78.真心か、罠か
「レグゼスさん。これは何でしょう?」
万里子は比較的新しい帳面を取り出すと、向かいで古ぼけた巻物を読みふけっているレグゼスに差し出しました。
「ふむ……これですかな?」
レグゼスは万里子の手元を覗き込みます。
万里子が見つけたものは、丸いものが中心に描かれた絵でした。横に注釈のようなものがあり、宝珠の事ではないかと思ったのです。ですが、レグゼスは残念そうに首を横に振りました。
「違いますな。これはヤンテの一日の光量の違いを書いておる絵ですなぁ」
「そうですか……」
レグゼスの言葉に、万里子も肩を落とします。
万里子のサロンはすっかり勉強部屋となり、傍らにはまだ解読できていない資料や文献が積まれている。宮殿にイルー古語を解読出来るのはレグゼスしかいない為、解読作業はとてもゆっくりゆっくりと進めていくしかありませんでした。
万里子もその手伝いをしようと一緒に資料を見てはおりましたが、先ほどのように絵があるものしかわかりません。
「レグゼスさんの方は何か気になる記述ありますか?」
「興味深いものはございますが、どれも宝珠に関しては書かれておりませぬな……。しかしまあ、資料はまだまだある事ですし、諦めるのは早いですぞ」
「はい……」
がっかりしたのが分かったのでしょう。レグゼスは万里子の肩に手を置くと、そう言って慰めました。
「ですが、今日は少し頑張りすぎたようですの……。少し目が疲れもうした。続きは明日に致しましょうかの」
「あ、ハイ」
レグゼスは高齢の為に目が疲れやすく、難解なイルー古語の解読は午前中のみとしておりました。それもあってなかなか解読作業は進まないのですが、今はレグゼスに頼る他方法がありません。万里子はレグゼスにお礼を言うと、扉まで送りました。
部屋に戻って丁寧に資料を解読済みとまだの物に分けてみると、ちょうど半分位解読を終えたようです。
万里子はレニーが昼食の時間を知らせるまでの間、それまでに解読したものを帳面にまとめました。勿論、この大陸では読めない日本語で書いています。イルー古語で大事に記された物を、こちらの言葉で簡単に伝えていいものか迷った挙句の方法でした。その時、万里子はなんだか前にもこんな事があったような、不思議と懐かしい思いがしました。
(なんだろう……前もこうして他の人が読めないようにって……あ!)
万里子はサイナの街を出て王都に向かう際、イルー人を装う事になりその為の設定等忘れてはいけない事を帳面に書き込んでいた事を思い出しました。
それは結局、もうひとりのマリコが消えてしまった事で、万里子がヤンテに選ばれた姫だとバレてしまった事で無駄になってしまったのですが……。
(そういえば、あれはグリューネさんにもらった鞄に入っていたんだった……。そうだ。ジルさんにもらったペンダントも、ルヴェルさんが作ってくれた綺麗な若草色の衣も……。始めて自分で染めた布で作った普段着も、全部全部、入っていたのに……)
この世界に来てから少しずつ増えていた思い出が殆ど詰め込まれた万里子の鞄は、この膨大な量の資料と入れ替わりに、イルーに運ばれてしまったのです。
(この鞄を返して、私の鞄を返してもらわなきゃ!)
式典の後、ずっと身につけていた時計も失くしてしまい、万里子はとても寂しい思いをしてきました。在り処は分かるのですから、鞄は取り戻したいと考えておりました。その為には、資料の中から宝珠の記述を見つけ出さなければなりません。
「でも、『急いては事を仕損じる』って言うしね。これ以上レグゼスさんに無理させられないわ。宝珠の秘密が分かったら、ジルさんに頼んで私の鞄がイルーにあるかを確認してもらおう」
そこにレニーが万里子を呼びにやって来て、万里子は帳面を寝台の枕の下に隠しました。
* * *
午後になり、万里子は本棟に向かいました。
部屋から移動する時は、大体シアナと護衛のドリーが一緒です。午後に本棟に向かうのは日課になっておりましたが、それでも必ず二人が一緒でした。
向かう場所はグリューネが居る衣装部です。本棟の両端にはそれぞれ宮殿で働く兵士や女官の部屋がありましたが、衣装部という大きな仕事を任されているグリューネは、サイナの長という身分もあり、二間続きの客室があてがわれておりました。手前のサロンは、グリューネの新たな作業場として大きな作業台が運び込まれています。サイナの作業小屋と較べると、いくら宮殿といえども多少手狭ですが、それでも万里子にとっては数少ない安らげる場所でした。
「グリューネさん。こんにちは」
「いらっしゃい。マール」
笑顔で迎えてくれたグリューネの豊満な胸に抱き締められ、万里子もグリューネの背中に手を回します。
ドリーは部屋に入らずそのまま扉の前に立つと、万里子に小さく礼をしました。
「昨日染めた布はムラも無く綺麗に乾いたわよ」
「本当ですか? 嬉しい!」
室内に入ると、窓辺に広げられた真っ青な布地が午後の明るい光を受けておりました。
「わぁ! 思った以上に青色が残っていて嬉しい!」
子供のように目を輝かせて喜ぶ万里子を見て、グリューネも顔をほころばせました。
儀式以外では宮殿から出る事が叶わず、王妃の棟に閉じこもり気味だった万里子は、時間が空く午後にグリューネの仕事を手伝う事を許されたのです。
その子とをグリューネに聞かされ、万里子は大喜びでその日から仕事を始めたほどでした。
「濃い色を均等に出す事はとても難しいのよ。やはり精霊はマールがとても好きなのね」
布を染めるには植物の配合が難しいのですが、植物の言っている事が感覚で分かる万里子は向いているのかもしれません。植物の声が分かると感じたのは、ルヴェルが無理矢理木々を動かし万里子の行く手を阻んだ時でした。あの胸が張り裂けそうな悲しげな叫び声が聞こえてから、頭の中の直接感覚として伝わるようになったのです。
「私だけの力じゃないけど……とても嬉しいです」
万里子の穏やかな表情を見て、グリューネは安堵しました。
「陛下のお考えは間違っていなかったようだわ……。あなたがヤンテの依代として大きな使命を課せられてがんじがらめになってしまう事、とても気に病んでらっしゃるのよ?」
「え? 何か言いましたか?」
万里子は嬉しそうに真っ青な布地を広げてシアナの体に当てて衣もデザインを考えておりました。
どうやら、この色はシアナをイメージして染めたようでした。
「あらあら。張り切ってるわね。あなたも依代としての責務から離れられる時間が必要だと言ったのよ。全てを抱えてちゃいけないわ。見える物も見えなくなってしまうし、私もとても心配だもの」
「……ありがとうございます。グリューネさん……私、こうしてまたお手伝い出来るのがとても嬉しいんです」
「そうね……私もとても助かるわ。マール、では今日は糸の染色をお願い出来るかしら?」
「ハイッ!」
大きな糸の束を二つカゴに入れると、万里子はそのカゴを両手に抱えました。
「マール様、私が持ちますわ」
シアナがすぐに代わろうとしますが、万里子はすぐに首を横に振ります。
「ううん。いいんです。グリューネさんがこの布地を使ってシアナさんに衣を作ってくれるんです。だから採寸してもらわなきゃ! 泉はここのすぐ裏にあるので一人で大丈夫ですよ!」
「そうですよ。あなたは今日はこっちに付き合って頂戴。マールはあなたにお礼がしたいのですって」
シアナは戸惑ったように万里子を見ました。
「マール様……」
「あの、いつもお世話になってるお礼がしたかったんです。本当は自分で衣を縫えたらいいんだけど、それにはまだまだ修行が必要で……だから、今回は染めるだけでもやりたかったの。ね? いいでしょう? もし心配なら、ドリーさんに頼んでついてきてもらうから!」
ドリーと一緒であれば心配は無いだろうと判断し、シアナは万里子に頷きました。
「ドリーさん。裏の泉で糸の染色がしたいんですけど、ついて来てもらえますか?」
わざわざ言わずともドリーは万里子を一人にするはずがありません。ですがちゃんとお願いする万里子をドリーはとても好ましく思っており、珍しく微笑んでカゴを取りました。
「カゴは私がお持ちします」
「あ、ありがとうございます!」
グリューネの部屋のすぐ裏にはサイナにあったような小さな泉があり、横の東屋には染色の道具が用意されています。沢山並んだ大小の木製のタライには植物から抽出した液体が入っておりました。
「これは全て姫様が抽出されたのですか」
「そうですよ? 今日は濃い青色と薄い水色に染めるんです」
万里子は東屋の目的のタライに糸をつけて染色を始めます。ドリーは東屋の外に出て見張る事にしました。
少しするとドリーの声が聞こえて万里子は顔をあげました。
「どうしたんですか?」
「宰相閣下がこちらに向かっております」
「グランデさんが?」
東屋の外には宰相のグランデがおりました。
「姫様、花嫁修業の方は進んでおるようですね」
「は?」
万里子が怪訝な顔をしてグランデを見詰めます。
「陛下が姫様に花嫁修業をさせると言っておりましたぞ。それには慣れたグリューネの下でさせるのが良いとの事で、さすがの私もそれは大変良い案だと関心致しました。裁縫は高貴な女性には相応しい趣味ですぞ」
なんと、グリューネの手伝いを認めたのは花嫁修業だと言うのです。クラムルード自身この婚約はあんなに嫌がっていたはずなのに――まんまと罠に嵌められたのだと、万里子は頭が真っ白になりました。