72.イディの告白
間が空いてしまって申し訳ありませんm(__)m
「陛下がお待ちでございます」
王の棟の前で待っていたガイアスに迎えられ、万里子は心の中でそっと溜息をつきました。
「あの……だいぶ待たせてしまったんでしょうか」
「いいえ? 先ほどまでイディ様と執務室におりました」
それを聞いて、万里子の気持ちは少しだけ軽くなりました。
「イディさんも……居るんですか?」
この世界に来てからというもの、毎晩のように話し相手になってくれたイディの存在は、万里子の中で大きなものになっておりました。
ですが、もうひとりのマリコが消え、本物の姫として改めて宮殿に迎え入れられてからというもの、以前のように親しく話せない日々が続き万里子は寂しさを感じていたのでございます。
(時計、失くしちゃった事も話せてないな)
万里子の腕時計を介してイディが会いに来てくれていた事が、今では遠い過去のようでした。
大きな楕円形のテーブルには、既にクラムルード、ネストラード、イディ、グランデが席についておりました。
「わぁ! マール、綺麗だね。とても似合うよ!」
万里子を一目見るなり瞳を輝かせて着飾った姿を称えるネストラードに万里子ははにかんだ笑顔を返します。
それを見てクラムルードは面白くなさそうに口を尖らせ万里子を叱責しました。
「早くしろ! 全員仕事を途中で切り上げて来たんだぞ。明日の準備がまだ残っているんだ」
「おやおや陛下、許婚がこんなに美しく着飾っておられるのにそんな憎まれ口では愛想をつかされますぞ?」
ふぉっふぉっふぉ、と笑うグランデの声にクラムルードの頬には朱が走り、対してイディの顔は苦しげに歪みました。
それを誤魔化すかのように、イディは席を立ち万里子の側までやってきました。
「イディさん……」
ほっとしたように微笑む万里子でしたが、イディは少し眩しそうに目を細めるとそっと手を差し出しました。
「こちらへ……姫様」
それは、イディとは今までのようにいられないのだと万里子に思い知らせるのに充分な言葉でした。
「マール、マール。ほんとに綺麗だよ」
「あ、ありがとう」
思いのほかショックは大きく、笑顔で話し掛けてくるネストラードに対しても万里子は曖昧に微笑むしかありません。
「どうしたの? 元気ない? あんまり食べないし。おなかすいてないの?」
「えっ……?」
綺麗に並べられた料理はほぼ手付かずで、万里子は慌ててひとつ摘まむと口に放り込みました。
「そんな事ないよ! ちょっと勉強しすぎたみたい」
「明日出立だと分かってるだろう。この情勢でスイルを訪れるのだ。そちらを優先しないでどうする!」
クラムルードのあまりの言いようにさすがにムッとした万里子でしたが、クラムルードの言う通りです。
手元に残ったイルー古語の資料を読みたいと言ったのは万里子の我侭で、それに何の意味があるのかと責められても言い返す言葉がありません。
ラウリナの国の混乱は万里子の軽率さが招いたと言っても過言ではないのですから、スイル行きを何よりも優先すべきなのは当然でした。
「兄上はこれでも心配してるんだよ」
そっとネストラードが小さな声でフォローを入れますが、万里子の耳を素通りします。万里子はひたすら機械のように料理を口に運びもぐもぐと咀嚼を繰り返すだけでした。
晩餐会はその後スイルでの儀式の話に移り、男達は難しい顔をして話し始めました。
今回はスイル女王ミルファを足止めしたお詫びを兼ねた訪問となる為、あまり大げさな警備体制では反感を買う恐れがあり、少数精鋭での訪問が決定したようでした。
時折投げかけられるクラムルードの視線が非難めいたものに感じられ、万里子はきゅっと口元を引き締めました。
もう逃げないと心に決めたのです。一緒に行くネストラードにも迷惑はかけられません。人を疑う事には慣れませんが、もはや自分だけの問題ではなくなってしまったのです。押しつぶされそうな思いを、なんとか押し留めて万里子は決して俯く事はしませんでした。
「とにかく、ミルファ殿はあくまでも表面上は友好的に、しかもきちんと手順を踏んでおられるのだ。こちらとて応えぬわけにはいかない。おい、お前、くれぐれも粗相はするんじゃないぞ!」
「……はぁい」
「なんだその返事は! この俺が貴重な時間を割いて計画を立ててやってるんだぞ!」
晩餐会も終わり、部屋に戻ろうとした万里子をわざわざ引き止めなおも言い募るクラムルードを制したのはイディでした。
「そこまでにしてください。姫様が萎縮してはいけません」
「イディさん……!」
自分とクラムルードの間に割って入り、万里子を背に庇うように立ちはだかった広い背中を見て嬉しさに名前を口にした万里子でしたが、見上げた先にあったクラムルードに対して諌めるような鋭い視線を送るイディの横顔は硬く、やはり距離を感じたのでした。
「旅に同行するシアナとネストラードとはまだ打ち合わせが残っているのでしょう。執務室に移動してください。姫様は私が送りましょう」
そっと背中に添えられた大きな手にドアの外に誘われそのまますんなり解放された万里子はやっと一息つくことができました。
「すみません。あれでも陛下は姫様のことをとても心配しているのです」
二人きりになっても固い口調を緩めようとしないイディに、万里子は困ったように微笑む事しか出来ませんでした。
それをクラムルードの態度に対する反応だと勘違いしたイディはなおも言葉を続けます。
「本当です。身を案じての事なのですよ。うまく表現できずにおりますが、要は無事に戻ってきて欲しい。少ない護衛しかつける事が出来ないからどうか自分自身でも気をつけてくれと、そう言いたいのです――姫様?」
言葉を重ねれば重ねるほど万里子の顔が歪み、今にも泣きそうになっていくのを見て、イディは慌てました。
「あの……」
「あの日から、イディさんが少し遠くなった気がします。今まで……何でも話せたのに……私が勝手に甘えてただけですけど、でも……イディさんの存在にすごく助けられたんです」
すると、王妃の棟に向かっていたイディの足が止まりました。
万里子が見上げた先には、困ったように微笑むイディの顔がありました。
「ごめんなさい……。困らせましたよね。こうして色々変わってしまった中で、変わらずに居て欲しいなんて、我侭、ですよね」
イディの困り顔を見ていられず思わず俯いた万里子の頭の上で、小さく漏れる溜息――呆れられた――そう感じて万里子はぎゅっと唇を噛み締めました。
「少し、お散歩いたしませんか」
「え……怒って、ないんですか?」
イディは口を開きかけましたが、何も言わず静かに首を横に振りました。
「宮殿内をあまり見ていないでしょう? 少し歩きましょう」
万里子の返事を待たずに、イディは来た道を戻り始めました。そのまま宮殿の本棟に入ります。そこは万里子も足を踏み入れた事が無いヤンテ神殿がある棟とは反対側でした。
途中出会う人々はふたりを見ると驚いたように道を開け深々と礼をします。
その様子にその都度ペコペコと頭を下げて歩く万里子に、イディはとうとう噴出してしまいました。
「イディさん? 私何か変な事しました?」
「いや……マールは変わらないな。と思ってね」
突然のその砕けた口調は、まるで以前の関係に戻ったかのようでした。
おかしそうに口を手で覆って笑うその表情は、何か吹っ切れたように晴れやかでした。
「えと、そうでしょうか」
「ああ。……決心が揺らぐほどにね」
「けっしん?」
イディはただ静かに微笑むだけでした。
やがて美しい庭園と東屋がある裏庭に面した回廊に辿り着きました。目の前に広がる庭園はヤンテの静かな白い光に緑が美しく映え、所々に見える青い花からは甘い香りがしました。
「わぁ! 綺麗! 外に出てもいいですか?」
「勿論。ここを見せたかったんだ」
回廊から庭に下りるには数段の階段を降りなければなりませんでした。
着慣れない豪華な衣は足にまとわり付きます。万里子はそっと裾を持ち上げると、手すりに手を伸ばしました。
すると、先に庭園に下りていたイディがその手を取りました。
「俺につかまって」
階段を降りて、いつもより視線があわせやすくなったイディの顔はもう難しく眉根を寄せたりはしておりません。何か吹っ切れたように穏やかに微笑むその顔は夜の白い光りに変えてとても美しく万里子の瞳に映りました。
そんな幻想的な雰囲気にのまれ、どう声をかけていいか分からないでいた万里子の耳に小さな金属音が聞こえてきました。
キィ――ン ……キン
「何の音ですか?」
「あぁ……剣でも作っているんだろう。この宮殿の丘の裏にムバクの領地がある事は知っているな? この宮殿の丘は良質の鉄鉱石が採れるんだ。兵士の任を解かれたムバクはまた領地に戻り、武器職人になる」
「こんな遅くまでお仕事を?」
「忘れたのか? ムバクは眠らない種族だ」
「……そうでした」
万里子がそう素直に応えると、ふっと瞳に浮かんだからかうような笑みでイディの雰囲気が一気に親しみやすくなりました。
「それぞれの種族には特色があるだろう。覚えているか?」
「はい。ムバクは夜を司る術者の一族で、反対にジルさん達ナハクは神殿を束ねる術者の一族で夜は力が弱まるんですよね。ルヴェルさん達サイナは植物を司る一族で、イルーはえっと……特色というか、研究者が多い? あ、星詠みで天候が分かったり、ですかね。ガルディスは土。建築に強いんですよね。スイルは水。――あ」
「カナムは?」
その問いに万里子はただふるふると首を横に振りました。
この世界の中心的な一族だというのに、万里子が彼らの一族の事をよく知らなかったのです。
「もしかして、火ですか? よくアイツが怒った時とか髪が火のようにゆらゆらって逆立ちますよね」
「半分正解。半分は不正解」
意味が分からず、戸惑う万里子にイディが優しい口調のまま説明を始めます。
「火を操るだけでは、他の種族より秀でる事は無い。ナハクやムバクの術とは違って、触れた人物の体の中に直接術をかける事ができるんだ。それは体の中を焼き尽くす炎のように熱く駆け巡って全身に回る。今の一族の中でクラムの力は絶大だ」
その光景を想像した万里子は思わず自分自身を抱きしめその身を震わせました。
そんな万里子の反応はイディにとっては想定内だったようでございます。少し怯えを見せた様子にも動じずに静かな足取りで近づくと、じっと見下ろしました。
(またあの眼差しに戻ってる。なんとなく、近寄りがたいというか……)
イディの視線を前にそんなことを思っていた万里子に、イディは優しく語り掛けました。
「行かなくていいんだよ。マール」
「え……」
突然の言葉に何を指しているのか分からず、万里子は呆けた返事をする事しかできませんでした。
「スイルに、行かなくてもいいんだよ」
「イディさん……どして……なんで?」
「なぜお前が全てを背負わなければならない? ヤンテは復活した。神託も為された。これ以上犠牲になる必要があるのか? 後は国同士が何とかする問題だ。お前が背負う必要は無い」
それはずっと万里子の中に巣食っていた思いでした。
もう逃げないと誓ったあの日、胸の中のずっと奥底に追いやっていた思いがまたくすぶり始めます。
(私は弱い。こんなんじゃダメなのに……! こんな思い、忘れなきゃいけないのに!!)
更に強く自分を抱きしめぎゅっと目を閉じる万里子の心情が分かったのでしょう。イディはなおも言い募ります。
「お前が安全に、心健やかに居る限りヤンテは消えない。なら、そこまで犠牲になる必要はない。――逃げよう、マール。俺が逃がしてやる。俺が守ってやる。だから――」
――一緒に逃げよう――
驚きで目を見開いた万里子に視線の先には、縋るような瞳で見詰めるイディが居ました。
「お前を辛い目にあわせたくない。たとえクラムを裏切っても、お前を守りたい。マール、――愛しているんだ」