77.帰国
儀式を終えて帰ってきた万里子を、見送った面々が同じように並び出迎えました。
皆が心配そうに様子を窺っておりましたが、万里子の顔を見て一様にホッとしました。
「雰囲気が、変わったな。あの時の俺の判断は……やはり間違っていたのかもしれない」
「――兄上」
イディが小さく呟いた言葉を、クラムルードはしっかりと拾っておりました。
イディが言う通り、陸船から降り立った万里子は凛とした雰囲気を漂わせておりました。自分の意思で行動した事が影響しているのかもしれない……イディはそう考えました。
(あんなにも弱々しかったのに……守ろうとした事は、マールを潰す事になったのだろうか……)
一世一代の告白をしたあの日、イディは共に逃げる事で万里子が重圧から解き放たれ、屈託の無い笑顔を見せてくれるものだと信じていました。その為、何よりも大切だった弟を裏切る覚悟をして、逃亡の為の路も用意したのです。でもそれは、単にマールを手に入れたいが為の自己中心的な物であったのだと、気付きました。
目の前でレニーとセシュラに出迎えられ嬉しそうに微笑む万里子は、見た目は全く変わっておりません。はにかむような微笑みと、大勢に出迎えられてその身を縮こまらせる仕草も旅立つ前と同じです。ですが、纏う空気がほんの少し違うのです。それが、自分が攫うように逃げていては、纏う事の出来なかった物だったと痛感し、イディはこの気持ちが成就する事は無いと悟ったのでした。
「彼女を潰してしまう未来ならば、俺は――この想いを封印するしか無いのだな」
「…………」
クラムルードはイディの呟きを、心の中で繰り返しました。
想いを遂げる事は、彼女を潰してしまう事。ならば、この想いを封印しよう――それはとても悲しい言葉でした。
やがて、万里子はクラムルードとイディが居る方に目を向けました。
万里子がやって来ると、イディはクラムルードの半歩後ろに下がり、臣下の礼を取りました。
初めは驚いたように目を丸くしていた万里子でしたが、その意味が分かったのでしょう。少し寂しそうに眉を下げると、丁寧にお辞儀をしました。
教えられたラウリナのぎこちない礼をするよりも、日本式のお辞儀の方が気持ちが伝わるような気がしたのです。
ゆっくりと上体を起こすと、イディが温かな瞳で万里子を見ていました。
「兄上! ただいま戻りました」
一緒に戻ってきたネストラードもまた大変晴れやかな顔をしており、クラムルードは力強く頷きました。
「うむ。あちらはどうだった。儀式は何も問題なく終えたのか?」
すると万里子とネストラードが顔を見合わせます。
二人のその様子にいち早く気付いたクラムルードは、すぐに答えを聞く事はせずにその場を解散させました。
「お疲れ様でございました。こちらをどうぞ」
王の棟のサロンに通されるとすぐに温かなお茶が振舞われました。
王家が用意した陸船は揺れも最小限でとても快適な移動手段ではありましたが、それでもやはり気疲れするものでございます。大きな椅子に深く腰掛けて温かなお茶で喉を潤すと、自然と息が漏れました。
そこへクラムルードがイディとジル、そしてガイアス、レグゼスを伴い慌しく入室してきました。
「どうした。儀式で何か問題があったのか」
一気に部屋の空気が張り詰めます。
「あの、スイルの神殿での儀式は何事もなく終わりました。ただ、全てを終えて神殿を出て……ヤンテの光を身体に浴びたら、心臓がドクドク強く打って……気が付いたら、手に赤い珠を持っていたんです」
その話にネストラードとガイアス以外の面々は目を見開きました。
「珠を? それは一体……」
「何があったのじゃ?」
浴びせられる質問に、万里子も困ったように首を傾げます。
何があったのか――それは、儀式の後にネストラードにも、あの三王子にも、そしてミルファにも聞かれました。ですが万里子自身、何があったのか分からないのです。
ヤンテを見上げてその明るさに目を細めると、目の前でヤンテがぶわりと蠢き、その瞬間心臓がドクリと大きく打ったのです。そして気が付いたら珠を持っておりました。
そう説明すると皆、空のヤンテが蠢いた事を不思議がりました。
「ネスト、お前は見たのか?」
イディがネストラードに聞きますと、ネストラードは首を振りました。
「僕は見てないよ。それよりもマールが苦しそうに胸を押さえたのが気になって……」
「ガイアス、お前は?」
「申し訳ございません。私もヤンテの変化は分かりませんでした。ですが、マール様をお助けしようと動いた時、胸を押さえていたマール様が両手を空に突き上げたのです」
「えっ!?」
視線が万里子に集中します。
「マール様……もしかして無意識でございましたか? 体調を崩されたのではないのだろうかと思った矢先、頭の上を何かが通ったのを影で気付きました。するとそれはマール様が突き上げた手に向かってまっすぐに飛んでおりました。ぶつかる! そう思ったのですが、それはすっぽりとマール様の手に収まったのでございます」
「分かりません。私……ヤンテから光が降りてきたみたいで……気付いたら手の中に……」
「マール、それはどんな珠だったのです? 今それはどこに?」
ジルが万里子の手を取り、落ち着かせるようにゆっくりと撫でます。ジルの右手はまだ傷痕が生々しく残っておりました。
「それが……私の荷物と入れ替わってしまった鞄に入っていたあの赤い珠とそっくりなんです」
「なんじゃと!」
驚き、腰を浮かせたのはレグゼスです。イルーの古語ができるレグゼスはマールと共に鞄の中にあった資料を解読していたのですが、あの珠自体に意味があるとは思っておらず、大変驚きました。
「そうなんです。それで……こちらでも祈りの儀式はあったんですよね? こちらでは赤い珠は……」
「いえ、ありませんでした。ガルディスはどうでしょうか……後で向こうの神官に『対話の鏡』で聞いてみましょう。ですが……多分スイルだけの現象ではないかと思います。マール、あなたが儀式の場に居た事が大きく関わっていると思います」
それを聞いて万里子は少し怖くなりました。それを感じ取ったのでしょうか。ジルが万里子の手をぎゅっと握り締めました。
「その珠は、すぐに向こうの神官の手に渡りました。スイルの人達は、小さなヤンテではないかって……宝珠と呼んで、すぐに神殿の祭壇に置かれたようです」
「宝珠……」
万里子の話を聞き、思った事は全員一緒でした。
それを言葉にしたのは、クラムルードでした。
「それがヤンテから発せられた光の正体だとしたら……なぜ、儀式が行われる以前に存在している? しかも、聞けば入れ替わった鞄に入っていたと……それは意図的にここに持ち込まれた物なのか……どんな人物の鞄だったのか、それは判明しているのか?」
「荷物の中身から考えられるのは、キリエに同行していた助手の者ではないかと……」
「助手? なぜ分かるのだ。レグゼス」
「中に日記が入っておりました。私がイルーで神官長だった頃、キリエに心酔し、キリエの元に通い詰めるニコラという少女がおりました。恐らくその者ではないかと……」
「他には何かあったか?」
「いえ……鞄の中には様々なヤンテに関する資料、文献が入っており、その大部分がイルー古語で書かれているのと古い物は文字が掠れておりまして、なかなか……」
「ふむ……」
それを聞き、クラムルードは考え込むように腕を組み、長い指で顎をトントンと触れました。
(此度の儀式まで存在を知られていなかったヤンテの宝珠。それに良く似た物が既にイルーには存在した……スイルではそれはすぐに神殿の祭壇に祀られたという。なのに、イルーの“それ”は持ち出された。それだけではない。ヤンテに関する資料や文献まで入っていたという。持ち主と考えられるニコラはやはりキリエの助手をしている可能性があるな……)
キリエとは、イルーで代々ヤンテの研究をしている家の当主を表すイルー古語で、現代の言葉で『尊敬する我が師』という意味がありました。キリエのイルーでの影響力は大きく、実質イルーの長のような存在なのです。
そんな人物が、代々のキリエが大事にしてきた資料や文献、ましてや宝珠を持って来るだろうか……クラムルードにはそれが引っ掛かって仕方が無いのでございます。
(確かにヤンテ研究家としては、ヤンテの姫君のお披露目式典は大切だっただろう。だが、過去の文献が必要である理由は無い)
「陛下。姫様もお戻りですし、また資料や文献の解読を進めます」
「そうだな。何か宝珠に関する情報もあるかもしれない」
「畏まりました」
レグゼスが礼をすると、それを合図に簡単な報告会は解散となりました。