70.ミルファの狙い
万里子とシアナは王妃の棟のちょうど中間にありますサロンにおりました。
長く臥せっていた万里子はだいぶ食が細くなり、腕の細さが目立つようになっておりました。
そんな万里子を心配したシアナがセシュラに頼んで細かく刻んだ薬草を入れた小さな焼き菓子を用意していたのです。
万里子は久しぶりに噛み締める甘さに、頬をほころばせシアナはその様子に安堵し、クラムルードからの伝言を話しだしました。
ミルファとの面会はもう決定事項であることをシアナが伝えますと、万里子は静かに、でもしっかりと頷き、淡い微笑みを浮かべました。
それに驚いたのはシアナでございます。
あれほど危険な目にあっていながらも、同じようにまた他国の王族と面会しなければいけない事は万里子にとっては大変な負担になるだろうと思っていたのです。
故に返事を渋るものと考えておりました。
「……よろしいのですか?」
「え?ネストも一緒にいてくれるんでしょう?大丈夫です。もっと、強くなるって決めたんです。ここで断って、前に進めるとは思えませんから……」
「さっすがマール!」
突然明るい声が聞こえ、振り返りますとドアの前にはネストラードが居りました。
「ま、まぁ!殿下……いつの間に……!ドリーは一体何を……!」
「無理だよ。見張りなんて僕には無駄な事だから。彼女、ちゃんと見張りしていたよ。でもどうしても追い返されたくなかったから気配を消して来たんだ」
ネストラードが軽く肩をすくめると、シアナはその言葉を理解したのかネストラードに椅子を勧めました。
「……失礼致しました。亡き王妃様のスイル人としてのお力を受け継がれたのですね……」
「スイル人の……亡き王妃様って、ネストのお母さんでしょう?気配が消せるってどういう事?」
「スイル人は、水の精との混血種族です。特徴として水眼があり、水の中でも地上と変わらず呼吸も会話も出来るのですが、それは『人としての気配を消し、水の精の性質を前面に出す事』で出来る事なのです。ネストラード殿下はそれがお出来になるのですね」
すると、それまでニコニコと嬉しそうな表情で万里子を見ていたネストラードが急に真面目な顔をして頷きました。
「そうなんだ。きっと、僕がスイルの血を引いている事が今回の同席者に選ばれた理由だと思う」
「え?どうして?」
「……亡き王妃様――メリル様はミルファ女王陛下の妹君ですの。つまりはスイルの血を色濃く継いでいる甥にあたるネストラード殿下の同席を提案する事で、決してマール様に害を与えないと示しているのだと思いますわ」
なるほど。と万里子は頷き、ネストラードも力強く応えました。
「今まで、国の為に動いた事なんて無かった。出来損ない王子だって言われて自由に消えられるのをいい事に逃げてばかりいたんだ。でも、マールは勝手に呼ばれて難癖押し付けられてるのに、頑張るんだろ?なら僕も頑張る」
まだ少年ぽさが残る線の細い薄い胸をふんぞり返らせて話すネストラードを見て、目覚めてから初めて、万里子は心からの笑みを零しました。
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面会の日、場所は王妃の棟の接見の間で行われる事になりました。
王女の棟のそれよりも広いこの部屋は王妃が使う部屋という事もあってか部屋の一部に床が一段高い場所があり、護衛が控える為でしょう。その左右には分厚い幕が下げられておりました。が、今回は相手も王族ですから、サロンのように同じ高さに椅子が並べられました。
ミルファが先に到着したことを伝えられた万里子は、接見の間に向かおうとしたところをシアナに引き止められました。
「マール様……どうか、ミルファ女王陛下のお話や感情に流されないでくださいませね」
「分かりました。決して自分ひとりで物事を決めたりしません。答えられないものはネストに振るか返事を保留する、ですよね?」
「……その通りです。必ず、守ってくださいませね?」
「シアナってば心配性だなぁー。大丈夫だよ。今回は僕もいるんだし、ちゃーんと見張ってるからさ。マールがおかしな方向に行きそうになったらすぐに軌道修正するし、相手が何かしでかしてきそうなら即、面会を終わらせるから」
ネストラードのその言葉を聞いて、シアナはやっと硬い表情を解き扉を開けました。
「それではどうか、お気をつけて……」
接見の間まで来るとシアナはもう一度そう言い、扉の外でふたりが入って行くのを見送りました。
シアナは横にある控えの間で待機する事になります。
(あの日もこんな感じだったわ……)
ジャーレとの面会を思い出し、シアナは閉じられた扉を見詰め小さく溜息をつくと、気持を切り替えるかのように細い指を両頬に当ててぴしゃりと打ち付けました。
控えの間には、同じようにミルファの側近が控えております。
シアナにはシアナの闘いがあるのです。
扉を開け、接見の間に足を踏み入れた万里子は不思議そうに室内を見渡しました。
(あれ?確かミルファさんはもう来てるって……)
部屋には人の気配がなく、ガランとしておりました。
「マール。騙されるな。目の前にいるぞ」
「えっ!?」
万里子はネストラードのその硬質の声からそれが真実である事は分かりましたが、ミルファの姿は視界に入りません。
そこに愉しそうな笑い声が響き渡りました。
「ホホホホホ!さすがですわね、ネストラード殿下」
言葉とともに、目の前の椅子の一部がグニャリと歪んだように見え、万里子は思わず眼をこすりました。
目から手を外すと、椅子の中央にはゆったりと腰をかけているミルファの姿が見えました。
「えっ!!」
「気配を消していたんだ……僕達が入室した時から、ミルファ殿はそこに居た」
「ふふふ。驚かせてしまったようで申し訳ありませんわ。堅苦しい形式張った面会にはしたくありませんでしたの。さぁ、姫様お座りになって」
座ったままスリットから美しい脚を覗かせているミルファが大げさに椅子を指し示しました。
「は、はい!」
「マール!ここはマールが主人なんだからね!」
「わ、分かってるよ!これくらい問題ないでしょ?」
そう言ってさっさと言われた通りに座る万里子を、ネストラードはこめかみを押さえながら後に続きました。
(全く……最初からこれじゃ先が思いやられるよ)
ネストラードの心配をよそに、面会は和やかな雰囲気で始まりました。
すぐにレニーが焼き菓子を持って現れ、ネストラードとミルファには花茶が、万里子には薬茶が用意されました。
無難な天気の話から始まり、元々万里子が暮らしていた異世界のことなど、積極的に話題を振るミルファに、いつの間にか万里子もにこやかによく喋りました。
その様子はまるで昔からの知り合いのようで、この部屋に来たばかりの時の緊張感は綺麗に消えておりました。
最初はネストラードも警戒していたものの、一向にふたりの会話は世間話の域から出る事はありません。
今、万里子はミルファがテーブルに広げた宝飾品に見入っております。
「すごいですね。これが全てスイルで採れた宝石なんですか?」
「ええ。そうなんですのよ。スイルには湖が点在しておりますのよ。それはご存知かしら?」
手の平に赤い石がはめ込まれた幅広の腕輪を乗せられ、万里子はその美しい装飾に感嘆の溜息をつきそのひんやりした感触を確かめるようにそっと触れました。
「その湖で宝石が採れますのよ。湖にはそれぞれ名前がございますの。碧湖、翠湖、黄湖、透湖などがございます。あぁ……それと、緋湖。――“赤の湖”ですわね」
「わぁ。それじゃあ、この赤い宝石の腕輪は緋湖から採れたんですね?」
するとその言葉に、ミルファはただ口角を上げただけの微笑を浮かべました。
「いいえ。緋湖からはなぜか宝石が採れませんの。我が国最大の湖だというのに……なぜでございましょうね?」
これはね――そう続けながら万里子が手にした腕輪の赤い石を、爪が長く整えられた指でゆっくりとなぞります。
「透湖で採れた完全に無色透明な石に色を入れただけのもの……」
「陛下は、マールがスイルに行けば緋湖から幻の赤い石が採れるとでもお思いですか?」
横から硬い声色が聞こえ、伸びで来た僅かに自分よりも大きな手にぐいと腕を引かれ、万里子の手はミルファの元から離されました。
「ネスト……」
「だってそうだろう!スイル最大の湖、緋湖の中心には小さな島がある。今回のヤンテのお言葉で、儀式を行う神殿を建てるよう言われた場所だ。そこはなぜか唯一、“石が採れない湖”だと言う……そこに神殿を建て儀式を行うよう神託があった――そこからどのような答えが導き出されたのかなど、想像するのは簡単だ!結局スイルだって、マールを狙ってるんだ!」
興奮したように畳み掛けるネストラードを、ミルファは表情を崩す事なくじっと見詰めておりました。
「ネスト?そんなのまだ分からないじゃない」
「マール、赤の石はこの宮殿のある丘でしか採れない。丘の裏に住むムバクがごく稀に掘り出す位だ。マールの存在は石を生み出す宝箱なんかじゃない!」
「そんな事は存じておりますわ。ですが、どれだけ潜っても石の採れない緋湖……長い間スイルでは謎でしたわ。そこに此度の神託。何かあると思っても仕方の無い事ではなくて?」
一気に部屋の空気が緊張で張り詰めるのが分かりました。
万里子の表情も険しくなり手にしていた腕輪をそっとテーブルに戻します。
そんな万里子の様子を見届けると、対するミルファはふっと表情を和らげました。
「ジャーレ殿の事があった後ですもの。そのように思われるのは仕方がありませんわ。ですが、スイルではマール様を我が物にしようなどと考えてはおりませんわ。マール様は既にクラムルード陛下とご婚約なさった身ですもの」
ミルファの最後の言葉に、反論しようと口を開きかけた万里子でしたが、未だ腕を掴んだままのネストラードに無言で制され、不安げにネストラードの横顔を見ました。
「ならば、そろそろこの面会の目的を話したらどうです?」
一瞬眼を細め、ミルファはまたゆったりと座りなおしました。
「いいでしょう。秋星の儀式には、ぜひともスイルにお越し頂きたいのです。勿論、儀式の後はちゃんとラウリナにお返し致しますわ。緋湖に何かしらの変化が起こるのなら、儀式の為緋湖の島に渡って頂くだけで充分でございます」
「ラウリナにマールを返してくれると……それを信用するには、言葉だけでは難しいとは思いませんか?」
「でしたら、今のようにネストラード殿下もご一緒にいらしたらいかが?部屋は勿論、病床の妹メリルがラウリナから寄越した手紙なども全て取ってありますのよ。殿下にとっては母の祖国ですもの……」
「しかしっ」
「大事な最初の儀式ですものね?ですがね、偽者の姫のお披露目に付き合わされて、ジャーレのした事に帰国の足止めをされ……国で待っている者達に心配をかけておりますのに、この上何の土産も持たずに帰るなど出来ませんのよ?」
痛いところを突かれ、ネストラードがその表情をゆがめると、搾り出すように声を発しました。
「……今ここではお答えできません」
「ええ。どうか陛下にお伝えくださいませ。色よい返事を待っておりますわ」
ミルファはそう言うと、すっと立ち上がり王族にとっての最上の礼をとると、接見の間を出ました。
外では既に側近のディナスが控えておりました。
お辞儀をするディナスの前を、ミルファはそのまま通り過ぎて歩みを進めます。
ディナスは慣れた様子でミルファの半歩後ろに従いました。
そのまま王妃の棟を抜け、滞在している本棟の広い通路を二人は無言で歩いて行きます。
ですが、長く仕えているディナスにはミルファの雰囲気が面会前と変わっている事に気が付いておりました。
「何か、良い事でもございましたか」
その言葉に、ミルファは振り返る事無くフフフと笑い声を上げました。
「ええ、ディナス。とても良い事よ。とうとう見つけたわ。我が一族の高貴なる血を受け継ぐ者……」
ミルファの脳裏に浮かんだのは、気配を消した自分の場所を寸分違わず睨みつけたピンク色の瞳でした。