71.少女の日記
『今回もまた、星詠み人は選ばれませんでした。
やはり、ヤンテがお空にいらっしゃらないと選ばれないのでしょうか?
夜にはお空に、小さな星が現れます。
それはヤンテの光に較べるととてつもなく小さな小さな光で、それでもヤンテが消えたこの世界では大事な大事な光なのです。
その小さな星を見上げてから、私達は手に手を取って闇の森に入りました。
ここはヤンテがお空にいらっしゃった時にもヤンテの光が届かない森です。
イルーの外から来た人達はヤンテの加護が無い場所だと恐れて近づかない森です。
でも、私達には大切な大切な場所です。
だって、キリエがおっしゃいました。ヤンテにもお休みする場所が必要なのです。
常に世界の様々な場所を見渡し、光を届けていらっしゃるのですから、お休みする場所が必要で、その為にこの闇の森が存在するのだと、そうおっしゃいました。
だから、私達は恐くありません。
闇の森に入ると、大きな大きな木々に囲まれてしまってお空から少しの光を届けていた冬星も見えなくなってしまいました。
ヤンテが消えてしまってからというもの、季節星が無いと季節も分からないようになってしまいました。
歩きなれた森ですが、私達を連れて歩く若い神官さまが先を急ぐので、雪道に足を取られ途中躓く子もいました。
私達を連れている神官のライアル様は、闇の森の伝説を信じていませんでした。
レグゼス様の下に見習い神官としてやって来たライアス様にとって、闇の森はやはり恐ろしいものなのかもしれません。
そうでなければ、私達がついて行くのもやっとの速度で歩くはずがありません。
一緒にイルーにやって来た、双子のライカ様が躓いた子を助け起こしマントについた雪を掃ってくださいました。
ライカ様は私達と同じようにキリエの言葉を信じていらっしゃいます。
なぜなら、最後に星詠みとして選任されたのがライカ様だからです。
神官さまが星詠みに選ばれるのは初めてでした。それ以来、キリエはライカ様を引き取りお傍に置くようになりました。
もしかしたら、ライアス様はそれが面白くないのかもしれません。
いつもキリエの前ではそんな素振りは見せなかったのですが、キリエがお倒れになってからはライアス様の態度はあからさまになりました。
ライカ様が躓いた子を助け起こしつつ、前を歩くライアス様に声をかけましたが、ライアス様は少し振り返って小さく舌打ちするだけでした。
ライアス様が手にしている小さな光玉に照らされたお顔は歪み、神殿に行きたいと頼み込んだ私達を快く思っていないのが見てとれました。
そのお顔を見てしまい少し遅れをとった私達をライカ様が励ましてくださり、私達はまた森の奥に向かって歩き出しました。
ここに居る娘達は皆、ライカ様に憧れていました。
星詠みに選ばれ、ライカ様と共にありたい。そう思う娘達が多かったのです。
勿論、私も例外ではありません。
――でも、今回も星詠みは選定されませんでした』
「あやつら……」
比較的新しい帳面を見て、レグゼスが溜息交じりに呟きました。
鞄から出てきた大量の資料は、レズゼスの指示で資料の状態の良い物と悪い物で分けられました。
中にはもはや文字が掠れ、読み取りが困難なものも含まれていたからです。
レグゼスはイルーの古語には長けておりましたが、それでも部分的にしか読めない資料を全文把握するのは難しいようでした。
資料はヤンテに関する事ならどんな小さい事も記載されており、なかなか目的のものには辿り着けませんでした。
大体のものは万里子ですら知るようなヤンテにまつわる神話や季節星の伝説、ヤンテに最も遠い場所ながら、ヤンテの研究を始め最もヤンテ神への信仰が厚かったイルー一族ならではの供物記録など……どうやらヤンテの名がついた書き物は全て鞄に押し込められていたようでございます。
資料の解読を行って三日目で、ようやく儀式の事に触れた資料が見つかり、万里子は胸の高鳴りを押さえつつ、解読するレグゼスの様子を窺っておりましたが、レグゼスが読み上げたそれは幼さが残る文章で書かれたものでした。
「日記……ですかね」
「ふむ……そうじゃろうなぁ。これは……ニコラかのう」
「書いた人の事まで、分かりますか?」
万里子の驚いたような問いかけに、レグゼスはしっかりと頷きます。
「うむ。ニコラは子供の頃からキリエに心酔しておっての、他の子達が遊びに夢中でもニコラだけはキリエの屋敷に入り浸っておった。――結局、星詠みにはなれんかったがの。それでもキリエの屋敷に通うのは止めんかった。今はキリエの手伝いをしておる。今回の式典も来ておったの」
その時、万里子の脳裏にはこの鞄が入れ替わった場面が思い浮かびました。万里子に声をかけて来たあの女性がニコラだったのでしょうか――。
「私、多分ニコラさんに会った事があります。式典が終わってここを去る時に、陸船の準備を待っている時に話し掛けられました。その時に鞄が入れ替わってしまったんです」
(あの時の女性が幼い頃、書いた日記なんだ……)
声をかけられた驚きに、隠す事も忘れて見上げた先にはすっぽりと深く被ったその奥から覗く灰色の瞳がありました。まともに見てしまった万里子の黒い瞳にも怯えなかった灰色の瞳は今でもしっかり覚えています。
「儀式は……ヤンテが消えてからは行われていなかったんですよね?」
「その通りじゃ。じゃが、自分達で何とかしようとでも思ったのかの……」
「当時の神官長はレグゼスさんだったんですよね?」
万里子の問いかけにレグゼスは苦い表情で頷きました。
「そうじゃ。じゃが前も言いましたかの? 神官長は儀式には立ち会う事はないのじゃ。それは皆が知っておる。儀式の日、幼子だけが神殿に入れるのじゃ。だからライアスとライカというまだ少年だった見習い神官に頼んでこっそりと……自分達で行っておったんじゃろう」
キリエもおらずヤンテも消え、星詠みが選ばれない可能性の方が高くても、闇の森に足を踏み入れてまで儀式を続けようとした、そのニコラ達少女の想いが万里子の胸を締め付けました。
「ずっと、続けていたんでしょうか?」
「この十七年間ずっと、という意味なら……わからんな。私に見つかれば反対されるのは分かっておっただろうから、密かに続けていたのかもしれん」
『今回も――』
そう、日記を読んだレグゼスは言いました。
『今回も星詠みは選定されませんでした』
少なくとも数回、秘密の儀式は行われていたのでしょう。それ程に彼女達にとって“星詠み人”は大切で途絶えさせてはならないものだったのです。
「じゃが、これだけではのう……」
そう言ったレグゼスがニコラの日記帳をあっさり閉じて、脇の書類束に積み上げました。
その束は“不要”と判断された書類たちでした。
ですが、万里子にはその日記が気になって仕方がありませんでした。
「レグゼスさん! 待ってください。そこに書かれているライアスさんとライカさんは双子なんですよね?」
「ライアスか? まだイルーにおるぞ? 今回の式典には来ておらぬがの」
「ライカさんだけ……星詠み人になって、キリエに引き取られたんですか?」
「姫様の言いたい事は分からんでもない。確かにその通りじゃが、星詠み人はイルーで厳重に保護されるのじゃ。その為、後見人としてキリエは最適じゃった。ライアスはどうにもライカに対して敵対心があってのぅ……ライアスは私が引き取ったのじゃ。私が神官長の任を解かれた頃には立派な神官となったのでイルーの神殿のひとつを任せておる」
「そうですか……」
「何か気になるのかな?」
万里子は儀式について書かれているページを開きじっと見詰めました。勿論、イルー古語で書かれた日記は万里子には読むことはできません。不可思議な形をした文字の羅列――ですが、なぜか胸がざわつくのです。
「何か、気になるのかな?」
レグゼスがもう一度問いかけました。
万里子はしっかりと頷きます。でも何が気になるのかは答える事が出来ませんでした。
「何かが引っ掛かるんです。でも、何かが分からなくて……これを預かっていてもいいですか?」
「勿論。ならばその部分を共通語に訳して置いて行きましょうかの?」
レグゼスのその言葉に万里子は笑顔で頷きました。
そのまま別の巻物に移り、レグゼスの講義混じりの解読作業は外が薄暗くなるまで続けられましたが、儀式についての記述は見つかりませんでした。
「今日はここまでじゃな」
「はい、先生。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる万里子の頭をポンポンと優しく撫でると、レグゼスは腰を擦りながら立ち上がりました。
「姫様は明日、スイルに発つのであろう? では続きは戻ってからとなるが、姫様が留守の間私が残りに目を通しておこうと思うが構わぬか?」
「はい! 是非お願いしたいです。戻るのはいつになるか分からないんですけど……」
「ふむ……。姫様、書類と一緒に入っていた地図と珠をお借りしてもいいかの?」
「あ、ハイ」
その言葉に万里子はテーブルの上を片付け、地図をくるくると開きました。そしてその上に赤い珠を乗せます。続いて小さな巾着袋の紐を緩めると、袋をひっくり返して中身を地図の上に出しました。赤い珠の傍に小さな銀色の珠が四つ転がりました。
「これ、季節星までついていたんですよ」
「おお、ならば話は早いの」
光玉の明かりを消して薄暗くなった室内で、赤い光がうっすらと万里子の頬を照らします。その赤い珠の上下左右には小さな星が留まり、上に位置する夏星と左の秋星が一際明るく輝きました。
「今丁度ふたつの星は同じ位の明るさになっておる。これが上の夏星よりも秋星が明るくなるのは三日後じゃな。つまり、その日が祈りの儀式が行われる日となる。姫様が戻るのはその二日後位じゃろう」
「そうですか……結構な期間ここを離れる事になるんですね……」
「その間に残りの書類の大部分には目を通せるじゃろう」
「あの……無理しないでくださいね」
その言葉にレグゼスが目を細めたその時、扉がノックされました。
「はい?」
手を叩くと、入って来たのはシアナでした。
「マール様、お食事の用意のお時間ですのでお迎えに上がりました。そしてレグゼスさま、ジル様がお呼びでございます」
「はぁい。あっ、地図を片づけるのでちょっと待ってください」
「いえ、後ほどレニー達に片づけさせましょう。陛下をお待たせするわけにはまいりませんので、すぐにお着替えを」
シアナの言葉に、万里子はがっくりと項垂れました。
「また……またですか!?」
目覚めてからというもの、晩餐は必ずクラムルードに呼ばれておりました。
その為だけに万里子はシアナとレニー、セシュラの三人がかりで飾り立てられ引きずられるようにクラムルードの下に連れて行かれるのです。
しかし、どんなに準備に時間をかけようとも、肩が凝りそうな程の装飾品を身につけようともクラムルードは横目でチラリと見るだけで以降は視界に入れようとしません。疲れを感じてまで着飾ったとしても見る人が居ないのではせっかくの豪華な衣も毎回丁寧に拭かれて箱に仕舞われる高価な宝飾品も勿体無く思いました。
(別にあいつに見て欲しいだなんて思ってないけど……)
晩餐に遅れてしまってはシアナが責められるだけだと自分に言い聞かせ、万里子はノロノロと立ち上がりました。
「ではシアナ、後ほどこちらの未読資料一式をヤンテ神殿の私の部屋に運んでくれるかの?」
「はい。地図はいかがいたしましょう」
「いや、地図は結構。すまぬが資料だけ頼む」
そう言うと、小さく礼をとりレグゼスは部屋を出て行きました。
レグゼスと居た書斎からサロンに移動すると、そこには一際豪華な赤い衣が用意されておりました。
それを見て万里子は思わず顔を顰めます。
「グリューネさんを働かせすぎじゃないですか? 毎日毎日晩餐の為だけに衣を変えるなんて勿体無いですよ、ほんと……」
「グリューネ様も張り切っていらっしゃるようですわ。確かに公式の場でお召しになる衣は必要ですし……それに陛下もとてもお喜びですよ?」
シアナの言葉に、万里子は信じられない言葉を聞いたかのように目を見開き抗議しました。
「どこがですかー! いっつもチラッと見るだけで似合うとも似合わないともなんとも言わないでそっけなくされちゃ、今後公の場で着ても大丈夫なのか判断にも困ります!」
強い口調で話す万里子を、シアナはおやまぁ、といった風に首を傾げました。
シアナはいつも万里子を送り届けるだけではありましたが部屋を出る際にいつもクラムルードの万里子への反応を目にしておりました。一目見ただけで頬を染めて目を伏せるクラムルードを――それを“そっけない”と思っているとは……。
「おまけに食べてる間何も話さないし、いたたまれなくなってこっちから話し掛けても反応薄いか濃いかのどっちかで極端すぎるんですよ! 普通の会話にならないんだもの!」
「反応が濃いとは一体なんですの?」
「“うるさい!”とか“さっさと食え!”とか“好き嫌いするな!”とか……ひどくないですか? 嫌なら呼ばなきゃいいのに……」
それを聞いてシアナは頭を抱えたくなりました。つまり、クラムルードは照れて上手く反応できないか、話そうとして口調が粗くなってしまうかのどちらからしいのです。
(陛下ったら……!! 何をしてらっしゃいますの!)
「――今宵はスイルへの出発前夜という事もあり、お供させていただく私も同席させていただくことになっております。勿論、ネストラード殿下もご一緒ですわ。ご安心くださいませ」
あからさまに表情が明るくなる万里子を見て、シアナは苦笑したのでした。