35.王都へ
王都へ出立する前夜、万里子はグリューネに取っ手のついた皮製の小さなトランクケースのような
かばんを渡されました。
かばんは、万里子でも片手で持ち歩けるほどの大きさでしたが、なんとグリューネは
王都へ持って行く万里子の荷物を全てこのかばんに詰め込むように言うのです。
この世界に来たばかりの万里子の荷物は少ないのですが、ルヴェルに渡された
若草色のドレス1着ですらこのかばんからははみ出てしまいそうでした。
「とにかく、このイニス(かばん)に入れたら良いのよ。全てイニスの大きさに
合わせてくれるから。マール、普段着も持って行くといいわ。部屋では堅苦しくする必要は無いのよ」
どうやらイニスとはかばんの事らしいのですが、入れた物がイニスに収まる大きさに
なる。とはどういった事か、万里子にはいまいち理解が出来ませんでした。
それでも、グリューネは更に普段着も持って行くように言います。
それでは到底、このイニス1つでは足りる量ではありませんが……。
「全部、これひとつに入るんですか?」
「そうよ。押し込めば良いのよ。…あなたの家と同じよ。見た目よりも中は広いし
家具も沢山あるでしょう。あんな要領なのよ」
確かに、ジルからもらったふかふかと浮く箱は見た目は2メートル四方ほどの箱なのに
中は水周りも、寝室とリビングもあり1人で住むには贅沢とも言える程の広さの
快適な住居になっておりました。
元居た世界の常識が未だ頭にこびりついている万里子は、このようにグリューネが
さらりと言う言葉ひとつひとつに驚く日々でしたが、きっと魔法とはこのような
ものなのでしょう。
なんとかなるだろうと考え、イニスを抱えて荷造りに向かいました。
グリューネに渡されたイニスとは、とんでもない優れものでした。
万里子が丁寧に畳んだ若草色のドレスを、試しにイニスの中に押し込めるように
入れてみると、すっぽりと入りました。
ですが、イニスいっぱいになってしまい、他に空間は無くこれ以上は入らないように
思えました。
「これが前の世界だったら絶対無理だよねぇ…。無理矢理入れてもドレスがくしゃくしゃになりそうだし…。
でもグリューネさんが嘘ついた事無いしなぁ…」
絶対に必要な下着類もまだ入っていません。万里子は隅に押し込む事にして、下着類を
まとめた巾着袋をドレスの脇に入れようとしました。すると、何の抵抗も感じることなく
するりと入ります。
「やっぱり魔法なのかな?もしかして無限大に入っちゃう!?」
その後、万里子は調子に乗って普段着も、以前ジルからもらったドレスも予備の為に…と
次々押し込み、結果的にドレス7着と普段着5着がイニスに収まりました。
「もしかして、白玉も入れたり…」
『……それはご勘弁願えますか』
「やっぱり?」
いつの間にか、入り口より中を窺っていた白玉が困ったように答えました。
『明日は私も同行させて頂く事になりました』
「本当!?嬉しい!白玉を置いていくのがなんか寂しかったんだー」
すると白玉が嬉しそうに万里子に鼻を摺り寄せてきました。
『意思の疎通ができるスホだからと選ばれました。ですが、宮殿に着いたら
お帰りまではお別れです。宮殿では私が話せるというのはご内密に
…お願いしますね』
「え?どうして?」
『万一王族が私を欲した場合、ジル様も姫様も断る事が出来ません。私も姫様のおそばを離れたくありませんし…』
「わ、わかった!絶対言わないから!一緒に帰ってこようね?」
白玉は嬉しそうに小さく鼻を鳴らすと、更に万里子の手に鼻を摺り寄せてきました。
『ありがとうございます。ところで姫様…肝心のお仕事道具をお忘れですよ』
「うん?あ!そうだね!」
個人的に招待状はもらっているものの、表向きにはグリューネの助手として宮殿入りするのです。
すっかり失念していた万里子は、慌てて机の上からお針子道具を持ち出しました。
お針子道具が入った木箱の底には、秘密のノートが忍ばせてありました。
そっとノートを取り出し、ページを開くと万里子は小さくため息をつきました。
明日から、イルー人になりきらなければいけないというプレッシャーが襲ってきます。
もしイルーの文化について聞かれたらどうしよう?気候の事とか…何も知らない…。時間が経つにつれて
万里子の不安も大きくなっておりました。
与えられる情報を書きとめ、覚えるだけで精一杯だったのです。宮殿ではグリューネに
くっついているつもりだったのに、どうやらマリー姫のそばにいなければいけないらしく、
1人で乗り越えなければいけないプレッシャーに押しつぶされそうでした。
『姫様…どうされたのです?』
「白玉…私、頑張るね。私も、白玉と一緒にここに戻って来られるように頑張るね」
俯いたまま、自分に言い聞かせるように話す万里子の姿を、白玉は心配そうに見つめておりました。
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出立の朝、万里子は大荷物が入っている割には非常に軽いイニスを抱えて、
長老の森の入り口におりました。
「グリューネさん、どうやって王都まで行くんですか?」
「ペガロよ」
「ぺ?…」
その時、白玉に繋がれて万里子が住むハコに較べて悠に3倍はありそうな大きさの
ハコがやってきました。
やはりふかふかと宙に浮いておりましたが、見た目に大きな違いがありました。
船の上にハコが乗ったようなその姿は、長さが10メートル程もありそうでした。
「白玉、大丈夫?重くないの?」
『ええ。重さは全く感じませんよ』
「ペガロはサイナの乗り物よ。他の一族は聖獣を従えているけれど、我がサイナは
相手が植物ですからねぇ。昔から、ペガロを作って乗っているの。
これは最新型よ!マールの家は旧型のペガロね。ペガロは行き先も道も知っているから
放っておいても勝手に進むからシラタマに負担は無いのよ。
速度の調整の為、念のため一緒に走ってもらうだけだから、心配しないで」
「そうなんですか!あの家も…」
「ええ。我が家と縁の深いジル殿はいくつか持っていますしね。さぁ、マール。
従者と警護の者を紹介した後は後ろから2つ目の入り口…あの部屋を使ってちょうだいね。
私は、その後ろの部屋を使います」
まさかの1人部屋をあてがわれた万里子は、見た目以上に室内が広く快適だと頭では
分かっていながらも、足を踏み入れた部屋に横になれそうな位の大きなソファと
足首まで沈みそうな程のふかふか絨毯を見た時には、「やっぱり慣れない…」と
呟きが漏れました。
1人になった万里子は、到着までにもう一度ノートでマールの設定を確認する事にして、
ぱつんぱつんに詰まっても何も入っていないかのように軽いイニスを開け、お針子道具箱から
ノートを取り出しました。
「え~っと。あたしはイルー人で、視力が悪い所為で目も黒い。と……商人の父親の
紹介で、お針子修行でサイナにやってきて……こーゆー時他の人が日本語を読めないのは
便利ね。自分シナリオ書いててもバレないものね。あっ、でも名前位はこの国の
文字で書けなきゃダメ?マールってどうやって書くんだろう…記帳とかあったら
どーすんの?あぁ~もう、こんなギリギリに……」
ぶつぶつ独り言を言いながらノートとにらめっこをしておりますと、そこにグリューネが
現れました。
「ふふ。1人でも賑やかね、マールは。何をしているの?」
「あっ、グリューネさん。最近独り言が増えてしまって…この国や、自分の設定を
忘れないように書き留めているんです。前に居た世界の言葉だったら、読まれても
平気なので…。
あの。自分の名前位はこの国の言葉で書けた方がいいんですよね?教えてもらえませんか?」
「え?あぁ。そうね。着くまでは暇だし、そうしましょうか」
こうして移動時間は文字の練習の時間となり、王都に着く頃には自分の名前と、
大きな街の名位はラウリナ語で書けるようになっていたのでした。
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「マール。文字の練習はこの位にしましょう。王都の入り口が見えたわ」
「えっ!もうですか?」
万里子が慌てて外を覗くと、白玉の鋭い声が響きました。
『姫様!外をご覧になるのでしたら、どうかマントを!』
「ひゃっ!び、びっくりした。そうだったね。ごめん」
黒髪に黒い瞳がこの国ではどれだけ人目を引くものかは嫌というほど分かったので
大きなフード付のマントを羽織るように言われていたのでした。
まだ季節は夏でしたが、正装しての外出にはフード付マントを羽織るのが淑女の
たしなみだそうで、夏用の薄手のものでも万里子の髪と瞳を隠すのには丁度良い
ものでした。
それを、こんな大事な時に忘れるなんて…万里子は自分のおろかさに泣きそうに
なりました。
慌ててマントを取りに戻ったマールを、グリューネが気遣います。
「そんなに慌てなくても良いのよ」
「グリューネさん…私、こんな具合にすぐにボロを出しそうで不安です。
こ、こんなに皆さんが協力してくれているのに…」
「……何をするにも、何を言うにも、一呼吸置きなさい。深く息を吸ってから、
何事も行いなさい。宮殿に着いてしまったら、助ける事も、庇う事も出来ないのよ。
お願いね?」
『姫様…私からも、お願い致します。私は、今から
言葉を発する事は出来ません。どうか、お気をつけて…軽々しい言動だけは
なさらないように…』
「う、うん。分かった」
改めてマントのフードを深く被り外を覗くと、白玉の進む先には大きな大きな
門が見えました。
門の横には兵士のような格好をした人が何人も控えています。
「17年…」
「え?」
「この門が17年間閉ざされていたのよ……」
「17年も…私が生まれた頃なんですね」
「ふふ…そうね。ところで早速ボロが出てるわ」
もう言葉を発する事が出来なくなった白玉からも、抗議するようなため息が
漏れました。
「え?」
「あなたがヤンテが消えた年に生まれたって事よ。マリー姫は、21歳だそうよ」
「あ……」
「それも、彼女が疑問視されてる理由…マール、あなたが考えてる以上に、あなた
危ない橋を渡ろうとしているのよ。全てが突然だったけれども…本当に、言動には気をつけてね」
「はい…」
「ところで、あなたはマリー姫と一緒に神殿に移って式典までの間、神殿に
ヤンテの力を溜める役割の為に呼ばれたって本当なのかしら?」
「はい。イディさんが言うには、彼女自身疑われているのに気付いているのだろうです。
それで、ジルさんが神殿にヤンテの力を溜める為にも神殿に滞在するよう頼んでも
効果がないと益々疑われるから、今まだ女王の棟に滞在しているみたいで…」
「なるほど。じゃあ、あなたは式典が終わるまで、ただ神殿で寝泊りするだけ?」
「ハイ、多分。式典に招待はされてますが、席が無いようなので、滞在して
力を溜めるのに協力するために呼ばれたみたいです」
だから、もしかしたら他の人とはあまり顔を合わせる事もないかもしれません。と、
悪戯っぽく笑うマールに、グリューネは益々心配そうに眉を顰めました。
「でも、準備しておくに越した事はないわ」
「へへ、そうですね。頑張ります。あ!お針子道具持ってきてるので、何かお手伝いする事が
あればすぐに呼んでくださいね!」
風になびいたフードから万里子の黒髪が一筋、風に踊りました。
それを中に押し込み、改めてフードを深く被り直したマールを見て、グリューネは
「本当にそれだけで済んだら良いのだけれど…やれやれ。年寄りの取り越し苦労
かしらねぇ…」と呟きました。
その呟きは、フードを押さえていた万里子の耳には届かなかったのですけれども……。
や、やっと王都に到着しました。
スピードがゆっくりすぎてすみません(汗)
え~っと、マール速度って事で……。