75.ネストラードの決意
万里子が通されたのは、緋湖の小島に建てられた神殿が見える日当たりの良い部屋でした。
「わー! 綺麗! 今日はいい天気で湖もキラキラして綺麗ですねー!」
「お気に召されたようで、よろしゅうございました。こちらにご滞在の間は私共になんなりとお申し付けくださいませ」
「は、はい。よろしくお願いします!」
ペコリとお辞儀をした万里子を、案内した女官達は嬉しそうに微笑みました。
万里子につけられた専属の女官はスイル人特有の淡い色彩の髪と瞳を持ち、煌く水色の水眼を持っておりました。
水眼の色に合った淡い水色の女官の制服で並んで佇むその姿はとても美しく、そしてとてもよく似ておりました。
「ええと……なんとお呼びしたらいいでしょうか?」
すると、ふたりが答えます。
「私がサリエスでございます」
「私はエリューでございます」
揃ってお辞儀をするふたりは声までそっくりでした。
「おふたりは、姉妹なんですか? あ、もしかして双子?」
万里子のその問いに、ふたりは不思議そうに顔を見合わせるとまたふたり揃って首を横に振りました。
「いいえ? 血縁関係はございませんが……」
「そうなんですか? とても似て――」
コンコン
ノックの音に途中で口を噤んだ万里子が、対応に腰を上げようとすると、シアナが「私が参ります」と万里子の動きを制し立ち上がりました。
「どなたですの?」
「おくつろぎのところ申し訳ありません。式典の打ち合わせをさせていただきたいのですが……ええ、姫様にお越し頂く必要はございません。お付きの方のみで結構でございます」
その言葉に、シアナは少し眉を顰めました。
「ですが姫様をお一人にする事は出来ません」
「姫様のお相手は王子がさせて頂きます。お茶のご用意を致しておりますので、姫様はそちらにご案内いたします」
「王子様!? スイルには王子がいるんですか? ええと……じゃ、じゃあネストと一緒に……」
すると使いの女官が困ったように万里子を見ました。
「大変申し訳ございません。ネストラード様には別の者が向かいまして、ミルファ女王陛下のもとへとご案内しております」
その言葉に反応したのはシアナでした。
「ネスト様が女王陛下のもとに向かわれたのですか? そのような事は聞いておりませんが」
「はい。なんでも、ネストラード様のお母上のお手紙やお部屋をお見せするとかで……」
「ですが……」
ネストラードがミルファのもとに向かった理由を聞き、万里子は渋るシアナを宥めました。
「ネストのお母さんの事は、私やシアナさんが口を出せない事ですから、仕方ないですよ。きっとミルファさんも見せたい物があったのかもしれないですし」
「マール様……」
「あの、私は式典の打ち合わせの方に行かなくて大丈夫なんですか?」
なかなか良い返事をしないシアナを前に、困り果てていた使いの女官は、万里子の言葉に安堵したのか笑顔を見せました。
「はい。打ち合わせはあちらに見えます神殿にて行いますが、姫様は当日式典の時間にならないと神殿にお入りいただけないのでございます。ヤンテをお迎えするのは本番で無くてはならないと、スイル神殿の神官長のお言葉でございます」
その言葉に疑わしい点は無いように思えました。ネストラードがお母さんの部屋を見に向かったのは、叔母と甥だから話せる事もあるだろうと思えましたし、事前に入れないのはヤンテ神殿とは勝手が違いましたが、ヤンテ神殿のように神殿にヤンテの力が影響しているようには見えなかったので、本番しかヤンテ神を迎えられないという言い分も理解できました。
(でも気をつけなくちゃ……)
シアナは何としても万里子を一人には出来ないという考えのようでしたし、周りに心配をかけさせない為にも、万里子も考え無しに動くわけにはいきません。
「……わかりました。シアナさんは打ち合わせに向かってください」
「ですが、マール様お一人では……」
「あの、お茶の席には向かいますが、ラウリナから同行している護衛を一人連れて行きます」
万里子にしてはよく考えた上での思い切った提案だったのですが、女官はすぐに頷きました。
「勿論でございます! ガルディス国のジャーレ国王陛下の件は存じております。ミルファ女王陛下もとてもお心を痛めておいでです。その為、スイルでは心穏やかに過ごしていただきたいとのお考えなのです。王子のサロンへの立ち入りは許されませんので、扉の前で待機となりますが……」
「はい、それで構いません」
それでもシアナは心配そうに、万里子の手を取り念をおしました。
「それでもでございます! 気をつけてくださいませね!」
* * *
数人いる護衛の長として同行していたのはガイアスでした。
先を歩く案内の女官に聞こえないように小さな声で万里子に話しかけます。
「スイルの王子は三人おります。この国を出た事がなく、あまり情報がありません。気をつけてください。何かありましたらすぐに大声をあげてください」
「はい。気をつけます」
顔を上げると、案内役の女官が一つの扉の前で足を止めておりました。
「こちらでございます」
開けられた扉から中を覗きますと、大きな窓が開け放たれた開放的な空間で、ガイアスもホッとしたように扉の前で万里子に礼をとると「行ってらっしゃいませ」と送り出しました。
開けられた大きな窓からは広いテラスが見えます。そこからもヤンテの光に煌く緋湖が見えました。
そのほぼ中央に位置する小島には明日式典が執り行われる神殿が立っています。見ると、神殿の扉の前に神官の衣装を着た人々が並んでいるのが見えました。
「あ、シアナさん!」
打ち合わせに向かったシアナが、数人のスイル人と共に船に乗り、神殿に向かっているのが見えました。
その光景が目に入り、万里子の足はテラスに向かいます。
「あぁ、今から明日の打ち合わせがあるんでしたね」
「その間、姫様は僕達とお茶を楽しむか」
「姫様だなんて、なんだか他人行儀だよね。ねぇ。姫様の名前を教えて?」
声が聞こえて振り返ると、そこには淡い紫の髪の少年が三人立っておりました。
髪の長さや身長に多少の差はあるものの、やはり先程の女官同様、この三人もとても似た容貌をしておりました。
「あの……あなた方が王子様、ですか?」
「ええ。そうですよ。私がシリル。第一王子です」
「俺はライル。第二王子だ。以後お見知りおきを」
「僕はリスルだよ。ねぇ、君の名前は?」
三人は名前もとてもよく似ていましたが、幸い背の高い順に第一王子、第二王子、第三王子で、更にそれぞれの口調も少し違いましたので、なんとか見分けがつきそうでした。
ですがスイル人がこうも見た目の似た国民性だとは、万里子は少し驚きました。そういえばヤンテ神殿のバルコニー席で見ていたスイル人の舞もとてもよく似た容貌の女性達が踊っていた事を思い出しました。
ですが、これが偶然ではないと気付くのは少し後の事になります。
万里子は頭の中で名前と特徴を数回繰り返すと、三人にお辞儀をしました。
「お初にお目にかかります。私は、マールと言います。この度はお招き頂きありがとうございます」
誰かにやってもらおうとか、何かに隠れてやり過ごそうとした日々は、もう捨てなければいけないのです。平和な日本での日々から考えると、この世界に来てからの万里子は苦労や危険の連続で、常に何かに巻き込まれて流されてきました。
でも万里子は、イディーの気持ちをしっかりと受け止め、そして自分で考えて結果を出したあの日から、確実に変化が見えました。
その雰囲気にいち早く気付いたのは第二王子のライルでした。すっと目を細めると、楽しそうに肩を揺すって笑いました。
「君は……母上の話とは随分雰囲気が違う」
「え?」
「おい、ライル。いえ、お気になさらないでください。ああ、今日は本当に良いお天気です。あなたがスイルの地を踏んでくれたからなのでしょうね。ヤンテの加護がいつもより強いのでしょう」
「マール、こんなに良いお天気だし、テラスでお茶をするのはどう? 心配なら、扉の向こうで僕等を睨んでいた護衛をテラスの外に配置したらいいじゃない」
万里子は少し迷いましたが、ヤンテの姫としてラウリナの宮殿に暮らすようになってからは宮殿内で過ごす事が多かった為、リスルの提案はとても魅力的なものでした。
「是非お願いします」
その事をガイアスに伝えると、ガイアスは渋い顔をしましたが、護衛をもう一人増やす事を条件に了承しました。
意外にも三人とのお茶の時間は楽しいものでした。
丁寧にスイルの歴史の説明をしてくれるシリルに、話はそこそこにとにかくよく食べるライル。そして丁寧すぎるが故に少し分かり辛いシリルの話に時折首を傾げる万里子に、砕けた口調で説明するリスル――こうして見てみると、三人とも性格は全く違うようです。
「おいおい。リスル。私の説明はそんなに分かり辛いかな?」
「だって。マールはさ、この世界に来たばかりなんだよ。水眼の存在さえつい最近知ったんだからもっとわかりやすくしなきゃね」
「なんだよ。お前達食べないのか? なら俺がもらう」
「あっ!」
二人が食べていた果物が乗った大きなパイのようなお菓子は、あっという間にライルの口に収まってしまいました。
「何するんだよ! 僕がこれ好きなの知ってるだろ!」
大きなテーブルの上には様々なお菓子が山のように置かれていましたが、ライルが二人から奪い取ったお菓子はそれぞれの前に置かれた皿に乗っている一つだけだったのです。
たちまちリスルの眉尻は下がってしまいます。片やライルは口一杯にパイを頬張り満足気に目を細めました。
「あ、あの……私のあげるわ。一口食べちゃったけど、それでも良ければ」
しょんぼりと肩を落とすリスルが不憫で、万里子は自分の皿をそっとリスルの方に押しやりました。リスルは驚いたように目を見開くとすぐに瞳を輝かせました。ですが、万里子の申し出を受けていいものかどうか戸惑っているようです。
「リスル。お客様をおもてなしするはずのお前がお客様からお菓子を奪うなど、してはいけないよ」
「……う、うん」
「お? リスル、断るのか? じゃあ俺が……」
手を伸ばすライルを避けようと、万里子は更にリスルの方に皿を押しやりました。
「ライル、あなたがリスルのお菓子を食べちゃうからこうなるんじゃない! その上あなたにあげてどうするのよ! ホラ、リスル。私こっちのお菓子が食べたいわ。だから食べて! 是非食べて!」
「う、うん。ええと……ありがと」
これにはシリルも頷かないわけにはいかず、苦笑しながらリスルを見守っていました。
「ちぇーっ。なぁ、コレもう無いの? 料理長に聞いてきてよ」
ライルはまだ食べたりないようで、室内に待機していた女官にそう声をかけます。一人慌てて礼をして部屋を出るのを確認すると、大皿の焼き菓子に手をつけました。
「まったく……食べすぎよ!」
「うるさいなぁ。お前、ほんっと母上が言ってたのと違うぞ。大人しい女だって聞いてたのに……」
「ライル!」
シリルがとうとう声を荒げますが、ライルは気にもとめません。
「まぁ、いいや。俺、大人しい女には興味無いし。お前位の方が面白い。母上が言うのも考えてやってもいい位には……」
「ライル!」
ライルの言葉にまたもやシリルが咎めますが、これにはさすがに言い過ぎたと思ったのか、ライルも口を噤むと、大皿の菓子を数個手に取ると口に放り込み、続きは話そうとはしませんでした。
* * *
「ここがメリルの部屋よ」
静かに開かれた扉の中は、淡い藤色を基調とした明るい部屋でした。
主がこの部屋から離れて随分経つはずですが、まるでつい昨日までここに居たかのように寝台もソファも綺麗に整えられています。
「ふぅん……」
そっけない返事を返しますが、ネストラードの目は部屋のあちこちにキョロキョロと動き、好奇心は隠せないようでした。
その様子を目の端に映し、ミルファは少しだけ口角を上げました。
「でも僕、母上とはあまり会えなかったんだ。ここに来て、あぁそういえば母上の瞳と髪はこんな色だて言ってたなって気付いた位、思い出は無いんだよ。僕は母上に嫌われてたしね」
ネストラードは強がってそう言いますが、言葉の裏には傷ついた心が見てとれます。ミルファにはお見通しでした。
「それは違うわ。ネストラード。……伯母として、今はこう呼ばせて頂戴? メリルはね、あなたを愛していましたよ」
「違う……それは違う。兄上達からは、とても優しい、美しい方だったと聞いている。血の繋がらないイディ兄上の事も、自分の子供のように慈しみ育てたと。でも、それは僕が生まれるまでだ。僕が生んだ時出血が多くて、少しして死んでしまった。でも周りから聞いた事がある。母上は僕の髪と目の色を見てすごくがっかりしてたって。僕が……僕がこんな淡い色を持って生まれたからだよ。だからきっと気力を無くしてしまったんだ」
「違うわ。これを御覧なさい?」
そう言ってミルファが差し出したのは、一通の手紙でした。
「メリルは手紙を神官に託して時々私に手紙を寄越してくれていたの。そこには子供達への愛情が溢れていたわ」
手紙を広げ読み始めたネストラードの手が振るえ、薄い紙はカサカサと鳴りました。
ミルファは部屋の中央にある大きなソファにネストラードを誘導しましたが、それに抵抗する事なく、大人しく座ったネストラードは一心不乱に手紙の文字を追っています。
病床で書いた手紙は、まっすぐ書かれておらず、文字も乱れておりました。極端に掠れ読みづらい部分もありましたが、ネストラードは一語一句洩らさぬように何度も読み直し、一枚だけの短い手紙を長い時間かけて読み終わりました。
「メリルは、あなたを愛していたでしょう? あなたを遺して逝く事が悲しくて、スイルの血を濃く受け継いだあなたをラウリナの王子として産んだ事が申し訳なくて、あの子は私に助けを求めてきていたの」
ネストラードからの返答はありませんでした。
手紙を丁寧に折りたたむと、綺麗に掃除された主の居ない部屋をぼんやりと眺めました。
「――で? 僕を感傷に浸らせて、あなたは何がしたいの? 今回マールの旅に僕が同行出来るよう差し向けたのも、ここで手紙を見せたのも、何か目的があっての事でしょ?」
ミルファはクククッと喉の奥を鳴らしました。
「察しが良すぎるのは誰に似たのかしら……。単刀直入に言うわ。あなたには、いずれ私の後を継いでスイルの王になってもらいたいの。うちの王子達は揃って水の妖精の加護を受けていなくてね……」
「――断ったら?」
ミルファの紫色の瞳が、キラリと光った気がしました。
「断ったら……ヤンテの姫様が、どうなるかしら?」
「どうもできないはずだ。あなたはジャーレがどうなったか知っているのだから」
「ええ。勿論」
「なら……」
それでもミルファの様子は変わりません。やけに落ち着いていて、この交渉を優位に進めているという自信に満ち溢れています。
「姫様自身に、手を下すつもりは無いわ。でも……姫様がうちの王子と恋に落ちたらどうなるかしら? 姫様の恋心まで、ラウリナには縛る権利があるかしら? うちの王子達……妖精の加護は無いのだけれど、その容姿の良さと女性の扱いには定評があるの。今頃……姫様をお茶にお誘いしているのではないかしら……」
驚きに目を見開き、ネストラードは思わず手にした手紙をぐっと握り締めました。
悔しそうに唇と噛み締め、ミルファを睨みつけますがミルファは表情を変える事なく見詰め返します。
「マールは……マールはそんなに簡単に心を渡すような子じゃない!」
「ええ、そうかもしれないわね。でも……男性には慣れていないように見受けられたわ。どうします? 殿下。私には、王子達を止める事が出来るのよ?」
ネストラードはマールを信じていました。
でも、同時に目の前のこの女の恐ろしさも身を持って知った今、出来る事はただ一つのように思えました。
「わ、かった。その話……受けよう」