。
「覚えていたの……。そうねぇ……あなたが小さな頃は、まだ少しだけ術が使えたわね。でもあれからすぐに使えなくなって、生理なんてモノも始まっちゃって。夫に相談なんてしちゃって、頭がおかしくなったのかなんて言われて……とうとう、こちらの言葉も忘れちゃって……」
「あ……」
万里子は一緒に召還された日の事を思い出しました。叔母は、確かにこちらの言葉が分からない、と言ったのです。
「私、どうしてすぐにこっちの言葉が分かったの? どうして……」
――どうして、イルー人の叔母さんが地球で私の傍に居たの?
そう聞きたいのに、叔母の口から出る答えが怖くて、万里子は口をつぐんでしまいました。
「マール。全てを聞きに、ここに来たんでしょう?」
全てを見透かしたかのように叔母が問います。
ピクン、と肩を震わせた万里子は、しばらくしてコクリと頷きました。
叔母の昔話が始まりました。
「私の本名はスティリカと言うの。私の父はイルーに派遣されたナハク人の神官でね……私にも少し魔力は備わっていたのよ……」
昔、人々がヤンテ神を信仰しなくなり、天候や光に変化が現れました。
それを心配したジルの祖父のスルグは自身の姪でもあり、ヤンテ信仰の研究家であるスティリカの元に向かいました。
以前は稀に闇の森近くの子供達が不思議な紅星が流れた翌日、紅い宝石と共に星を詠み天候等が分かる特殊な能力が与えられる事がありました。スティリカはそれがヤンテに関係するといち早く気付き、儀式化した事もあって、若くして既にキリエと呼ばれイルーの中心人物でした。
スティリカもヤンテの力がこの世界から離れ出していると危惧しており、二人はヤンテ神への信仰を復活させようと協力を誓い合ったのです。
ですが、それはもう遅すぎました。
徐々に星詠みに選定される子供が少なくなりました。人々のヤンテ神の信仰離れがどんどん進んでいっていたのです。大人の影響で子供も信仰心が薄くなり、ヤンテも紅い星を授けられなくなったのだろうとスティリカは考えました。そこである日の儀式に、案内役の神官として、まだ見習い神官の少年だったライカとライアスを同行させたのです。
スティリカの考えは当たり、その日星詠みに選定されたのはイルーの子供ではなく、案内役のライカでした。
スティリカは焦りました。ヤンテは疲弊しておられる。いつかこの世界を見放し、隠れてしまうかもしれない――それは、信仰対象が無くなるというだけの話ではありません。この世界を照らす、偉大な光が消えてしまうと言う事なのです。ですが、誰も空高くに光ヤンテと、ヤンテ神を同一のものと考えてはくれませんでした。
高名な神官でも、ヤンテ神の声が聞こえないという者も現れました。
次の儀式では、とうとう星詠みは一人も選定されませんでした。
スティリカは焦りました。そこで彼女はある賭けに出たのです。
「赤ん坊なら……まっさらな赤ん坊なら、ヤンテが同調されるのではないかと思ったの」
イルーの小さな孤児院に、両親が船の事故で亡くなった赤ん坊が運ばれたと聞いたのはそんな時でした。
「船の事故で死者が出るなど、星詠みが空を詠んだ航海ではそれまでそんな事無かったのよ」
小さな身体を抱き、闇の森の中を一心不乱に歩きました。
松明を携えたライカも無言で歩きます。その時のスティリカは、なぜかこの赤ん坊が最後の希望だと確信しておりました。
腕の中ですやすやと眠る赤ん坊は、神殿に着き儀式の間の冷たい石の床に置かれるとほんの少しむずがりましたが、やがてそのまま静かな寝息をたてました。
スティリカは祈りました。どうか、ヤンテ神を、この世界を救ってと、ライカと共に祈りました。
すると、昼夜を問わずにヤンテの光が届かないこの闇の神殿に紅い閃光が走ったのです。
それは、今までの星詠みの儀式の比ではありませんでした。
余りの眩しさに、スティリカは目を開けていられませんでした。ぎゅっと瞑った瞼越しにも紅い強い光を感じます。
ようやく光が収まり目を開けますが、直視していないにも関わらず瞼の裏で感じた強い光の残像で、辺りの様子が分かりません。ですが、少ししてある変化に気がつきました。
相変わらず目は見えませんが、先程まで分かった赤ん坊の寝息が、気配が無いのです。
「ライカ! ライカ! あの赤ん坊は?」
「お、お待ちください。キリエ! まだ目が……」
ようやく目が慣れて、二人は辺りを見回しました。石壁に沿っていくつか取り付けた松明の炎だけがゆらゆらと揺らめいて儀式の間をぼんやりと照らしています。
ですがいくら目を凝らしても、儀式の間を隅々まで捜しても、中央の床に寝かせていた赤ん坊は居ませんでした。
この日を境に、ヤンテは姿を消しました。
この世界からヤンテが消えた日、強烈な紅い光と共にあの赤ん坊もまた、消えてしまったのです。
「その赤ん坊が……万里ちゃん、あなたよ」