28.意外な訪問者
「兄上。また今日もアイツのとこに行くのか?」
寝台に勢いよく後ろ向きに倒れこんだクラムルードが、そわそわし始めたイディに向かって訪ねました。
ここは宮殿のクラムルードの私室で、グリューネに式典の衣を注文しにサイナの街に
行ってから、数日経っておりました。
「また。って……結局いつも行けないだろう!」
あからさまに機嫌が悪くなる兄を、クラムルードは不思議そうに見上げました。
「なぁ。兄上、なんでアイツなんだ?」
「は?」
ごろり。と寝台の上で反転し、うつぶせになると組んだ腕の上に形よく尖った顎を乗せました。
その様子にイディは、コイツ……なんだかんだ言ってまだ寝ないつもりだな。と、
本日の訪問も半ば諦め、椅子を引きずってきてクラムルードの前に座り、クラムルードの
話に付き合う事にしました。
が、すぐに後悔する事になります。
「あの娘、別に綺麗でも無いじゃん?つか、むしろ全然綺麗じゃない。みすぼらしい
格好してたし、怒りっぽくて手が早いぞ!背だって小さいし、いくつなんだ?身体に
凹凸が少なくないか!?いや…胸は大きかったかな。でもくびれは無かったぞ。
兄上、あんなのが趣味なのか?」
「話に付き合おうなんて、思うんじゃなかった…。お前なぁ。なんでそんなに女に
敵意を持つ?マールだけじゃない。お前宮殿の女にも厳しいじゃないか。専属の女官も
つけないし」
「女は……面倒だ。汚いし」
「……まだ、根に持っているのか」
「…まだ。なんて言えるほど、過去じゃないだろ」
「義母上が亡くなったのは、もう随分前だ…」
イディが瞳を、軽く閉じました。何かを思い出すように……思い出すのが、怖いように……
それは自分に母の愛を与えてくれた存在…王の正妃であり、クラムの実母の優しい微笑みでした。
「母上の死後に父上に取り入って後釜に入ろうとする者がどれだけ多かったか!」
それは同時に、クラムの義母になるという事。父王に媚びる傍ら、クラムを手懐けようと
近づいてきた女達……。
思い出し、ぶるり。と肩を震わせると、クラムルードは未だ目を閉じたままの兄を見上げました。
「母上が亡くなったのは随分昔だ。俺はまだ幼くて、差し伸べられる女達の手の
優しさが……本物か偽者かの区別がつかなかった。今は分かるけどな。
でも、父上に取り入ろうとする女は今だって居る。そんな…過去の話じゃない」
イディが、閉じていた目を開き、藍の左目でクラムルードをじっと見つめました。
「マールも同じだと?お前に取り入ろうとしたと?」
「……女は信用できない!」
そう言って、今度はクラムルードが顔を伏せてしまいました。
「明晩から、暇をやる」
「は?」
イディは、話の流れが急に変わった事に驚き、少し左目を見開きました。
「アイツのとこに行ってもいいぞ。今日はもう遅いんだろう」
「どうした?急に」
「交換条件がある。その代わり、昼の書類仕事を代わってくれ」
「俺と違ってお前が働くのは昼だけだろう!それじゃ堂々とサボるってだけの
話だろうが!」
「式典まででいいから!」
「式典まで?」
「確かめたい事がある」
「何を?」
「まだ、言えない」
何か面白い事を思いついたかのようにクラムルードの赤い瞳はキラキラと輝いて
おりました。
頬が緩んでいるところを見ますと、余程楽しい事を思いついたのでしょう。
ヤンテが復活してからというもの、仕事も倍増してなかなかに忙しい日々を
送っておりましたので、このようなクラムルードの表情を見るのはイディも
久しぶりでした。
側近としては、仕事をサボらせるわけにはいかない。だが、兄としては弟の頼みを
聞いてやりたい。男としては……マールに会いたい。結果、イディが出した答えは
勿論…
「……わかった。式典まで。だぞ!」
式典までの十八夜、万里子に会いに行く事を選んだのでございます。
昼の書類仕事はクラムルード専用の書斎で行われ、同席するのはイディのみでした。
仕事の間は緊急時以外は誰も立ち入りませんので、時々代わりを務める事もございました。
それが今回は少し期間が長いだけ……誰にも影響は無いだろうと思っての事でありました。
ですが、影響はあったのでございます。
それは代理仕事が行われていた宮殿ではなく、遠く離れたサイナの街で……。
「また来たんですか?」
パチリ。と小枝を踏む音がして、泉の淵に腰掛け染色中だった万里子が振り向きますと、
そこには腕を組んで偉そうに見下ろすクラムルードの姿がありました。
「別にお前に会いに来たわけではない」
「それは知ってますけど……」
「グリューネ殿の腕は確かだが、今回のような国をあげての盛大な式典は久しぶりなのだ。
ヤンテが消えてた頃は昼が無かったからな」
「…だから?」
「グリューネ殿が式典用の正装を作るのは久しぶりなのだ。だからこうして時々様子を…」
「あなたって本当に失礼!ならグリューネさんの作業部屋に行けばいいじゃないですか!」
これ以上注文は受けないと言っていたグリューネが、殿下の注文は断れないと言い、
毎日無理をしているのを傍で見ている万里子でしたので、未だグリューネの腕を
疑うような発言は許せませんでした。
「ここに来る前に、もう見た。まぁ、なかなか順調なようだ」
「当たり前です!」
肩を怒らせながら、両腕を泉に突っ込み、手にした糸の束をじゃぶじゃぶと洗っている万里子は、
今日もみずぼらしい格好をしておりました。
色は初めて会った時のくすんだ茶色ではなく、少し明るいクリーム色でしたが、それでも
何の装飾もないシンプルなデザインの衣は、動きやすそうではありましたが、宮殿の
一番身分が下の掃除婦達だってこんな格好はしません。
このようなみすぼらしい格好の娘にこんな態度を取られるなど、クラムルードには
考えられない事でございました。
クラムルードがこの国の王子だと知っても、目の前の娘の態度も口調も変わりませんでした。
最初は少し遠慮していたようだったのですが、クラムルードを殴ってからというもの、
なんだか吹っ切れたように、無礼極まりない態度で接します。
普段なら怒っているところです。ですが……この娘は、クラムルードが一番嫌う事をしませんでした。
それは、独身となった父王に近寄る女達が揃って行う『女』を武器にした行動でした。
クラムルードが成長してからは、父王だけではなくクラムルード本人に狙いをつける
女もおりました。狙いが変わっても、取る行動は同じ……過度な露出に、媚びた口調、
派手な化粧に甘ったるい香油、ねっとりと絡みつく腕に、意識的に押し付けられる胸…
思い出すだけでも寒気がする!ぶるり。と肩を震わせ、激しく頭を振ったクラムルードを、
先ほどまで肩を怒らせていた万里子が、心配そうに声をかけてきました。
「寒いんですか?」
今日は少し風が強く、ヤンテの光もいつもより弱い為、巨木に囲まれた森には
日が差さず、万里子も今日の泉の畔は少し肌寒いように感じておりました。
「いや……そうではない」
そっけなく出迎えたかと思えば、すぐに怒る。怒っていたかと思えば、心配そうな
表情で問いかける…なんなのだ。この娘は……思わず首を捻ります。
クラムルードには、万里子の反応がいちいち予想を裏切りとても新鮮に映りました。
と同時に、意外すぎる行動が理解できず、少しイライラするのでした。
万里子は今度、「そうではない」という言葉を受け、「あ。そうですか」とまたそっけない
態度に戻り、また泉に糸を突っ込み作業を続けました。
「俺がわざわざ姿を見せたというのに、何かもっとこう…ないのか?」
「はぁ……王子という職業は思ったよりもお暇なのですね。って事くらいでしょうか……」
「俺は忙しい!今は、兄上に仕事を代わってもらっているだけだ。本来は、このような
事をしている暇など無い!」
今度は万里子が首を捻る番でした。勝手に来ておいてこの言い草…それこそ私に
どうしろと言うんだ。
「お仕事を代わってもらってまで、どうしてここに?」
「まさかお前、自分に会いに来たなどと考えないだろうな!」
「それは無いですけども」
万里子には小さく、ちっ。と舌打ちが聞こえた気がしましたが、きっと気のせいだったのだろうと
気にしない事にしました。
目の前で相変わらず偉そうに腕組みをしているクラムルードは舌打ちしても
おかしくない程に苦々しい表情をしておりましたが、今の会話で彼が舌打ちする
理由がありません。そう万里子は思ったのでございます。
「……今は式典の準備の方が大切なのだ。俺は衣の様子を見に来ているだけだ」
「ですから…それはグリューネさんが作っている最中です。私が今染めているのは
あなたのじゃありません!」
ほら!と、万里子は勢いよく泉から糸の束を持ち上げ、手にした糸をクラムルードに
見せようとしました。
ですが、泉の水を含んだ糸はずっしりと重く、勢いよく持ち上げた万里子の腕が
一瞬抵抗感を覚えました。
「あ」
重い…!そう思った時には既に遅く……万里子の身体は糸を抱えたまま、泉に向かって
大きく傾きました。
「何をしている!」
落ちる!そう覚悟したその時、万里子のおなかに力強い腕が回り、泉に向いていた視界が
一気に巨木の青々とした枝に変わりました。
「…ぁ」
気がついた時には、万里子は背中からクラムルードに抱えられ、草の上に仰向けに
なっておりました。
どうやら今自分の下敷きになっている彼が、泉に落ちそうになっていたところを
助けてくれたようでした。
「あの…ありがとうございます……すみませんでした!」
自分が思いっきり体重を預けている事に気がつき、慌ててクラムルードの腕を解き
離れる万里子に、クラムルードは「危ないだろう!気をつけ……」と怒鳴りかけ、
突然沈黙しました。
「…えっと。すみませんでした?」
突然の沈黙と、一瞬で表情が固まったクラムルードが、万里子には不思議で仕方がありませんでした。
首を傾げていると、背後からふわりと大きなストールを巻きつけられました。
「!!ルヴェルさん!」
「そんなに濡れた衣を着ていては、風邪を引いてしまうよ」
万里子がふと自分の身体を見ると、衣の前面がびしょ濡れでした。
泉には落ちませんでしたが、水を含んだ糸を胸に抱えていたのが原因でした。
「クラムルード殿下。おばあさまが衣を合わせたいと言っておりましたので
作業部屋へどうぞ。マール、君は着替えた方がいいね」
万里子から取り上げた濡れた糸束を畔に置いたままのカゴに入れると、更にきつく
ストールを万里子の身体に巻きつけ、万里子を馬車に連れて行こうとします。
その少し強引な仕草に驚きながらも、万里子は振り返りながらクラムルードに向かって
「ありがとう」と叫びました。
果たして、その言葉がクラムルードの耳に入っていたかは定かではありません。
何しろ彼はとても混乱しておりました。
「なぜ……あの娘の身体の中心に石があるのだ?」
誰もいなくなった泉の畔に、クラムルードの呟きだけが残りました。