81.根
万里子とレグゼスはその日からその分厚い古文書を中心に解読を進めました。とは言いましても、万里子にイルー古語は分かりませんから、レグゼスの言葉を文字にしていくだけですが……。
それで分かった事は、儀式に連れて行くのはイルー人の子供達だけで、キリエが決めていたという事。選ばれるのは少女が多く、選定されない年も多かったという事でした。
「では、ライカさんが選ばれたというのはとても珍しい事だったんですか?」
「そうじゃのう……。特にライカはキリエに選ばれて儀式に向かったのではなく、闇の森へと連れて行く案内役として神殿に同行しただけなのじゃが……。翌日、戻って来た時、ライカが星詠みになったと告げられたのじゃ」
(そういえばクロエの日記にも、儀式を強行するためライカとライアンに神殿に連れて行ってもらったと書いてあったっけ……)
「神官長さえ行けない儀式なのに、どうしてライカさん達は儀式に同行できたんでしょう?」
「ああ、それは簡単じゃ。神殿の鍵は神官が持っておるからの。キリエがいくらイルーの長であって皆の尊敬を集めている人物だと言っても、神殿は神官が管理する事になっておる。儀式にライカとライアンを同行させたのは、二人ともまだ神官見習いの身で少年だったからじゃ」
そうしてライカが星詠みに選ばれた――万里子は宮殿前の広場で会ったライカを思い浮かべました。フードを取って軽く頭を下げた青年……ほんの一瞬目が合っただけでしたが、なぜか印象深い青年でした。
淡い青色の髪を無造作に紐で縛り、フードを取った時長い前髪がハラリと真っ青な瞳にかかりました。これといって特徴の無い風貌のライカ……星詠みに選定された人物……イルーに行けば彼にも会えるのです。万里子はイルーに行きたいという気持ちが高まりました。
ですが、やはりそれは簡単な事では無かったのです。
* * *
「だめだ」
「どうしてですか? 次の季節の儀式にはまだ少し間があります!」
レグゼスの言葉通り、クラムルードは即答しました。それでも万里子は食い下がりましたが、これにはさすがのネストラードとイディも反対しました。
「マール、よく聞いて。レグゼスは今の時期海が凍ってしまってイルーに行く方法が無いと言わなかったかい?」
「そ……それは……」
「じゃあマール。こうしよう。春が来て氷が解けたらまた僕と一緒に行こう。ね? それならいいでしょう? クラムルード兄上」
「だめだ! 星詠みの助言無しに海を渡る事は許さない」
それにはネストラードもむぅ、と口を尖らせましたが、クラムルードの強固な態度に諦めたように嘆息しました。
「マール。マールはさ、どうしてそんなにイルー行きに拘るの? いままでそんなに物事に固執した事って無かったじゃない。僕も春になったら……って思ったけど、兄上の言葉も分かるんだよね」
「え……そう……かな?」
改めてそう言われると、自分がとても不安定になっている事に万里子は気付きました。
「ただ……ただ、今まで全てがぼんやりと流されるままにきてる気がして……自分の意思もあるんだけど、居場所とか? 存在意義とか……なんだろう……私はこれでいいんだって、ここで頑張ってていいんだって、自信が無いの……」
気持ちが沈んでいた万里子を心配し、夕食の後に万里子の部屋にやって来たネストラードは万里子の気持ちが思った以上に不安に揺れている事を知りました。自分を勇気付けてくれ、大きな決断をさせてくれたのは万里子でした。そんな万里子の力になれないのはネストラードにも辛い事でした。
「でもねマール。その古文書に書かれていた儀式の内容は確かに気になるけど、マール自身がそんなに気にする事かな? 第一星詠みと依代は全然違う役割だよ。何か関係があるかもしれないっていうのは、マールの考えすぎじゃないかな」
「そうかもしれない……けど、そうじゃないかもしれないって思うの。そう、思いたいだけかもしれないけど……ねえ、王都にはもう星詠みは居ないって聞いたけど、本当かしら?」
「うん……確か闇の時代にはまだ何人かの星詠みが居たよ。それでレグゼス達も戻って来れたんだよね。でも少し前に最後の一人が亡くなってしまったんだ」
万里子はションボリと肩を落としてしまいました。
(このまま……この不安定なまま、ここに居る事になるのかな……)
それは一度は覚悟した事ではありますが、大きなヒントを前に万里子の心は揺れていました。
それから数日、万里子はクラムルードに何度もお願いしてみましたが、クラムルードは首を縦に振ろうとしませんでした。
とある日の夜、グランデや他の有力貴族も招いての晩餐会が催されました。クラムルードに再度直訴しようにもいつもより席も遠く、シアナの同席も許されず、万里子は微笑みを顔に貼り付かせ、食べ物を口に運ぶしかありませんでした。
周りを見ても、知らない大人達ばかりです。彼らは万里子に興味津々でしたが、グランデの言葉を信じ万里子を婚約者だと信じておりましたので、遠慮して積極的に話し掛けてくる者はおりませんでした。
豪華な食事も、着飾った貴族達、本音を見せない上っ面だけの会話、皆が同じ表情でそれでも楽しげに時は進んでいきます。万里子はそれを観客になったような気持ちで眺めておりました。
いつもよりも豪華な料理の数々は目にも楽しいものではありましたが、今の万里子には味もそっけもない物のように思えます。すると、少し離れたところに見慣れぬ料理が置かれているのが目に入りました。
(なんだろう?)
それは紫色の丸い食べ物です。前の世界に居た頃好きだった巨峰に似ていて、ついつい万里子も手が伸びます。
それは口に入れた途端にプチンとはじけ、とろりとした液体になりました。果実のような甘い香りが鼻に抜け、液体は喉を潤します。
(コレ……美味しい! 食べるジュースみたい!)
会話に入れないのをいい事に、万里子はポイポイと口に入れ、その冷たくて甘い液体を堪能しておりました。
「オイッ! お前、何を食べている!」
「え? これはぁ、らんかおいひいんれすよー」
顔を赤らめ、ろれつが回らない万里子を見てクラムルードは慌てますが、当の万里子はちゃんと話せていない事にも気づいていないようです。
「ああ……! 殆ど残ってないじゃないか! お前、何個食った!?」
「あああー! とららいでくらさいよ!」
「うるさい! お前、これは酒だぞ! そんな事も知らないのか! おい、シアナはどこだ!?」
クラムルードの問いかけにグランデは面白そうに笑いました。
「シアナは同席させておりませぬ。私がそんな野暮な事をするとでも? ここはやはり陛下がお送りするべきでございましょう」
ニヤニヤ笑いながら言うグランデに、今宵の晩餐会はグランデが企画したものだと気付いた時にはもう遅かったのです。
勢いにまかせて立ち上がった万里子は、足元がふらついて咄嗟に椅子に掴まりました。
「おい! ちゃんと立てないのかよ。ったく……。誰か……」
「おやおや。婚約者を他の者にまかせるなど……」
グランデにそう言われると他の貴族は何も言えません。事実万里子が滞在しているのは女王の棟です。そこはおいそれと近づけぬ場所。何人かがお互いの顔を見合わせましたが、困ったように肩をすくめただけでした。
「くそっ! おい、いくぞ!」
「あっ! やら! まだのみひゃい!」
「この酔っ払いが!」
強引に手を引くと足がもつれてしまう万里子に、クラムルードはチッと盛大に舌打ちするとすばやく屈んであっという間に万里子を抱き上げました。
「ひゃあ!?」
万里子は驚いたように声をあげましたが、相当酔っているのか、相手がクラムルードだというのに抵抗は見せず大人しく運ばれていきました。
「セシュラ! セシュラはいるか!」
「は、はい……! まぁ、姫様! これは一体何が!?」
女王の棟で万里子の帰りを待っていたシアナ、レニー、セシュラは顔を赤くしてクラムルードに抱き上げられている万里子を見て驚きました。
「酔っ払いだ。酔い覚ましの薬茶を用意せよ」
「畏まりました!」
慌ててセシュラが部屋を出ますと、シアナがクラムルードを先導して万里子を寝室へと運びました。
「お持ちしました」
「よし。よこせ」
万里子の背に腕をさし入れて体を起こすと、強引に口を開けさせ薬茶を飲ませます。飲物を欲していた万里子の喉はそれをすんなりと受け入れ、クラムルードはホッと安堵の溜息をつきました。
「お前な……なんて事するんだ」
「うう……なんでクラムがここに……」
ぼんやりと辺りを見渡す万里子を見て、クラムルードはシアナ達に退室を命じました。
「お前は何がしたいんだ。どうして俺を困らせる。どうしてイルーに、紅い石に固執するんだ? お前の身体は神の物でもある。ここに居るのが安全で、ここに居る事がこの世界の願いなんだ。なぜ、それが分からない!?」
初めはぼんやりとしていた万里子の瞳は、クラムルードの言葉が刺さったのでしょうか。どんどん潤んで苦しそうに顔を歪めました。
「あんたに……あんたに、何が分かるっていうの! 何も知らないくせに! どうして私だったのよ!? どうして家族から引き離されたのよ!? 私がここに居るべきって言うなら、どうして最初に見つけてくれなかったのよ!」
万里子が吐き出す言葉に、クラムルードは答えられません。父の代の事とはいえ、積極的に政治に関わらなかった自分の非もあります。ましてやヤンテの問題は神の領域。クラムルードに答えられるはずがありませんでした。
「どうして石があるの!? どうして取れないの!? なんで答えないのよ!」
万里子は箍が外れたように言葉が止まりません。
「あんたはいいわよ。迷っても、悩んでも、ここがクラムの居場所じゃない。しっかり根付いてるじゃない! でも私は? あっちこっち行って、政治に利用されてやりたくもない儀式をやらされて。ふらふらふらふら。まるで根無し草みたい。居場所なんて無い!」
「ここをお前の居場所にすればいいだろう! お前が過ごしやすいようにしてやる! お前こそ、どうして分からない! 俺の! 俺達の、ここに居て欲しいって気持ちがどうして分からない!」
クラムルードの必死の言葉も、今の万里子には伝わりません。
「なんで私なのか、どうしてなのか、知りたいの! それを……知らずにここに居ろ。ここに根を張れって!? どうして“ここ”なの!? 自分の居場所も自分で決められないの!? ならせめて、私に納得させてよ! どうして皆して振り回すのよ!」
叫び疲れたのでしょうか。万里子は急に大人しくなると、どんどん溢れる涙を拭う事もせずにクラムルードを見上げました。
「不安なの……。役目があるって言われても、スイルでの儀式では神は出てこなかった。全ての国に神殿が出来て、以前のような信仰心が国民に戻ったら……? 私は切り捨てられるの? せめて、私である理由と役目を自分自身で知りたいって思うのは、そんなにいけない事?」
万里子の項垂れた様子に、クラムルードは何も答える事が出来ませんでした。
「……疲れてるんだよ。お前、頑張りすぎなんだ。今日はもう寝ろ」
やっとクラムルードがそう言うと、さすがに疲れたのか万里子も反論せず、大人しく横になるとあっという間に寝息をたてました。