82.クラムルードの決断
クラムルードはどうやって自分の棟に戻って来たのか分かりませんでした。
「陛下。……陛下?」
女王の棟の入り口で待機していたガイアスが見たのは、無表情でゆっくりと歩いてくるクラムルードでした。ガイアスをチラリとも見ずに通り過ぎたクラムルードはそのまま静かな足取りで歩いて行きました。
「陛下……いかがいたしました?」
ガイアスはクラムルードの様子がおかしい事に気付き声をかけ続けましたが、クラムルードは応えません。そのまま王の棟のサロンに入ると、どかりと椅子に腰を下ろしました。
「陛下……何があったのでございますか?」
その時やっとクラムルードは自室に戻ってきた事を知ったのです。父王が亡くなってからの日々、常に気を張って生活しておりましたのに、こんなにぼんやりしていたのは初めてでした。クラムルードはそれだけ万里子の悲しみの叫びが心に響いたのでございます。
「ガイアス。お前、結婚しているのか」
「――は? え、ええと……はい。妻がおります。今……子を宿しております」
そうか――クラムルードはそう呟くと、また黙り込みました。
クラムルードはガイアスが一人身なのか知りませんでした。知ろうともしませんでした。ガイアスはきっと自分に身の危険が近づいたら家族を捨ててでも自分を守るでしょう。それが彼の仕事なのだから当然です。クラムルード自身も、父王が亡くなり、唯一自分だけが父の後継者として教育を受けておりましたので後を継いで当然の仕事だと思っておりました。
万里子と会ったのはサイナのグリューネを訊ねた時でした。みすぼらしい格好をして、染色の仕事で衣や手を汚して働いている姿を、クラムルードは軽蔑しました。時には水を吸って重くなった糸を持ち上げる力仕事でもあります。でも万里子はいつも笑顔でした。クラムルードにはそれが不思議で仕方がありませんでした。
「居場所とは、なんだろう」
「は?」
脈絡の無い質問を投げかけられ、ガイアスはまた首を捻りました。
「ええと……居場所……でございますか」
「そうだ。そこに自分の役目があればそこが居場所になる。違うか」
だから、依代として沢山の兵士に守られた宮殿での贅沢な生活は、万里子にとっても良いと思ったのです。ですが、サイナで見ていたあの笑顔は滅多に見せなくなりました。
「それはそうでございますが……少し意味合いが違うかと……」
「ならば何だ」
「そうですね……。気持ちが安らぐ場所、でしょうか。本来の自分自身で居られる寛げる場所です。安心してそこに居ていいのだと思える場所ではないでしょうか」
安らげる場所――クラムルードは万里子の言葉を思い出しました。
不安だと……役目が無くなったら切り捨てられるのかと……。勿論そのつもりはありませんでしたが、万里子にとってここはあくまでも客人として滞在しているような心もとない気持ちだったのかもしれません。ここから追い出されるとグリューネやジルが宮殿で働いている今、頼る人もいないのです。その時初めて、冷たい泉に手をつけ、衣を汚しながらも万里子が笑顔だったその理由が分かりました。万里子は自立しようとしていたのです。
「居場所……安らげる場所……か」
そう呟くとクラムルードは勢いよく立ち上がりました。
「へ、陛下?」
「執務室に行く。イディ兄上とネストラードを呼べ。その後イディ兄上と少し出掛ける」
「え? 今からでございますか?」
もう夜も更けておりました。眠ることの無いムバクのイディやガイアスはともかく、クラムルードはいつもならば仕事を終える時間です。ましてやネストラードは休んでいる可能性もありました。
「ネストラード様は既にお休みでは……」
「寝ているなら丁度いい。気配も消せない事だしすぐに連れて来られるだろう。叩き起こしてこい」
その翌日から、万里子の食事は女王の棟に運ばれるようになりました。
それ以外は普通の生活です。午前中はレグゼスと礼の古文書を解読し、午後にはグリューネの手伝いをする――ですが万里子は気持ちが落ち着かない毎日でした。
晩餐会の翌日、重い頭を押さえて起きた万里子は昨晩の出来事をうっすら覚えていました。自分の中に燻っていた感情をクラムルードに吐き出してしまった事を、万里子は後悔したのです。
幼い頃から優秀な兄と美しい妹の影で自分の気持ちを全面に出す事がなかった万里子は、不安定な今の気持ちも極力自分の中に押し留めようとしておりました。それが昨晩、堰を切ったように溢れ出てしまったのです。万里子自身の正直な気持ちでしたが、何も言い返す事のなかったクラムルードを思うと、言ってはいけない事だったと反省しておりました。
(いつものあいつなら、絶対言い返してきてるはずなのに……調子くるうわ……)
すぐに謝りたかったのに、その日からクラムルードは万里子の前に姿を現す事はありませんでした。なんでも仕事が忙しく宮殿を留守にする事が多いらしいのです。初めは避けられているのかと気にした万里子でしたが、イディやネストラード、ジルとも会えなくなり、どうやら本当らしいと分かったのでした。
ふぅ。
もう何度目か分からない溜息を万里子が零すと、グリューネが心配そうに声をかけました。
「マール。大丈夫なの? あなたこの間から変よ?」
「え? ええと……ちょっと言い過ぎた事があって……謝りたいのに、その人になかなか会えなくて……こういうのって、日が開けば開くほど気まずくなるっていうか……少し気持ちがもやもやしてしまって……」
「そのようね。あなたの気持ちの揺らぎが染色にも出ているわ」
「えっ?」
グリューネに指摘されて視線を下ろすと、万里子の手元の布は全体的に滲んでうまく色が乗っていませんでした。
「……ごめんなさい」
「――今日はここまでにしましょう。誰にでも穏やかな気持ちではいられない時があるわ。でもね、仕事はそうはいかないのよ。次からはちゃんとできるわね?」
「はい。ごめんなさい……」
「分かればいいのよ。ではマール。気分転換に今日は私と一緒に夕食はどう? そうね。シアナも呼びましょう」
万里子はそんなグリューネの心遣いに、久しぶりに笑顔を見せました。
突然クラムルードが部屋を訪ねてきたのは、その日の夜遅くでした。
「今、いいか」
いきなりそう切り出したクラムルードに万里子は頷くしかありませんでした。
「い、いいけど……」
「人払いをしてくれないか」
「え? ひ、人……何?」
それにクラムルードが答える前に、セシュラとレニー、そしてシアナは丁寧にお辞儀をすると順に部屋を出ていきます。
パタン。
扉が閉められ、急に空気が重くなったような気がして万里子はそわそわし出しました。
「あの……この前は……運んでくれて、ありがとう……その……八つ当たりして……ごめんなさい」
「いや、構わない。あれがお前の本当の気持ちだろう」
そう断言されると、万里子は誤魔化す事も出来ません。少し迷って、小さく頷きました。
「お前の居場所は、ここには無いのか」
「え?」
驚いてクラムルードを見ると、彼は真っ直ぐ万里子を見下ろしておりました。
「お前は今の自分を根無し草のようだと言った。役目が終わったら切り捨てられるのか、とも。お前は俺がお前を神の器としてしか見てないと思っているのか。お前自身を見ていないと、そう思っているのか」
「――違うの? だってそうじゃない。クラムがって言うんじゃないの。スイルの神官だって、宝珠を見たらそれをさっさと取り上げてしまったわ。最初この国に来た時だってそう。マリーの方を姫だと決め付けて、私を帰そうとした。帰せないと分かったら、皆で押し付けあったのよ」
謝って気持ちを軽くするはずでしたのに、あの日の辛かった出来事が頭をよぎります。
「ジルさんが助けてくれた。何もしないでいいって言ってくれたけど、何も出来ない私が甘えてる事なんて出来なかった。だから地道に働こうとおもってルヴェルさんに仕事を紹介してもらったのよ。私はあの広い森の中で静かに暮らせたらそれでいいって思ってたのに……。勝手に呼んで、役割を押し付けて。お前には仕事があるからここに居ろ。スイルが煩いから向こうへ行け。あなた、私が何の感情も持たない人形だとでも思ってるの?」
質問を投げかけたのはクラムルードだというのに、また彼は何も言わずに万里子の言葉を受けておりました。
「ヤンテの神はどうして私の中に居るの? ヤンテはもう正常にこの地を照らしているように見えるわ。もし、私が器としても価値が無いものになったら……そう怖くなるのは当然だわ。存在意義をちゃんと確かめたくもなる。どこに居ればいいのか分からずに言われるがままに居るなんて不安だもの」
「俺がお前に居て欲しいと思う。それでは答えにはならないか」
「それは王様だからで――」
「好きだ」
「――え?」
「お前が、好きだ。だから俺の目の届く範囲で守りたかった。ここを居場所にしろ。この棟は……お前の物だ。お前以外、この棟の主には認めない」
万里子の頭は混乱しました。思わず後ずさりした万里子を、クラムルードの腕が阻みます。
「言葉だけでは不満か。行動で示せば理解するか」
万里子が反応するよりも早く、クラムルードの唇が降りてきて万里子の口を塞ぎました。突然のことに驚き、見開いた万里子の目に燃えるように紅いクラムルードの目が写りました。角度を変え、益々深くなった口付けに、やっと叩いて抵抗を見せる万里子でしたが、その時にはクラムルードの長い腕にしっかりと抱き締められており、うまく腕が上がりません。次第に息が苦しくなって開けた口に、“何か”が入り込んで一瞬の内に万里子の体内を熱が駆け巡りました。
「んん……!」
逃れようと顔を背けようにも、クラムルードの唇はそれを執拗に追いかけます。
遂には万里子はクラムルードの腕の中でくったりと力が抜けてしまいました。
熱さに顔を歪める万里子を、そっと長椅子に横たえると、クラムルードは額の髪をはらい、そっと口付けを落としました。
「ならば、イルーに行けばいい。お前の不在も少しは誤魔化せるだろう。――この髪のように」
万里子の髪は徐々に変化し、今では淡いグレーにまで色が落ちておりました。ぼんやりとクラムルードを見詰める瞳は黒のままです。
「瞳はそのままだったか……」
体内の熱を放出しようと、万里子は苦しげに身を捩ります。きゅっときつく閉じた瞼をそっと手の平で押さえ、再び額に口づけすると、万里子はすぅっと眠りに落ちていきました。
先程までの苦しさはどこへやら……穏やかな寝息をたてる万里子を、クラムルードは暫く眺めておりました。
「熱に浮かされて、俺の言葉も、口付けも、お前は忘れるんだろうか……」
名残惜しそうにもう一度祈るように唇を合わせると、クラムルードは立ち上がり部屋を出て行きました。
『言葉だけでは不満か。行動で示せば理解するか』
万里子の願いを聞き、イルーに旅立たせる事が、クラムルードの万里子への愛の形だったのです。