73.兄弟の思惑
――愛しているんだ
その言葉に万里子はぽかんと口を開けてイディを見詰めました。
するとイディは困ったように目じりを下げました。その頬は夜の光りの中でもほんのりと赤くなっているのが分かります。
「こういうのは……慣れていない。どんな風に伝えると、この想いが伝えられるのか方法が分からない……。マールが幸せならこの想いは封じるべきだと思った。でも……お前が幸せには見えない。俺は、マールに笑っていて欲しい」
自分の心に問いかけるように言葉を紡いでいくイディは、その間もじっとマールを見詰めています。そのままゆっくり近づき、呆けたままのマールの両手を自らの両手で包み込みました。
ふわりと夜風が日頃隠れているイディの黒い右目を露にします。
「この想いを伝える事が正解なのか、俺にも分からない。だが、姫として宮殿に縛り付けられる、それだけがお前の未来じゃないと、分かって欲しい。そして、俺の想いを今は受け入れられなくても……それでもいい。ただ、お前を愛しているという言葉は、気持ちは本当だ」
その黒く輝くガラス玉のような瞳に、口をぽかんと開けた間抜けな自分の顔を見て、万里子は段々と頭が周り始め……カーッと耳まで赤く、熱くなりました。
万里子の人生で、これほどまでに真っ直ぐ愛を伝えられたのは初めてで、そう意識すると他人事のように上滑りしていた言葉達が一斉に万里子の胸に飛び込んできます。
万里子は耳までどんどん赤くなり、オデコが熱くなるのを感じました。
心なしか目元も潤み始め、照れからか視線は定まらずイディの顔をぼんやりと眺めておりました。
「マール……先程から何も言わないが、肯定の意と受けても構わないか?」
イディは改めてマールの左手を取ると、片手を背にまわし庭の奥へと誘おうとします。
その様子に万里子は違和感を覚えました。
「あ、あの……イディさん、どこへ?」
すると背を押す力を少し強めたイディがマールを見下ろし言いました。
「言っただろう? 一緒に逃げようと。マールが全てを背負う必要はない、と」
そう言うと、東屋の向こうを指差します。
「あの向こうに、結界と結界の境目がある。――俺が術の路を作った場所だ」
「えっ。でも、あの……イディさん、私あの時計失くしちゃったんです」
「――そのようだね」
万里子の左手を乗せていたイディの手が動き、万里子の手首をそっとなで上げました。
今そこにはかつて父親からもらったアンティーク風の腕時計の代わりに、赤い宝石が連なった華奢な造りの腕輪が手首を飾っています。
「でも、違う路もあるんだよ。そこから王都から出て行ける」
イディの言葉が頭から降り注ぎ、万里子はハッと立ち止まりました。
「イディ……さんっ!」
万里子の心臓が強く、速く打ち始めて、イディの告白にぼんやりしていた万里子の頭が急に冴え、不安が頭をよぎりました。
(なぜイディさんはここに連れて来たんだろう……今、ここに逃亡の為の路があるのは偶然? それとも――)
「違う……偶然じゃないんですね? ここに来たのも、“路”が既に用意されているのも、イディさんは……イディさんは、クラムやネストを裏切る準備を予めしていたんですか?」
先程とは違い、強く自分を見つめる万里子の眼差しにイディはふっと息を吐くと、名残惜しそうに万里子の手首を撫で手を離しました。
「否定は……しない。俺はずっと迷っていた。マリーが消えたあの日から。国も、家族も大事だ。だがマリーという隠れ蓑が無くなって表舞台に出ざるを得なくなった君を……国に渡さねばならない事になって……胸が張り裂けそうだったよ。頭をよぎったのは、君を失いたくないという想いだった」
ぽつり、ぽつりと落ちてくるその言葉はじわり、じわりと万里子の身体に染み込みます。ですが先程とは違い、まるで雨に濡れるように冷たさが広がりました。
小さく震えた万里子の身体を、イディは静かに抱きしめました。そっと回された大きな手でしたが、万里子がハッとしたように身じろぐとその手にはすぐに力がこもりしっかりと万里子を腕の中に閉じ込めました。
「お前はもう荷を下ろしていい。この世界で好きに生きていいんだよ。その為に俺のこの先の時間を全て使ってくれて構わない」
だから――
一緒に行こう
その身を屈めて囁かれる言葉は耳に吐息と共に入り込み、万里子は眩暈がしたように感じました。
ぎゅっと閉じた目からはとめどなく涙が溢れます。もう泣かないと決めたのに、嬉し涙なのか、安堵の涙なのか、――悲しいのか、涙は押し付けられたイディの胸元を濡らしました。
「泣かないで。これからは笑って欲しい。笑って欲しいから、だから――」
「わ、たしだけ、笑えません。荷は私一人で背負っているんじゃありません。皆さん助けてくれて、私自身は何も出来てないっ。なのに、逃げるなんて出来ませ……!っ!」
更にぎゅうと力強くその身を抱きしめられ、万里子は苦しさのあまり言葉を途切れさせました。
「マール、マール……」
「だ、めです。離してください・……っ、イディ、さんっ!」
喉を震わせ声を張り上げ名前を呼ぶと、イディの腕から力が抜けました。
万里子は、はぁ。と大きく息を吸うと、綺麗に化粧を施された目をぐしぐしと乱暴に拭いました。
瞳を濡らしていた透明な涙は濃く入れられた目じりの朱を滲ませ、まるで血のように瞼を赤く染めましたが、そんな事は気にも留めず強い視線でイディに向き直りました。
「逃げないって、決めたんです! もう、もう隠れないって決めたの! お願いだからイディさん、そんな悲しい選択をしないでください!」
イディは一瞬苦しそうに顔を歪ませると、先に視線を逸らしたのはイディでした。
万里子は吹き荒れる嵐のような心を抱えたままその身を翻すと、まとわり付く衣に足を取られながらも、宮殿へと走りました。
回廊へと続く階段で、裾を踏みつけ前のめりになって倒れこんだ万里子を、力強い腕が支えました。
「――っ!」
見上げた先では、炎のように赤い瞳が万里子を冷たく見下ろしておりました。
「ありがとう、ございます」
背筋がぞくりとする程の冷たい視線でしたが、助け起こしてくれた事に変わりはありません。万里子はぎこちないながらもお礼を言うと、そのまま立ち去ろうとしましたが、助け起こされた際に掴まれた腕からクラムルードの手が離されません。
「は、なして、ください」
万里子の頭は混乱していて、今は一刻も早くひとりになりたかったのですが、クラムルードはそれを許してはくれませんでした。
「はなしてっ!」
「ひどい顔だな。道化師にでもなるつもりか」
無表情だった赤い瞳に侮蔑の色が浮かんだのを見て、万里子は顔を赤らめました。
そういえばセシュラが丁寧に化粧を施してくれたのだったと思い出します。泣いて乱暴に目元をぬぐったのですから、それはそれはひどい惨状だろうと思えました。
「なら早く離してください! こんな醜い顔、あなただって見たくないでしょう!?」
「ああ。見たくないね」
そう言いながらも腕は掴まれたままです。手を払おうと力を入れると、すぐに力でねじ伏せられ、逆に捻り上げられてしまいました。
「痛いっ!」
「なぜ、断った」
「――え?」
「兄上の想いをどうして断った? なぜ楽な道を選ばない」
その言葉に、クラムルードに試されていたのかという疑念が万里子の中に生まれ、その衝撃はすぐに全身を駆け巡りました。
「――あなたに関係ないでしょ!」
「クラムだ」
「え?」
「クラムと呼べ。お前が兄上の申し出を断ったなら、お前は俺の妃候補のままという事だ。――マール」
「っ離して!」
力の限り腕を振り上げると、今度はあまりにも簡単に解放され、高いヒールでは自分の身体を支えきれず万里子は無様にもその場で尻餅をついてしまいました。
「あ、あなたなんか嫌いよっ!」
靴を脱ぎ投げつけますが、ひとつは簡単に受け止められ、もう片方は避けるまでもなくクラムルードの横を通り抜け庭にコロコロと落ちていきました。
情けなくてお尻が痛くて、掴み上げられた腕が熱くて、告白の嬉しさを感じる余裕もなく大きな悲しみに襲われて……万里子はそれらを振り払うように頭を振ると、冷たい石の廊下を裸足で駆け、棟に戻りました。
取り残されたクラムルードは、その後姿をじっと見送ると庭に転げ落ちた靴を拾い上げ、腰のサッシュで丁寧に汚れを拭き取りました。
「――ここに残っても、辛いだけなのに……なんで兄上の手を取らなかったんだよ……バカか」
万里子がグランデに押し付けられた“お妃候補”という立場は、確かに各国の動きを抑制出来るものではありましたが、万里子がそれを望んでいない事は明らかでした。“国を、ヤンテの姫を守る為”だとクラムルード自身言い訳してきましたが、クラムルードの心の深い場所ではほんのりと暖かい何かが芽生えていました。それでも素直になれず、優しい言葉もかける事が出来ない自分に苛立ち、ならばいっそ手放した方が良いのでは……クラムルードがイディの様子がおかしい事に気付いたのは、そんな時でした。
(だから隙を作ってやったのに……あのバカが。嫌いなら、さっさと立ち去ればいいだろう。でなけりゃ俺だって――)
そうしてふっと深く息をつくと、まだ東屋に居るであろうイディの元へと向かいました。
「あっ、姫様っ。湯浴みの準備が……」
レニーの声を振り切り、万里子は一気に寝室まで突き進むと、そのまま寝台に飛び込み大きな枕に顔を埋めて思いきり叫びました。くぐもった声が寝室に響きます。口から出るのは意味の無い言葉でした。万里子はただただ胸の中にぐるぐると渦巻く重苦しい感情を外に出したかったのです。
どれくらいの間そうしていたでしょう。
頭を優しく撫でられる感触に驚いて飛び起きると、そこには困ったように微笑むネストラードが居りました。
「ネスト……どして……」
「マールの様子があまりにも変だからさ。イディ兄上もなんだか表情が硬かったし、ちょっと先回りして待ってたんだ」
気配を消す事が出来るネストラードの事ですから、きっとこっそりやって来たのでしょう。
「じゃあ、最初から見てたの?」
「うん。ごめんね。声かけようかと思ったんだけど、ある程度吐き出させたほうがいいと思って」
そう言いながら微笑む姿はやけに大人びて万里子の目に映りました。
「ネスト、知ってるの?」
「……イディ兄上の事許してあげてね。マールを思っての行動なんだよ。そんな風にマールの心をぐしゃぐしゃにするつもりは無かったんだ。きっと明日には国王陛下の側近として、マールを見送ってくれるはずだよ」
そうしてまた万里子の頭を撫でるネストラードの姿はなぜだか少し寂しそうに見えます。
「でもね、覚えていて。マールがこの世界を、僕等を好きになってくれて逃げないと決めたのなら、僕等だってそんなマールを守りたいと思っているんだよ。だからマール。僕等にも守らせて欲しいんだ」
「ネスト……お兄さんみたい。年下なのに」
思わずふふっと笑う万里子に、ネストは更に目を細めます。
「落ち着いた? 今日はもう休んだ方がいいよ。あ、その前に湯浴みだね。化粧が崩れてあちこち赤いよ」
「そんなに酷い?」
「うん。酷い。僕笑わないようにするの大変だった」
「ひどっ!」
ようやく部屋の中に笑いが漏れ始めた頃、誰もいないはずの隣の部屋では、片付けるのを忘れられた地図がくるくるとひとりでに開き、丸い玉がその上にコロコロ転がったかと思うと、ぼうっと光りを放ちながら地図の上に浮かび上がりました。それに続くように季節星も浮かび上がります。地図の海は緩やかに波打ち冷たい風がひゅるると吹き始めました。
そのまましばらく、風の吹くかすかな音と辺りをほんのりと照らす小さな光りが漂っていました。すると突然丸い玉がふるふると震えると、シュンッと小さな光りを吐き出したのです。それは幾筋の流れ星になり、イルーの方角に消えたのでした。




