30.マリー姫の噂
夜、ヤンテの光はいつもよりもその光を弱めておりました。
ただでさえ巨木に囲まれているこのサイナの長老の森は、そのわずかな光を遮り
深い、深い闇に包まれておりました。
いつもであれば、仕事の疲れもあり、ルヴェルにもらう薬草茶を飲むとすぐに
眠りにつけたのに……今日はいつまで経っても眠れませんでした。
そんな万里子の手には、宮殿のマリコからの招待状が握られておりました。
自宅にしている馬車に戻った後すぐに、引き出しから取り出して、もう既に何度も見た
その招待状を、まるで読み落としがあったのではないかと調べるように、封筒の
裏までも確認しました。
が、既に頭に入っている情報しか、書かれてはおりませんでした。
「差出人の名前があるだけの封筒に、カードが3枚……か。ほんとに、行ってもいいのかな」
もう何度も見たカードに、また視線を走らせた時、万里子はふっと森が静かになり、
闇が濃くなったように感じました。この感覚には覚えがありましたので、万里子は
寝台から起き上がり、腕時計を置いてある窓際のテーブルに向きました。
視線の先で、カチリと小さな音をたて時計の蓋はゆっくり開き、何度か見た細い
藍色の煙がすぅっと室内に出てくる様を見守りました。
どんどん、煙が一箇所に集まり人の形を作っていきます。
「イディさん、こんばんは」
万里子が声をかけた時、人の形を作った煙は、イディに姿を変えました。
自分を待ち構えていたかのように寝台に座りこちらを見ている万里子に目を留めると、
イディは万里子に近づき、「こら。まだ起きていたのか?」と万里子の頭をくしゃっと撫でました。
その口調は夜更かしを咎めるものでしたが、イディの目は嬉しそうに微笑んでおり、
久しぶりに『起きている状態の万里子』と会えた事が、嬉しいようでした。
最も、当の万里子はそのような微妙な表情の変化に気付かす、咎められた事に対し、
「明日はお休みなんです」と言い訳しながら少し口を尖らせておりました。
イディがクラムルードの書類仕事を代理をし始めクラムルードが日中万里子の前に
現れるようになった時から、クラムルードとの約束で夜は自由時間となったイディは
毎晩万里子の元へ訪れておりました。
専ら夢の中に入り込み、万里子と様々な話をして夜を過ごしていたのですが、
夢の中の万里子は、本人には違いありませんが、体温がなく人形のような為、
こうして生身の万里子に会うのは久しぶりでした。
「手にしているのは……例の招待状か?」
寝台の端、万里子の隣に腰を下ろしたイディは、万里子から招待状を受け取り
先程までの万里子と同じように、隅から隅までチェックしました。
「なぜこれを読んでいた?出席するんだろう?」
「それが……ルヴェルさんが、式典にあたしの席は用意されていないって言うんです」
「なんだと?」
イディも初めて知ったようで、出ている左目を見開きました。
今では万里子も、イディが継承権は無いけれども王族の一員である事は知っておりましたから、
イディが知らない事に驚き、今日、ルヴェルから聞いた事を話しました。
ルヴェルが式典の席表を手に入れて見せてくれた事、そこには確かに万里子の席が
無かった事……心配したグリューネに、元宮殿勤めで今回も王族の殆どの衣装を
手がけているという事もあり、グリューネのお供という形で一緒に行く事を
勧められた事…
話していると、イディの表情がどんどん硬くなっていくのが、さすがの万里子でも
分かりました。
イディは、横に座る万里子が自分を心配そうに見ている事に気付くと、苦笑しましょた。
「ルヴェル殿はさすがと言うか……あの人の事だから、きっと宮殿の女官にうまい
事を言って入手したんだろーな」
「あ…、ハイ。そう言ってました。あっ、ナイショって言ってましたけど…」
口篭る万里子の頭を、イディは少し表情を柔らかくして「わかってる」とまたくしゃくしゃ撫でました。
「マールは、俺を信用して話してくれたんだろ?ルヴェル殿との約束を破ろうとした
わけでも無い。でも、不安なんだろ?俺は勿論口外しない。何でも吐き出していい。
伊達に、今まで色んな話をしてたわけじゃない。俺にしか言えない事だってあるだろ?」
万里子はイディの言葉に泣きそうになりました。
この世界に来て、沢山の人達と知り合いましたし、万里子を好意的に受け入れてくれる
人も少なくありませんでした。
ですが、その中でも万里子が異世界からやって来た事を知っているのは、最初その場に
居合わせたジルと、夢の中で元の世界の話をしたイディだけでした。
ルヴェルやグリューネにも気付かれているかもしれませんが、改めて打ち明ける事は
していなかったので、不安な気持ちの今、目の前にいるのがイディだという事が
有難くて仕方がありませんでした。
「マール、これは何て書いてあるんだ?」
イディが万里子に見せたのは、日本語で書かれたカードでした。
「えっと、『これからのあんたとアタシのためにも、絶対に来てチョーダイ』って書いてあります」
すると、イディはその端正な顔を少し歪ませました。
「マール……マリーには気をつけてくれ」
「えっ?」
まさか、そのような言葉が出てくるとは思っておりませんでしたので、万里子は思わず
素っ頓狂な声をあげてしまいました。
「実は、マリー付きの女官達が、この短い間で5人辞めている」
「はぁ…」
万里子は、神殿で自分を「専用のメイドにしろ」と言ったマリコを思い出しました。
気の強そうな彼女でしたので、何人かの女官と上手くいかなかったのかも…と、
そう考えましたが、それがなぜ「気をつけろ」に繋がるのかが分からず首を捻りました。
「まさか…この招待状は、私をその…専属の女官にするための物なんでしょうか?」
「いや。違うと思う。式典の招待状があるのに、なぜ席が無いのかは分からないが、
この滞在許可のカードを見ると、賓客扱いになっているから、それは安心していい」
「じゃあ…気をつけろって、何をですか?」
先にその話題を出したのはイディでしたが、彼はこの期に及んで言葉にする事を少し
躊躇しているようでした。
「私、何か彼女を怒らせてしまって、狙われてる。とか?」
「いや。違う……と、言いたいところだが、正直、確信は…無い…。こんな事が
なけりゃ、
マールには聞かせたくない話なんだが……仕方ない。これを聞いてもあまり不安に
思わないで欲しいんだ。まだ噂の域を出ていないから」
そう言われて、「はい、ソーデスカ」とすんなり聞ける人間が果たしているでしょうか……。
当然、万里子は益々緊張し不安感が募っておりました。
そんな万里子を落ち着かせるように、イディは万里子の両手をぎゅっと握りました。
そして、衝撃的な言葉を落とします。
「実は、その5人は『気がふれた』とされてるんだ。すぐに宮殿からも去ったから
何があってそうなったのか、医師団にしか分からないが、医師団の言葉も曖昧でな」
あまりに想像を超える言葉に、万里子は言葉を返す事が出来ませんでした。
一体、女官が「気がふれる」ほどの何を、マリコがしたと言うのでしょう。
詳しい話が分からないまま、マリコの個人的な招待を受ける事は、不安を超えて
恐怖になってしまいそうでした。
「あの。正直…行きたくないんですけど」
「気持ちは、分かる。けど、マリーの言う『これからのお互いのため』も、気になるだろ?
ルヴェル殿がこの話までもを知っているか分からないが、彼の言葉に甘えた方が
いいだろうな…。
俺は殿下についてなきゃいけないから日中は動けないし、ジル殿は式典に神官長として
出席する為、もう準備の為に王都に入っている。ルヴェル殿も、サイナの長として
先に王都に入るはずだ。そうなると、グリューネ殿と一緒に来るのが一番安全だし、
お供という事なら宮殿の部屋もグリューネ殿と同室か隣室をあてがわれるはずだ」
そう言うと、イディは立ち上がりました。
「益々不安になったよな。悪い。でも、隠しておいて何かあっちゃ俺も嫌だからな…。
正直に話して、警戒心を持ってもらった方がいいと思ったんだ。と言っても情報が
少ないが…俺も、調べてみるよ。これでも一応、王子って立場だからな」
冗談ぽく言うと、イディは真面目な表情になって座ったままの万里子の前に
跪きました。
「お前の為なら、呪われた王子って言われても、この立場を利用して情報を集め、
そしてお前を守ってやる」
万里子がその『呪われた王子』という不穏な言葉に反応し、聞き返そうとしたその時には、
もうイディは藍色の煙となり、時計に吸い込まれていくところでした。




