44.共感
少年は、扉からぴょこんと顔を覗かせはしましたが、なかなか部屋には入ってきません。
ついには自分から訪ねて来たにも関わらず、万里子の姿を目にした今になって戸惑っているように俯いてしまいました。
(えぇと…声をかけるべきなんだろうけど、名前知らないしなぁ……)
「あの!」
思い切って声をかけると、少年ははっとしたように顔を上げて万里子を見つめました。
「私、まり…えーっと、マールっていうの。あなたは?」
「は?」
少年は益々戸惑いました。
「なんでいきなり自己紹介なわけ?他に言う事あるでしょ」
「えーーっと。あ、ありがとう?」
「なんでさ!お前、訳わかんない。僕のせいで倒れたかもしれないのに、なんでありがとうなんだよ。なんでのんびり自己紹介してんだよ!」
「えええ?違うよ。それはホラ、あの、諸々の事情があって動けなくなったけど、あなたのせいじゃないし。それに今ここでひとりでのんびり寝てたって事は……」
「事は?なんだよ?」
「誰にも言わないでいてくれたんでしょう?」
だから、ここはありがとうだよ。と言い淡く微笑んた万里子を見て少年は驚愕に目を見開きました。
彼は馬鹿ではありませんでした。周りの大人達は、彼を能力が無いと決め付けて無関心に接していましたが、彼はそれを悲しんだり寂しがったりする事は幼い頃に諦めました。そして彼は反対にそれを利用する事にしたのです。
どこに居ても何をしても空気のように扱われるのをいい事に、彼は周りを注意深く観察し、宮廷内の力関係も自分がその中でどう振舞うべきかも全て分かっていたのです。
そんな彼は、あんな場所で倒れた万里子や都合よくマリーがそこに現れた事などで、大体何が行われていたかは察していました。
それでも、ただ利用されるだけのみすぼらしい格好をした地味な少女には何の関心も持てませんでした。
ただ、ヤンテ復活の日に突然宮殿にやって来て、それから常に横暴だったマリーに対する小さな復讐のためにカーテン裏でのやり取りを夜会で大々的に暴露するつもりでした。
いつも自分を軽んじていた人々の騒ぎを想像すると、それはとても魅力的な事だったのです。
その為には、自分もみすぼらしい少女を利用するつもりでした。
彼女から、自分と同じような寂しさを感じるまでは……。
「僕……ネストラードって言うんだ」
そう呟いた少年の表情は、穏やかなものになっておりました。
静かな足取りで寝台に近づくと、傍らに置かれていた質素な椅子にストンと腰を下ろしました。その姿には、もう万里子に対する警戒心はありませんでした。
「ネストラード?」
「…一応、第3王子だから皆ネストラード殿下と呼ぶけど…」
「…そうなんだ。私が今までいた世界で、そんな偉い立場の人と知り合いじゃなかったからどうも慣れないんだけど、私もやっぱりネストラード殿下って呼んだ方がいいのかな…年下に敬語って何か変な感じなんだけど…」
「僕より年上なのか?お前が!?」
「多分?あなた、いくつ?」
「僕…15歳だよ。お前は同じ位か少し下に見えるけど…」
「失礼ね。私17歳だよ」
「…ヤンテが消えた年に生まれたんだな」
万里子は「んぐ!」と声を出し、手が動くものならば頭を抱えたい気分になりました。
(ま、またやっちゃったよ!しかも自分から年齢の話題振っておいて…)
変な声を出したきり、自分から目を逸らしそのままきょときょとと視線を彷徨わせる万里子を見て、ネストラードは思わず吹き出しました。
「安心しなよ。これも言わない。お前、そんなんでよくヤンテの姫君だって事隠してこれたね」
「言わないで…自分でも情けないの。すごくすごく周りの人にも迷惑かけてるんだよ」
はふぅ。と大きなため息をつく万里子の姿がネストラードには不思議で仕方がありませんでした。
彼が小さな頃から観察していた人々は、常に相手の顔色を見、言葉の裏を読み、貼り付けたような笑顔を浮かべ、人の隙を執拗に探るような狡猾な人物ばかりでした。
目の前の彼女のように、心の動きそのままに表情に出すなどもっての外でした。
呆れながらも、どんどん警戒心という心の囲いが取り払われていくのを感じます。それはもう戸惑いではなく、心地いいとさえ思えました。
(なんだ、コイツ。面白いな)
この国の王子だと言っても、畏まった態度に変わる事もありませんでした。ネストラードは、ふと自分の名前を殿下と呼ばなければいけないのかという問いに、まだ答えていない事に気づきました。
本来ならばいくら透明王子だと揶揄されるネストラードでも、呼称をつけずに呼ぶ事は許されない事でございます。
彼と接する大人達の、その貼り付けた笑顔の裏に侮蔑の表情がある事をネストラードは知っています。そうとは知らない彼らは口先だけは彼を「殿下」と呼びますし、必要な場では恭しく礼をとります。
皆と同じ呼び方を、目の前の彼女に強要すれば今自分が感じているこの心地よさも無くなってしまう…と、彼は思いました。
(それは嫌だな…)
家族以外の誰かの心が自分と距離を置こうとする事を、嫌だと思ったのは初めてでした。
「…殿下はつけないくていい」
「へ?何?」
「さっきの話だよ。お前、僕の名を殿下と呼ばなきゃいけないのかって聞いたじゃないか」
「えっと、じゃあ、ネストルード?」
「ネストラードだ!」
「ごめん。だって長いんだもん。ねぇ、ネストって呼んじゃだめ?」
「……いい…許す」
「ありがとう。じゃあ、私の事もお前じゃなくてマールって呼んでね?」
「マー…ル?」
小さな声でそう呼ぶと、ネストラードの頬が緩みました。もっとも、本人は気付いておりませんでしたが……。
「ま、マールは、どうしてマリーの好きにさせてるんだ?お前…いや、マールを見る他の者の視線は僕に対するものよりも冷たい」
昨日、倒れた万里子を控えの間に運び込む際に数人の神官に会いました。
その時の目つきといったら、悪意のようなものさえ感じられたのです。
「ここに来てすぐに、あの子が姫だと決められて、私は放置されたんだよ。すごく寒くて…心細くて…」
万里子はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ出しました。
最初は姫でないのならすぐに帰れると思った事、神官がすぐにマリーを姫だと決めて、放置された心の痛み、自分かもしれないというかすかな予感はあったけれども自信がなかった事、それには特に優秀な兄と美しい妹の間に隠れるように過ごしてきた少女時代が影響している事……万里子の話はよく飛びましたし、まとまりもありませんでした。
ですが、心の中から溢れてくるようなその素直な言葉にネストラードはじっと耳を傾けていました。
「たとえ、本物の姫が私であったのだとしても周りが認めてないのなら意味がないと思ったの。実際、ヤンテは復活したんだし。もう私は本格的に用無しだわって。でも帰れないし、どうしよう。ってすごく焦った。ジルさんの所はすごく穏やかで大切にしてもらってるなって思ったんだけど、でも私、ほんとに何も出来ないんだよ。何もとりえが無いの。何も、返せないんだよ。このまま私、死ぬまでお世話になるの?って思ったら…途中でまた邪魔者にされたら…ううん。ジルさんはそんな事する人じゃないって分かってるの。でも、甘えていいわけないじゃない。だから、仕事を探さなきゃって思ったの。せめて自分ひとりが生きていけるだけのお金が稼げたら、誰の迷惑にもならずに済むんだって。でも…結局色んな人にお世話になって。迷惑かけて……どうしたら役に立てるんだろうって思ったの。すごく、すごく考えたんだよ」
万里子の顔が、悔しそうに歪みました。先程まで表情をくるくる変えて自分よりも幼いのではないかとさえ思えた万里子の顔が、ネストラードには少し大人びて見えました。
自分と似てる…そうネストラードは思いました。マリーが言った『同じ』の意味も分かりました。ですが、根本的に違うところがありました。放っておかれているのをいいことに好き勝手し、誰が誰を陥れるのか…その様子をじっと観察しては自分の知識にしていました。それも全て、自分の為に……ですが、万里子は自分を信じて守ろうとしてくれた数少ない人達の役に立とうと危険な場所に足を踏み入れる決心をしたのです。そんなところは正反対でした。
「なら、あの子の影にだってなるよ。それで皆の役に立てるなら、そうする。でも、表の姫にはなれないよ。だって選ばれたのはあの子で、あの子も私も両方共がこの世界に存在するには…あたしが影で居た方が、いいと思ったの」
そう話すと、ふぅ。と小さく息を吐きました。
「疲れたのか?」
「少し…ごめんね?私が話してばっかりで。えーっと、ここまで話しておいてこんな事言うにもアレなんだけど…」
「言わない。誰にも言わない」
即答したネストラードに、万里子は小さくお礼を言いました。
「僕の事、信じるのか?」
「うん。なんで?だって倒れたの気にして来てくれたんだし、ネストって呼んでいいって言ってくれたじゃない。それって…」
友達でしょ?そう続けられた言葉に、ネストラードはくすぐったさを感じ笑みがこぼれそうになりました。
それを誤魔化すように、ネストラードは突然立ち上がり背を向けると扉へと急ぎました。
「あれ?どしたの?もしかして、迷惑だった?」
少し戸惑ったような万里子の声がネストラードの背に投げかけられました。
扉にたどり着いたネストラードは、ゆっくりと振り返り万里子にこう告げました。
「明日、また来てもいいか?今度は僕の話を聞けよ。だって、と、トモダチなんだろ?」
きょとん。と目を丸くした後、へにゃ。とまるで可愛くない笑みを返した万里子を見ると、ネストラードは静かに部屋を出て行きました。
そして部屋の外で待機していたシアナに生温い視線で迎えられましたとさ。