80.星詠みの儀式
「……」
「……」
「…………」
「……ご馳走様でした」
「……おい」
「……」
「おい」
「私、“おい”じゃありません」
そう言い返した言葉に対しての返事はありません。万里子は何か言いたそうな顔をしましたがその代わりに小さくお辞儀をすると席を立ちました。急いでシアナも後を追います。
パタン
「あの料理は何だ」
給仕の男に訊ねると、男は狼狽しながらもなんとか答えました。
「は……はい! これはナウルブーレという料理で、サイナの郷土料理だそうであります」
それは沢山並べられた料理の中で、唯一万里子が三個食べた料理でした。
「そうか。姫が好きなようだ。そのように料理長に伝えよ」
「はいっ。畏まりました!」
給仕の男は自分のように嬉しそうに笑うと、素早く料理を下げました。
それを見届けると、クラムルードは乱暴に髪をかきあげました。
「くそっ」
「まったく……もう少し優しく話し掛ければ良いだろう」
「兄上……」
その料理が好きなのか、そう聞きたかっただけなのですが……。
「う、うまく話せないんだ。優しくと言うが……若い女と話すのに慣れていないんだよ……」
悔しそうに万里子が出て行った扉を見ますが、万里子が戻ってくる事はありませんでした。
その頃、女王の棟に向かって足早に歩いていた万里子はなぜだか泣きそうに顔を歪めておりました。それに気付いたシアナが心配そうに訊ねます。
「大丈夫でございますか? 体調がそぐわないのでは……? 午後はグリューネ様にお願いしてお休みを頂きましょう」
万里子はシアナの言葉にすぐに首を振りました。
「お休みはしません。今、分からないけど胸の中がぐちゃぐちゃなんです。なんでこんなに混乱してるのか、なんでこんなに苦しいのか――」
「大変。先程の食事でお口に合わないものがございましたか?」
「違うんです。違うんです。なんか分からないけど……」
「やはり少し休まれた方が……」
「休みません。今は……一人になりたくないんです」
一人になったらぐちゃぐちゃの気持ちは自分の中で破裂して、外に飛び出してしまいそうでした。万里子はそれがとても怖かったのです。
クラムルードの視線がむず痒くて、一緒に居ると平静ではいられなくなってしまいます。グリューネの手伝いが花嫁修業などでは無いとグリューネが笑い飛ばして否定した事で、万里子の誤解だったと判明したのですが、それを謝れずにおりました。混乱した想いを忘れるには、何かに打ち込む事が必要でした。午前中の資料の解読作業と、午後の染色の仕事はそれにうってつけだったのです。
* * *
この日の朝も、万里子はレグゼスと共に資料の解読を進めておりました。
一ページずつ丁寧に読み、何も目新しいものは見られなかったのか、レグゼスは静かに解読済みの山にその資料を乗せました。
そんなレグゼスの様子に変化が訪れたのは本日二冊目の少々分厚い本を開いて暫くしてからでした。
「ん? これは……」
声色に硬さを感じ、万里子がレグゼスを見ますと、当のレグゼスは万里子の視線にも気付かない様子で資料を食い入るように読んでおります。
「レグゼスさん? 何か書いてありましたか?」
「…………」
「レグゼスさん?」
「――“星詠みの儀式の夜、ヤンテから光が放たれ、選定された星詠みに赤い宝玉を与える”」
「えっ!?」
万里子は思わず大きな声を上げました。
無意識の内に両手は自身のお臍を押さえます。今レグゼスが言った事は万里子の身体の特徴そのものでした。
「レグゼスさん……っ! 他には……他には何て書いてあるんですか?」
その問いに、レグゼスは言葉を吟味しているようでした。イルー古語は、現代の大陸の言葉とは文法が違うらしく、順に訳しても言葉にはならないようです。その為レグゼスは充分に文章を読み、少しずつ頭の中で分を組み立てる必要がありました。
「“宝玉を賜った者は不思議は力を授かる。その宝玉はその者の身から離れる事は無い”」
「これ……! 私のお腹にある紅い石、外せないんです!」
「ですが……これはイルーに伝わる星詠みの儀式に関する資料のようですがの……。確かに姫様がお持ちの石に似ているようではありますが……。それに、大きな違いがございます」
「えっ! 何ですか?」
「姫様は、ヤンテの依代であらせられます。しかしながら星詠みは、星詠み。私も長年イルーで星詠みに選定された者と接して参りましたが、その名の通り星を詠む力はありましたが、その身にヤンテの神を宿すとは……いやはや、姫様が異世界から召還された事を考えても、同じとは思えませぬな」
レグゼスの言う事も分かります。確かに万里子はこの世界の人間ではありません。ここに書かれている宝玉と、へそピアスのようにお臍の少し下に付いているこの紅い石が同じ物とは思えません。冷静に考えるとレグゼスの話は尤もです。でも、万里子は何かあると感じました。そのヒントはイルーにあると思えました。
「レグゼスさん、私……イルーに行きたいです」
「姫様……」
「無駄になるかもしれません。でも私、イルーに行ってキリエに会ってみたいです」
ですがレグゼスは難しい顔をして首を横に振るだけでした。
「どうしてですか? キリエはそんなに難しい人なんでしょうか? だって、その星詠みの選定はイルーに派遣されている神官長も関わる事が出来ない極秘事項なんですよね? どんな基準で候補者が決められてるんでしょうか? 選定される人ってどんな人なんでしょうか?」
分厚い資料のたった一文で、万里子の胸は高鳴りました。頭には次々と疑問が浮かびます。
「キリエを慕って助手をしているクロエさんは選ばれなかったんですよね? じゃあ信仰心ってわけじゃないですよね? それに……」
「それに?」
「レグゼスさんは、ヤンテが消えてから儀式は行われていなかったって言いました。それはクロエさんの日記にも書かれていました。内緒で儀式をやってみても、誰も選定されなかったって。それは空にヤンテが無いからだって。闇の森の伝説って何でしょう? レグゼスさん、知ってますか?」
「いや……それらは全てキリエの管轄じゃ。我々はその儀式を滞りなく行う為の、盾でしかなかった。イルーにほんの僅か存在する他国の人間の関心を、闇の森に向けさせない為の、盾だったのじゃ。闇の森に関してはキリエが法の全てじゃ。我々は関わる事を許されてはおらぬ」
イルーに行かなければ――。
最早万里子はそれしか考えられなくなりました。
何故、自分だったのか。この石は何なのか、何故何も知らないままここに居るのか。そして……元の世界に戻れるのか……。長い長い時間が経っておりましたが、万里子はヤンテの依代であると言われた今でも足元がとても不安定に感じておりました。
季節の変わるその日に、決められた神殿で儀式を行う……前回のスイルでの儀式のように、宝珠を与えられるかもしれません。それでも、その為だけに万里子は家族から離されてしまったのでしょうか? 何故、万里子の身体には生まれつき紅い石があるのでしょうか……。その答えは、イルーに……いえ、イルーに居るキリエが持っているのだと強く感じたのです。
「でも私、行きたいんです。行かなきゃいけないって、そう思うんです」
万里子がそう強く訴えると、さすがのレグゼスも心を動かされたようでございます。ですが少し考える素振りを見せ、困ったように微笑むとやはり首を振りました。
「姫様……。姫様のお気持ちは痛い程に分かります。急にこちらの世界に呼ばれたその答えがイルーにあるとお考えなのでございましょう? ならば知りたいと思うのが当然でしょう。ですが……今は無理なのです」
「え……」
「季節は秋から冬に向かっております。秋から春までは、海は厚い氷が張り、当然船は動けません。イルーに渡る手段が絶たれてしまうのですよ」
「そんなぁ……」
「それに、船で渡れる季節でもイルーへの行程は厳しいものになるでしょう。イルー人ですら星詠みの助言無しには海を渡る事など出来ぬのです。以前なら、王都のある大陸側にも星詠みは派遣される事はありました。じゃが闇の時代、星詠みの選定は為されなかった為、今は星詠みの存在自体が希少なのじゃ。王都にはおらんのです。そんな状況ではたとえ海が凪いでいたとしても、陛下は渡航を許されないでしょう」
せっかく大きく謎に近づけたと思いましたのに、万里子はがっくりと項垂れてしまいました。