46.衝動
クラムルードは、ざわつく気持ちに任せてただひたすら歩きました。
(なぜあそこにネストがいるんだ!)
神殿の裏手にまわり、更に足を進めます。
すると、クラムルードの目の前に大きな切り株が現れました。
名も知らぬ大木…あの、赤い実をつけ、幼い頃よく大人達から自分の姿を隠してくれた木でした。
ヤンテが消えてから徐々に枯れ始めたこの木は、今は切り倒されて大きな切り株だけが残っていました。
「もう、俺の姿を隠してはくれないんだな……」
クラムルードは、小さく呟くと切り株に腰掛けてサッシュの中を探りました。
すぐに長い指が細い金属に当たり、そのひんやりとした冷たさが伝わってきました。
先程の乱暴さとは違い、今度はそっとそれを取り出します。
「すぐに返すつもりだったのに……」
手の中で鈍く光るそれに目をやると、また胸に苦々しい感情が込み上げました。
あの時……赤く甘い…とてつもなく甘く柔らかな唇に自分を見失いそうになった時、階下から扉を叩く音が聞こえました。
その音は控えめでしたが、クラムルードは横っ面を張られたかのような衝撃で我に返りました。
目の前には黒い睫毛に縁取られた瞼が、先程と変わらずにしっかりと閉じられておりました。ですが、視線を落とした先にはクラムルードが惹きつけられた赤い実が…先程よりもふっくらとし、朱を増して艶やかに輝く唇が、彼を誘っているかのように薄く開かれておりました。
その柔らかなふくらみに、朱を差したのは自分…その事実に、クラムルードの心臓が大きく打ちました。
また、目が離せなくなります。
「で、殿下っ。大丈夫でございますか?何か問題でもっ?」
今度はトトトンっと、やはり控えめなノックと共に警備団の神官の声が聞こえてきました。
「チッ」
クラムルードは身体を起こすと、部屋を見渡しました。
万里子が眠っている部屋は、昨日マリーがしようしていた控えの間の半分程しかない、とても狭い部屋でした。
その部屋には小さな寝台とテーブル、反対側の壁際には机と衣類がまとめられたカゴ、そして万里子が持ってきたであろうイニスがあるだけでした。
「何もない部屋だな」
何かを持って出ないと神官達が怪しむかもしれません。
マリーの控えの間に行けば何かある気はしましたが、マリーが好んでつけているあのきつい香油の香りがまだ残っているような気がして、とてもではありませんが行く気にはなれませんでした。
その時、窓から差し込む光に、何かが鈍く光ったのです。
「ん?何だ?……腕輪?」
グリューネの所で会った時にも身につけていた、みすぼらしく思える程の衣には似合わないそれは、細く華奢な造りの金属の腕輪でした。
「殿下っ……」
クラムルードには自覚がありませんでしたが、神殿に入ってだいぶ時間が経つのでしょうか。
またもや外から神官の焦ったような抑えた声が聞こえてきました。
「……少しの間借りるぞ」
そう呟くと、クラムルードはそっと腕輪をはずし、扉に向かいました。
ですが、部屋を出ようとしたその時、誰かに呼び止められたような気がして、寝台で眠り続ける万里子を振り返りました。
扉からじっと見つめますが、もう一度すばやく寝台の近くまで戻ると、そっと頬に手を触れました。
「お前、こんなんなってまで何がしたいんだよ?……早く、目を覚ませよ」
そう呟くと祈るようにそっと柔らかな唇に自身のそれを重ねると、今度は振り返る事なく部屋を出て行きました。
外に出ると、あの大柄な神官が寄って来て礼を取りました。
「心配致しました。殿下、何も問題はございませんでしたか?」
「問題ない。ちゃんと魔除けは回収した」
手にした腕輪をチラリと神官に見せると、驚いた表情を浮かべ半歩下がります。
(いや…ただの腕輪なんだけど…)
内心苦笑しながら、クラムルードは真面目な顔で続けます。
「発動はしておらぬ。安心しろ」
「は。失礼致しました」
腕輪を王族の魔除けと信じて疑わない神官は、恐ろしいものを見るようにクラムルードの手の中の腕輪を見つめでおりましたが、すぐに腕輪から視線を外しクラムルードに向き直りました。
「殿下、先程は申し訳ありませんでした。そろそろ夜会も終盤のようで、宮殿外より声が漏れ聞こえます。こちらの様子を気にする方もいらっしゃるかと…」
夜会に出席している各国の王族を始め代表団体は必ずしも宮殿に滞在するわけではありません。
城下町の高級宿に滞在する者もあり、宿に戻ろうと外に出てきたようでした。
(そんなに時間が経っていたのか?)
「構わぬ。では私も夜会に戻るとしよう。良いな?この件は…」
「承知しております。誰にも申しません。警備団全員にも申し付けて御座います」
そうして、クラムルードは夜会に戻ったので御座います。
「どうした?気分転換にしては長い不在だったな」
そっと扉から身体を滑り込ませたクラムルードの姿を目ざとく見つけ、イディがすぐに近づいてきました。
「後をまかせてすまない」
「いいさ。今日の夜会、主役は『姫』だ。それにしても、気分が悪くて中座したんじゃないか?顔が赤いぞ?」
「えっ!?い、いや…平気だ。何でも…ない」
(あれから、広間で何人かの他国の王族や貴族に話し掛けられたが、どんな会話を交わしたのか正直覚えてない。)
上の空で受け答えをする自分を、イディが心配そうに見守っているのは覚えています。
それ以降、常にサッシュに忍ばせた腕輪の影響か、思考の中に度々万里子が登場するようになりました。
(返さなきゃ。そうだ。腕輪を何も言わずに持ち出したから気になるんだ。返したらアイツも俺の頭の中から消えてくれるはず。)
そう思い、今日はわざわざシアナを宮殿に呼びつける用事を準備したのです。これでアイツは部屋にひとりで居るはず…見舞いと称して部屋を訪れ、そっと部屋のどこかに置いてこよう。そう考え、神殿に出向くと、弟のネストラードが万里子と仲睦まじく笑いあっていたのでした。
「くそっ!俺は何をやってるんだ…」
頭を抱えたクラムルードは、そのまま赤い髪をわしゃわしゃと掻きまわし天を仰ぎました。
そこには、万里子の体調が優れないためか、いつもよりくすんだ光を地上に注ぐヤンテと、その上にうっすらと白い星が見えました。
「星?」
「そう。この世界の常識だよ。ヤンテの周りにある小さな星さ。その星の位置で季節が分かるんだ」
式典で万里子の身体を借りたヤンテが話した『季節が変わった最初の日』について万里子が尋ねると、ネストラードは窓を指差してそう答えました。
窓から空を見ると、曇り空で朧げに見えるヤンテの上に、白い星が見えます。
「気付かなかった。夜は星が沢山見えるのに、この星は昼でも見えるんだね」
「そう。ヤンテの上に出るのは夏の星、ヨーク」
「夏の星?じゃあ他の星もあるの?」
「あるよ。ヤンテの右側に出るのが春の星ラディガ。下には冬の星エル。左側には秋の星クリーヴ。ヨークの光が結構弱くなってるから、もうすぐクリーヴも見えるかもしれない。ヨークが完全に消えてクリーヴだけになったら、それが秋の最初の日って訳」
「へぇ!道理で暑さが和らいだと思った」
「実は僕も季節星を見るのは初めて。僕はヤンテのいない暗黒の時代に生まれたからね。光玉のような魔法で作られた光の中で育ったんだ」
「そうなの…」
「うん。だからね、ありがとう。マール」
「えっ?私、何もしてないよ?」
「うん。でも、ありがとう。ヤンテも嬉しいけど、ヤンテを知らない僕にはそんなに価値はわからないんだ。でも、マールが僕の前に現れてくれた事は嬉しい。だから、ありがと」
その言葉に、万里子は照れたように空を見上げました。
その視線をネストラードも追います。ふたりが見上げる白い星を、同じ時クラムルードも見上げておりました。
「夏が終わる」
「夏が終わっちゃうんだね」
「夏が終わるんだよ」
発した言葉は同じでしたが、その思いは3人ともバラバラでした。