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8.名前を捨てる時

さて。


目の前には、車輪の無い木造のハコ。見た感じ、中は畳2畳位?

真四角の、ベニヤで作ったようなハコで、左右に小さな穴(窓と言うべきか?)

が開いていて・・・何の飾りもない、ただのハコが浮いている。


スホに繋がれふかふか浮いているこのハコをじっと見つめ、万里子は一体コレに

どう乗るべきなのか??と真剣に考えておりました。


ジルはその様子を横目に、くすりと笑い、ひらりと馬車の狭い入り口にその身を滑り込ませ、

万里子に手を差し伸べてきました。


「さぁ、姫。お手を」


姫では無い。と言ったのに、ずっと万里子の事を姫と呼び続けるジル。

その呼び名は、万里子にとってはどうにもこそばゆいものでございました。


どうしたものか。と中途半端な高さに上げた手を、ぐい。とジルに強く引かれ、

バランスを崩したまま馬車に前のめりに飛び込む形になりました。


ぶつかる!!


思わず強く目を瞑る万里子ではございましたが・・・


どふん。


そこは大小の色鮮やかなクッションが並ぶ、座面部分が広く作られた巨大なソファのような物。

その上に、うつぶせに倒れこんでおりました。


板にぶつけると思っていた低い鼻は、真四角の淡いブルーのふわふわクッションに

ふんわりと包み込まれています。


簡素なハコは、ジルの術によって豪華なリビングのようになっておりました。

その広さも外観を無視し、巨大なソファがふたつ向かい合わせにあり、その間には

テーブルにでもなりそうな、側面に豪華な装飾を施した長方形のハコ。

軽く、8畳はありそうです。

ジルは、万里子の倒れこんだソファの向いソファに、靴を脱いでゆったりと座り込みました。


どうやら、この座面が広いソファは靴を脱いで上がりこんで使うらしい。

ずっと裸足だった万里子にはとても有難いものでした。


起き上がり、ゆったりと座り直すと窓から涼しい風が入ってきました。

穴ではありません。外からは単なる四角い穴だったのに、車内からはパステルカラーの

薄布が幾重にも垂れ下がり、外からの強い夏の陽射を柔らかく車内に差し込ませておりました。


どうやらスホが馬車を引き、走り出したようです。

ジルの言う通り、揺れが全くありません。ですが窓から吹き込む風で馬車が進んでいる事を知りました。


この国の事は何も知らないけれど、更に知らない場所に行こうとしている。

少し不安だけれど、この世界に慣れて生きていかなければ。

それにはまず、この世界の事をもっと知らなきゃ。


「あたし、ここで何とか生きていかなきゃいけないんです。

ご迷惑なのはわかってるんですけど・・今はジルさんしか頼る相手がいないんです。

あの、お願いします。この世界の事、色々教えてください。」

万里子は巨大なソファの上で居住いを正し、ぺこり。と頭を下げました。


ジルは驚きました。

万里子が残されたのをいいことに、さっさと連れ出したのは自分だったので、

我ながらずるかったかな、と少し良心が痛みました。


「宮殿に行って、名乗り出なくて良いのですか?」


一応、聞いてみました。これで「行かない」と言えば、自分が連れ出す事も正当化されると思ったのです。


「あの。《姫》って一体何をするんでしょう?」


実はそれは、誰も知りませんでした。

ヤンテの姫が存在するなど、過去にもありませんでしたし、言い伝えなども無かったのです。

ジルが祖父の言葉を聞き、初めて知られた事でした。

ですから、具体的に何が出来て、どのような存在なのか、誰も知らなかったのです。

ですから、ジルは想像した事を告げました。既に決定事項として。


「毎朝、宮殿のバルコニーから国民に挨拶をします。

そして午前中は謁見の間で、国民や各国から訪れる客人と会ったり、会議に出席する事もありますね。

午後は貴族の奥様方と交流し、時には病院などを周ります。

あぁ、肖像画と彫刻の制作もございます。国の宝として宮殿に飾られます。」


どんどん嫌そうに顔をしかめる万里子を横目に、どんどん話を続けるジル。

既に万里子の答えは、ジルの望む方向にあるようでしたが・・・更に追い討ちをかける事にしました。


「あぁ、最大のお仕事は王子との婚約です」


「こ、こんやく!」


「今年56歳の・・」


「む、無理です。あたしはここで自立する道を選びます!第一!姫じゃありませんから!」


今年56歳になるのは王であって、王子は見目麗しい20歳なのだが、まぁ訂正しなくても

良いだろう。

それに、わざと勘違いするような言い回しにしたのだから。

やっぱり、ジルはずるいのです。


「では、まず新しいお名前が必要です」


「名前?」


「ええ。ヤンテの姫が《サトウマリコ》という事は、既に国民全員が知っていますからね。

同じでは何かと不便でしょう。」


名前を変えなければいけない・・・それは本当に、今までの生活を切り捨てなければ

生きていけないという事でございました。


「何か、候補は無いですか?」


そんな事を突然言われても、全く思い浮かばない。


「あ。小さな頃、まるこって呼ばれてました」


幼い頃から面長で繊細だった顔立ちの兄妹とは違い、丸い顔立ちだった万里子は

同じ名前の伯母との違いをつける為、親類から《まるこ》と呼ばれておりました。


この頃はとても嫌だった呼び名でしたが、今、他に何か名前を――そう言われた時に、ふと思い浮かんだのはこの呼び名でした。


少しでも、今までの自分を忘れたくない・・・。


その思いがジルにも分かったのでしょうか。


「ではマールにしましょう。その方が、この国らしい名前です。目立ちませんよ?」


「マール・・・」


新しい名前・・なんだか不思議でした。自分でもそっと言葉にしてみると、それはどこか懐かしく感じるものでした。

そう、ずっと昔、誰かにそう呼ばれていたような――



窓からの陽射はいつの間にか無くなり、外は夜になったようでした。

風も、入ってくる事は無くカーテンのような役割をしていた薄布は、揺らいでいませんでした。

でもそれは、スホが足を止めていたから・・・


『申し訳ありません。盗賊のようです。取り囲まれました』


車内に、というより、頭に直接響くような低い声が聞こえました。

ジルは、チッと舌打ちすると万里子に決して出ないように言い含め、外に飛び出しました。


万里子は車内に1人取り残されました。



意外とずるいジル。

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