20.溺れる瞳
結局、食事が終わってそのまま待っていてもジルは戻って来ませんでした。
「ルヴェル様が温室においでなのでしたら、お話は少し長引くかもしれません。
あの温室はお2人で管理されていますので」
ですから、そろそろ就寝のご準備を。とシアナに言われ、万里子はようやく自分の塔に
向かったのでした。
ゆっくりとお風呂で気持ちを落ち着かせている時、ふと胸の赤いシルシが目に入りました。
そうだ・・今日は眠らずにイディを待ち伏せしなければ・・・。
なぜ、私の元に毎夜通うのか。なぜ、夢に入り込むのか・・・ルヴェルは、夢の中だと
警戒心も薄く情報が入りやすい。と言った事を思い出し、万里子は首を捻りました。
一体彼は万里子から何の情報を知ろうとしたのでしょう。それに、イディはムバクの中でも特に力の強い
若者だという事でした。
そんなに強大な力を持つ彼が何故・・・・。そっと、シルシを指でなぞり、頑張って眠らずに待とうと
決意したのでした。
何事もない穏やかな日々をこれまでジルの屋敷で過ごしてきましたが、それでも慣れない異世界で
身体は疲れるのか、ポケットにもぐりこむと、あっという間に眠りに落ちていましたので
眠ったふりをしながらイディの来訪を待つのは難しいと思われました。
ですが、今日は1日で様々な事がありました。新しい出会い。何もかも見透かしたような
ルヴェルの眼差し、初めて見る焦った表情のジル、そして・・・毎夜ひっそりと訪れているという
イディの事・・・・彼ら一族の事、それを考えていると疲れているはずなのに、睡魔はやってきませんでした。
日中に魔力が高まるナハクだというジルは、もう癒しの眠りについたでしょうか・・。
ならば、ルヴェルの言った『イディが作った道』は開けて、彼は今にもここに現れるのでしょうか・・・。
どれ位、時が経ったでしょう。
静かな静かな室内。聞こえるのは自身が動く時の衣擦れの音と、呼吸。そんな静けさの中、
カチリ。と小さな金属音がしました。
万里子は目を閉じたままでおりましたが、室内の空気がそよりと動き、一層の闇につつまれる・・・
そんな感じがして、イディの訪れる道が開けた事を知ったのです。
万里子の鼓動は不思議と落ち着いていました。
イディはいつものように万里子の眠る寝台の縁に音もなく腰掛けました。
そっと、万里子のむき出しの肩に指をすべらせます。
白く、柔らかく、温かい・・・・・その全てをじっくり堪能するかのように、
ゆっくりと、ゆっくりと万里子の手首に向かって自身の指を滑らせました。
そのまま万里子の小さく細い指に、指を絡ませて自らの顔に引き寄せます。
そうしてそっと。唇を寄せたのでした。今宵もまた、夢に語りかけるために。
万里子は、イディの硬く冷たい指が自分の肌を撫でるように滑り降りて行くのを
感じていました。
本来なら驚き、恐れを感じてもおかしくない感触ですが、無骨な印象のイディが、そっと自分に触れてくる
その優しい感触に、不思議と安らいだ気持ちになりました。
すると指を絡められた手が持ち上げられて、手の平に彼の熱い息遣いを感じました。
「イディさん」
目を閉じていても、イディがピクリと反応したのは手の平をくすぐる彼の唇からも
わかりました。
「起きてた、のか」
「はい」
万里子が目を開けて、そのまま上半身を起こすとそれに反応して室内の光玉がほんのりと
明るくなりました。
闇に溶け込んでいたイディの姿が浮かび上がります。
そのまま、しばらく言葉も無く見詰め合っていました。
先に目をそらしたのは、イディでした。
「なぜ、責めない?勝手に夢に関わるなと」
「私には、イディさんの利益になるような情報はありませんから。
それに、イディさんは『夜の寂しさから守る』って言ったでしょう?それが夢の事だったのかなぁって・・。
えっと・・・この『シルシ』には驚きましたけど」
一度そらされた視線が、また万里子の顔の上に戻りました。見えているイディの
左目が笑みを湛えています。
「とても、有益だったよ。君の夢の中では時間を忘れていた。今まで一緒だった家族の事・・
ガッコウ?初めて聞く事だったな」
「・・とても平凡な話です」
「相手が君だから、意味があるんだ。・・・誰かの指示があってここに忍び込んだりしたのではないし、
君の夢の事は誰にも報告していない。それは安心して欲しい。
そうは言っても俺の話は信用できないか?」
じっと、イディの目を見て、万里子はふるりと首を振りました。
「信じますよ。イディさんは盗賊から助けてくれた恩人ですもん。悪い人じゃないって
分かってますから」
すると、真顔で万里子を見つめていたイディが自嘲気味に口角を上げました。
「悪い人じゃない?俺が?」
「はい」
「そんなに簡単に人を信じちゃいけない。俺の目を見たらきっと恐怖感を抱く。これは・・」
そう言って、普段隠れている右目を覆う長い前髪を乱暴にかき上げました。
「あ。私と一緒ですね」
「・・・え?」
意外な反応に、意表を突かれたイディは、そのまま黒と藍、両の目でマジマジと万里子の顔を見つめました。
万里子の瞳は、薄暗い室内でも黒い瞳をしているのが分かりました。
室内のほんのり明るい光玉の光を受けて、きらきらと光る黒くつぶらな瞳と一緒だと
目の前の少女は微笑んだのです。
イディは、今まで自分の右目が受けた悪しき表現の数々が、泡となって消えていくのを感じて、
今にも泣きそうな笑顔で、万里子に笑いかけたのでした。
イディ、完璧に堕ちたっぽい?