52.距離
万里子は、現れた人物がルヴェルである事に心底驚いておりました。
「ルヴェルさん……どして?」
「どうして……か。迎えに来たんだよ。君がヤンテの姫君だからね」
いつもの優雅な微笑みを浮かべ、スッと差し伸べられた手に、万里子はとっさに自分の手を乗せてしまいました。
そのまま手を引かれ、外に一歩出ます。万里子にはまだ、なぜルヴェルがここに居て、なぜ自分達がだいぶ前に発ったはずの関所前にいるのか分かりません。
万里子には分からないことが多すぎて、ついつい誘われるがままにペガロを降りてしまったのです。
『姫様!いけません!』
万里子よりも冷静に状況を見ていた白玉が、不用意に外に出た万里子を叱りました。
「えっ?だ、だって…」
いつもは穏やかな白玉の鋭い声に驚きながら振り向いた万里子は、それ以上の驚きに襲われて次の言葉が出てきませんでした。
真っ白で毛並みの美しかった白玉の体は、小さな切り傷が無数に出来ており、特に顔と宙に浮いた足には傷が集中しており血だらけでした。
「や、やだっ!なんで?」
慌てて白玉に駆け寄ろうとした万里子の手を、ルヴェルがものすごい力で引き止めました。
「いたっ!!……ルヴェルさん!?離してっ!」
「大丈夫だよ、そんなに酷い傷じゃない。君をここまで無事に届けてもらわなきゃいけなかったからね」
そんなことを穏やかな口調で話すルヴェルが信じられず、万里子は恐る恐る聞き返しました。
「それってどういう…」
視線の先で白玉がぶるる、と小さく鼻を鳴らしました。すると大きな目の横に一際長く走った横傷から血が滴り落ちます。
「いやだぁ!白玉!こんなに血が出て…大丈夫じゃないよ!」
(おかしい。だってさっき白玉は、聖獣と精霊は友好関係にあるから決して傷つけたりしないって言ってたのに!)
その時ふと、頭の中でバラバラだった疑問が、出来事が、ひとつに繋がった気がしました。
振りほどこうとしていた手の力を万里子が緩めると、ルヴェルも指の力を弱めました。それでも逃げられないよう、ギリギリの強さで万里子を押さえ込んでいました。
「どうすればいいんですか?私に用事があるんですよね?なら、もう白玉を傷つけないでください」
万里子は静かに問いかけました。するすると動き綺麗な道を作っていた木々が、突然ざわざわとおかしな葉ずれの音をさせ、いびつな道を作りそれに抗うように全身に傷を負った白玉の姿の原因は、自分を宮殿に戻らせる為の罠であり、そのように緑を操ったのはルヴェルであると、万里子は悟ったのです。
「ヤンテの姫君として、宮殿に戻ってもらうよ。最新型のペガロで迎えに来たんだ。速いだろう?後はここで戻って来る為の術をかけた。ここまで抵抗するとは思わなかったが、まぁ戻ってきたんだから良しとしておくよ。でも…連れて行くのは君ひとりだ。スホが近くにいると逃げ出そうとするだろう?逃がそうとする人間も出てくるだろうしね…」
動きを押さえつけるために万里子の手首を掴んでいた手をするりと手の平に移し、優しく万里子の手を包み込むと、ルヴェルは自身が乗ってきたペガロへと連れて行こうとしました。
『姫様!行ってはなりません!!』
白玉の悲痛な叫びが聞こえてきました。
その言葉に再度白玉に目をやると、周りの木々が白玉に迫っているのが見えました。
先程ルヴェルがさらりと撫でた大木が一際大きくうねり、耳障りなほどの葉ずれの音を響かせます。それは大木の叫びに聞こえました。その音に影響されたのか、周りの木々もざわざわざわざわ……と、周囲の音が掻き消される程の葉の音をさせ、とうとう白玉が飲み込まれそうになってしまいました。
「止めて!私、ひとりで行きますから!白玉をこれ以上傷つけないでください!」
すると、一瞬で耳が痛い程のざわついた音はなくなり、木々もピタリと動きを止めました。
「白玉を、逃がしてください。ちゃんと、傷を治せる場所に、逃がしてください!約束してくれたら、ちゃんとひとりで行きますから!」
「交渉の余地は無いけれど…ふむ。良いよ。どっちみち、彼は置いて行く事になるんだから。拘束も解いてあげよう」
じっと木々の攻撃を受けるだけだった白玉が、よろりと足を動かしました。
「白玉、ごめんね。ごめんね、いっぱい痛い思いさせて、ほんとごめん。ちゃんと怪我を治してね。サイナの……ううん。元居たジルさんのお家に、戻ってね」
一生懸命言葉を紡いでいたその間、白玉は大きな宝石のような瞳を潤ませ、悲しそうに万里子を見つめていました。
すると、一瞬で万里子と白玉の間に、周りの木々が壁のように立ちはだかり白玉の姿が見えなくなりました。白玉からも、愛しい姫の姿が見えなくなってしまったのでございます。
ルヴェルのペガロは今まで見たどんなペガロよりも豪華で華やかで優美で堂々としていて、まるでルヴェルそのもののようでした。
ゆっくり休むようにと、大きな寝台に案内されましたが、万里子はゆるく首を振ると一番小さなソファに膝を抱えて座り込みました。
(考えなきゃ。ちゃんと、考えなきゃ……)
泣き出しそうになるのと、必死で堪えてそう自分に言い聞かせるようにしても何も考えられず、頭の中では綺麗な顔から沢山血を流しながらも、自分と一緒に居ようとしてくれた白玉の大きな瞳が浮かんで、万里子はペガロが止まるまでの間、ずっと唇をかみ締めておりました。
「着いたよ」
ルヴェルにそう言われ、重い頭を持ち上げると、窓の外には宮殿への門が見えました。
人々の声が聞こえます。
ルヴェルのペガロが到着した事で、その声は益々大きくどよめきました。
ルヴェルに手を引かれ、外に一歩出てみますと、辺りはしんと静まり返りました。門をくぐると、左右に一列に並んだ各国の王族や貴族達が万里子を出迎えました。
男達は皆片膝をついて右手で剣や杖を横に置き左手を胸にあて、女達は立ち膝で両手を胸の前で置いておりました。
その中には、イディも、ジルも、ネストラードも、シアナもグリューネもおりました。
皆、他の人々と同じように頭を垂れるその姿を見て万里子は悲しくなりました。
今まで笑い合ったりふざけあったりしてきた大切な人達との間に距離が出来たのを感じてしまったのです。
万里子はその中をまっすぐルヴェルに手を引かれ歩きました。その先には、周りの人々と違い、仁王立ちになって待つ人物がおりました。
その人物とは、亡き国王陛下の後を継ぎ、国王となったクラムルードでございました。
いつか、いつか万里子は幸せになります!(そのはずです!)