48.胸騒ぎ
2011年8月27日午前4時33分、大幅に加筆しました。
既に48話を読んでくださった方々にはご迷惑をおかけし、申し訳ありませんm(__)m
「荷造りはどれ位時間がかかりそうなんだ?」
「すぐに出来ますよ。持ってきた荷物はまとめてますし…すぐですか?」
「あぁ。マールがいいなら。式典は終わった。お前だってマリーに頼まれた事をやり遂げたじゃないか。あいつが姫として宮殿に居る以上、お前にとってはここは危険だろうからな…」
「じゃあ、荷物まとめてから着替えたいんですけど…」
「分かった。じゃあ、俺は外に出てるよ」
“帰る”……元通りの生活に戻るんだ…万里子はそっと息を吐き微笑みました。
今ではサイナの作業小屋が、ふかふか浮いたペガロの家や、白玉と一緒にまどろんだ泉のほとりが…懐かしくて仕方がありませんでした。
(そこに、戻れるんだ)
飛び上がって喜びたい気持ちを抑え、万里子はカゴにまとめていた衣をイニスに詰め始めました。
部屋を出たイディは、ジルの部屋に向かいました。
トトン!と軽くノックすると、返事も聞かずに中に入ります。
「マールはすぐに準備できるそうですよ」
「…そうか。ありがとう。出立まで念のためついていてはもらえないか。私はサク殿に会わねばならない」
「マールが本物の姫ではないかとサク殿に進言した神官の事ですか?」
ジルは疲れた顔をしてゆらりと立ち上がると、美しく長い指でこめかみを押さえました。
「あぁ…なぜそのように思ったのか、直接の理由は言わないのだが…サク殿は最初から疑っていたからね…」
「最初から?召還した日からですか?」
「ふたりとも条件が当てはまっていた。だが、周りの神官達がマリーを選んだのだ。サク殿は躊躇していたのだが…いずれにせよ、選ばれなかった1人を隠す必要があった。その役目を私が申し出たから送り出してくれたのだが……」
「それで俺にももう1人のマールという存在を打ち明けたのですね。きっと陛下には話してないでしょうね。クラムから聞くところによると、陛下はほぼ寝たきりらしいですから余計な心配はかけたくないでしょう…」
「…マールを宮殿に置いておいたらとことん利用され、マールの意志など無視される。マリーのように図太くないんだ。マールが…壊れてしまう」
「このまま帰しても連れ戻されませんかね?」
「そこは上手くやるよ。式典だって無事終わってマリーも見事に演じきったんだ。ラウリナの人間だけではなく、他の国の要人だってあの娘を姫だと信じている。公式にそう発表した後だしね…昔戦をけしかけて来た国を刺激するのは避けたいだろうから、余程の証拠が無ければ姫は別にいました、などと言いたくはないだろう。そうなると、あの娘がいる限りマールは自由だ。そうだろう?」
その言葉にイディが力強く頷くと、ふたりは部屋を出てそれぞれの左右に分かれました。
お互い背を向けていても、お互いの胸の内は痛いほど分かりました。
ジルが万里子を儀式の後すぐに連れ去り隠そうとしたのも、イディがクラムルードに真実を告げないのも……姫になる事を万里子自身が望まないから……そう言い聞かせても、時折どす黒い本音が顔を覗かせるのです。
『万里子が姫になってしまったら、もう…手の届かない場所に行ってしまう…』その思いがふたりを苦しめました。生まれて初めて手に入れたいと思った相手は、世界を救うためによばれた女性でした。この世界の為には彼女を利用しなければいけないのです。でも、彼女を守りたいという矛盾……偽者に人々の関心が集まっている時間を少しでも伸ばしたい…もはやそれは、万里子の為なのか、自分達の為なのか思いは複雑に混じり合っておりました。
万里子がグリューネの一行と合流するべく宮殿の入り口ホールに入ると、そこは人で溢れかえっておりました。
床のそこかしこに様々なデザインのイニスが置かれ、万里子と同じように国に帰ろうとする人々がいるようでした。
「グリューネさん達がいませんけど…。もしまだなら準備をお手伝いしにお部屋まで行っちゃダメですかね?」
「構わない。じゃあ、行くか。こっちだ」
イディは人々で混みあうホールをぶつからずに上手にすり抜けて行きます。
万里子は慌ててその背中を追いました。
万里子が小走りで追いかけないといけない程の速度でずんずんと歩いていくイディの後姿を、万里子は不思議そうに見つめました。
(どうしたんだろ…イディさん、何を焦ってるんだろ…)
数人にぶつかり、何個かイニスを蹴飛ばしたような気がします。「すみません!」「あっごめんなさい」何度も謝りながらイディの背中を追いかけました。
「イディさん、待って!」
「イディさん?」
「イディ、さんっ!ちょっと待ってくださいー」
ホールから伸びる廊下のひとつに差し掛かった時、やっと万里子の呼びかけが聞こえたのか、先を歩いていたイディがハッとしたように足を止めてやっと万里子を振り返りました。
「…悪い。速かったか?」
「もー。途中何人もぶつかっちゃいましたよ。急いでるんですか?ペガロの用意がもう出来てるとか??」
「いや……グリューネ殿の部屋はこの先だよ。行っておいで。俺はここで待ってるから」
「そうですか?えと、じゃあ行ってきますね」
ノックの後、顔見知りの侍女に出迎えられて笑顔を見せながら部屋に入った万里子を見送ると、イディは廊下の壁に寄りかかり深いため息をつきました。
「…まったく。俺は何をしてるんだ」
苦しそうにシャツの胸を掴み、万里子が消えた扉に目をやります。どうしようもなく心がざわついて、イディはホールに視線を移しました。
……誰かが、こちらの様子を窺っているように感じました。
ざわり。更なる胸騒ぎが、イディを襲いました。
視線の先では、国へ帰ろうとする各国の人間が入り乱れておりました。
今まで王都に残っていたスイル人やガルディス人に加え、イルー人の一行も今日海を渡る事にしたのか、旅装束でホールに集まっております。
ざっと見渡しますが、すでに先程の視線の気配は消えておりました。
(なんだ?くそ。胸騒ぎがする…早く…早くマールを出立させなければ…)
イディはホールに控えていた宮殿の下働きの男に声を掛けました。
「サイナのグリューネ殿ご一行のペガロを用意しておいてくれ」
「グリューネ様…で、ございますか?一度ご用意したのですが…使わぬから戻すようにと先程申し付けられましたが…」
「…なんだと?確かか?」
「はい。本日は出立なさる方々が多く、混雑しますので申し付けられてすぐに下げてしまいましたが…如何致しましょう?」
「…直接グリューネ殿に確認する事にしよう」
「では、御用の時にはまたお言いつけくださいませ」
丁寧に礼をすると、男は後方で呼びかけるスイル人のご婦人の下へと急いで駆けて行きました。
「おばあさまはサイナへは戻らないよ」
「ルヴェル殿…」
グリューネの部屋の扉をノックしかけた時、ホールからルヴェルが現れました。
「君は…殿下の側近だろう?なぜここに居る?」
「クラムルード殿下は最近どうもふさぎこんでいらっしゃって…今日は暇を出されたのです」
「…その殿下のご命令だよ」
「……は?」
「おばあさまに、また衣装部に戻って来るようにとのご命令なのだよ。聞いてなかった?」
「え、ええ……」
「そう…まぁ、入ろうか。君がここに居るという事は、マールが来ているのだろう?まとめて話す事にしよう」
(グリューネ殿が、再び宮殿で働く事に…?では、グリューネ殿の助手であるマールは……)
室内では、珍しくグリューネの言葉に万里子が反論しているところでした。
「私だけ帰るなんて嫌です。出来ません」
「マール……」
「だって。せっかくグリューネさんの助手になれたのに…グリューネさんがまたここでお仕事するなら、私もここでお手伝いを…」
「いけません。あなたは戻るのです」
「どうしてですか?」
グリューネが宮殿の衣装部で仕事をするという事は、今まで以上の忙しさになるという事です。それが分かっていながら自分だけ戻るなど、万里子には考えられませんでした。
「そうですよ、おばあさま。マールにも残ってもらったら良いではありませんか」
そう言葉を発したルヴェルに、イディは驚きを隠せませんでした。
「ルヴェル殿…それはっ」
ち。小さく舌打ちしたイディは、室内で動向を見守っていた侍女達に、控えの間に下がるよう伝え、全員が退室したところでその苛立ちをルヴェルにぶつけました。
「ルヴェル殿、マールが宮殿で暮らすなど…正体がバレる危険性が高くなるではないですか!正体を隠したまま式典をやり過ごす…そのように貴方も協力していたのに、それを今更…そのような危険なことをマールにっ!」
イディの胸騒ぎは大きくなるばかりでした。一刻も早くマールを宮殿から出したいのに、簡単なはずの事が上手く進みません。その焦りが声にも表れておりました。
「だが、今ひとりで戻ってどうする?マールは仕事をして自立したいのではなかったか?主であるおばあさまと離れてしまっては、する仕事も無いじゃないか」
「そっそれは困ります!あの、イディさん。そんなに怒らなくても、きっと大丈夫だと思います。極力出歩かないようにしますし、それに助手って立場だと女官部屋に寝泊りするって聞きました。偉い人達とは会わないと思うし、それにマリー姫が居る以上、私に目を向ける人なんていませんよ」
「だめだっ!」
イディを落ち着かせようとした万里子でしたが、反対に益々声を荒げさせてしまい、その迫力にビクリと身体を震わせ、半歩退いてしまいました。
「マールを驚かすんじゃないよ、イディ。マールは僕の話が解かったんだろう?なら宮殿でまたおばあさまの手伝いをしてくれるね?」
「止めなさいルヴェル。マールはサイナに戻します」
「おばあさま!」
「ふたりとも、落ち着きなさい。殿下のご命令ならば衣装部でまた仕事を致しますが、なにもずっと居るわけではありません。私ももう年ですからね。それに、マールがここに居ては危険なのも本当。マール、もし、誰かがあなたの存在に気付いてしまったら、利用されるかもしれないのよ?マリーのように公で発表されていれば、堂々と守ってもらえます。却って安全なの。でもお前は?お前を守れる人間は少ないのよ。それを解かって頂戴」
すると万里子は目に見えてしゅんとしてしまいました。
「は、はい…ごめんなさい…私、お手伝いがしたかっただけなんです…」
「サイナに戻っても仕事はあるわ。私の家は巨木自体よ。生きてるでしょう?部屋を放置する期間が長いと荒れてしまうの。綺麗に維持する事と、他の職人から糸の紡ぎ方を習い、私が帰るまでに習得しておいて欲しいわ。ね?一緒じゃなくても、ちゃんと私の手伝いは出来るのよ」
「はい…わかりました」
「ですがおばあさま……」
「ルヴェル、これは決定した事よ。雇い主の私が決めて、マールは了承したの。…宮殿に残るのは私だけて良いわ。他の者も帰します。マールだけではないわよ。不公平でもないでしょう?」
「ですが…」
「ほら!さっさとペガロを用意するよう伝えて来て頂戴!全く、勝手にペガロを下げて…。イディ、あなたも少し頭を冷やしなさい。マールが怖がっているわ」
「…え?」
「イディさんも、ルヴェルさんもいつもと違ってなんだか怖いです。私、先にホールに行ってますっ」
万里子は部屋を出ると、イニスを抱えホールに向かって駆け出しました。ふたりのやり取りに、まだ胸がドキドキしています。口論の原因が自分である事が情けなくて仕方がありません。
万里子はホールの片隅に空いた場所を見つけると、イニスを置きその横に座り込むと膝を抱えました。
すぐに万里子に追いついたイディは、万里子のそんな様子に声をかける事が出来ず、ただ少し離れた場所から見守るしかありませんでした。