まよいばこ
まよいばこ
森川 めだか
何も起きないのが一番なのだが、もう起こってしまった以上はそんなことも言ってられない。
たかはらが話し出した。「ある日な、田舎の電車に知的障害者の親子が乗ってきたそうだ」
ましこが口を出す。「親子とも?」
「まあ、そうだ。どうも車掌にはそう見えたらしい。話が通じないんだな。昔のことだから、いちいち車掌が車両を回って切符を見せてもらう、もしもし、切符はどうされましたか? って車掌が聞いてもよく分からないらしいんだ。これは困ったな、ってでも田舎のことだからそんなにあくせくしてないんだな、まあ、いいや、駅に着いたら降りるだろう、ぐらいに思っていたらしい、で、ポッポーとその田舎電車が田園を走っていって・・、駅に着きました。それでどうなったと思う?」
「・・さあねえ・・」
「その知恵遅れの親子の乗っていた席にみかんが置いてあったそうだ」
「みかん」
「そう、みかん。親子にはそれが電車賃だったんだな、って話。これを聞いてどう思う?」
ましこはしばし考えた。
「そうだな、それはつまり「いい」話だ。そうだろう、何て言ったっけな、・・えーと、そうそうアレだ、「ほっこり」」
「ほっこり、そうだ。そうだな」
「あと、「嬉しい」とか「楽しい」、・・楽しいは少し違うか」
うーん、とたかはらもうなった。
「楽しい、ではないかな。でも間違ってはいない。忘れるな、人それぞれ感じ方はさまざまだ、それも当たり前だったよな」
ましこは深く肯いた。
このたかはらとましこの二人の男はある氷河の探検隊だった。そしてクレバスに落ちて、こうして二人きりで他の隊員が救助に来るのを待っている。
そして、お互いがお互いを監視し合っている。
気が狂わないようにだ。人の精神とはもろいものだ、二人はいわゆる極限状態に置かれていたのである。それをいち早く察知したたかはらが「自分の迷宮に迷い込まないよう緊密に連絡を取り合おう」とましこに話し、二人ともが「当たり前の感情を維持するために確認し合う」ことを約束した。
クレバスの下は決して広くない。二人が身を寄せ合うだけで沢山だ。そして極寒だったが探検隊である二人はそれなりに準備をしてきたため、凍死することはない。
食料はサックにあるが、生命を維持するだけの量を摂取する。水分は氷を割ってそれを口の中で溶かして摂取する。
心配なのは精神面だ。
二人ともその方面にも通じていたため、お互いがお互いを現実に引き戻す役割を担っていたのである。
たかはらが言った。
「うん。間違ってない。今のみかんの話に題名をつけるとしたらどんなものが適当だと思う?」
ましこは少し悩んだ。
「・・カブトムシの殺害というのはどうかな?」
「待て、待て、ましこ。それはおかしい。それは当たり前から逸脱している。大丈夫か?」
「そ、そうか? ぴったりだと思ったんだがな、たかはら、お前がつけるとしたら題名は」
「うーん、・・フランケンシュタインの体重とか、だろうな、当たり前に考えて」
「おいおい、たかはら、違う違う。どこにもそんな要素なかったぞ。ちょっと待て、二人とも少しキたか? ちょっとさっきの話をおさらいしてみよう」
「うん、みかんを電車賃に置き換えた、話だ。田舎の電車でな。車掌が・・」
「そうそう、たかはら? その調子だ。車掌はどう思ったのかな? その、・・みかんを見た時さ」
「怒ったんじゃないか?」
ましこはたかはらの目をまじまじと見た。
あの探検隊でもしっかり者だったたかはらである。
ましこはわざと笑い出した。
「さすがたかはら、余裕があるな。ここでジョークを飛ばすとは。笑うだけ体力がいる。やめよう」
「・・うん、この話はやめよう」
二人ともしばらく黙った。「今、何時ごろだろう」どちらからともなく言った。
上のぶ厚い氷を透かして光が入ったからである。まるで木漏れ日のようなかすかな光であったがそれは・・。
「これは「喜ばしい」ことだな」ましこが言った。
「そうだ、まことに喜ばしい。「嬉しい」ことでもある」たかはらもやっとその顔に生気が差してきた。
「しかし、」たかはらが続ける。「最初にも言ったが脳みその感覚がないってのは正に・・、ましこはどう思う?」
「うん、「難しい」かな?」
「むずかしい・・、うん、それも間違ってはいないな。感情面としては「悩み深い」とか「深遠だ」とかかな」
「しんえん・・、まあ、半分賛成だ。「困る」だった! 俺たちは困ってる! そうだろ、たかはら!」
「そうだ! 「困る」! 脳みそに感覚がないってのは正にこまる!」
「いやあ、よく言語化できたな」
「いや、ましこ、それは「当たり前」なんじゃないかな」
「正に、「ドンピシャリ」だ」
二人は大いに笑った。
「俺たちは「明るい」」たかはらが言った。
「そうだ、明るい。脳みそも活発化して温かくなってきただろ」
「ああ、「気持ちいい」な!」
「うん」
「・・」たかはらが急に黙ってしまった。
「どうした、たかはら。気になったことがあるのなら今、言ってくれ。後から言われるのが一番「気に食わない」んだ」
「いや、俺たちは明るいが、未来は・・、どうなんだろうなって思ってな」
「そりゃ「暗い」だろ」
たかはらはましこの目をまじまじと見た。その目はまだ笑っているのである。
「そうだ、だが、ましこ。こう思わないか? 「言わない方がいいこともある」というのが「当たり前」なんじゃないか」
「ん? ちょっと言っている意味が複雑だな・・、つまりアレか? お前は今、「悲しい」んだよな?」
「そうだ、ましこ。俺は悲しい。よく複雑な気持ちを言葉にできたな。俺がなぜ悲しいか分かるか?」
「それはあれだろう、・・俺がみかんの話にカブトムシの殺害なんて言って光が上から差すところを二人で見たからだろう」
「ましこ!」たかはらはましこの頬をビンタした。
「しっかりしろ! 俺はお前が未来が暗いなんて言うから悲しいんだ! 俺たちは困ってる! そうだよな、それはお前が言った。困っている時には未来は暗いなんて言ったらおかしい、「辛い」だろ?」
ましこは泣いた。やっと正気に戻ったみたいだ。
「すまん、たかはら。俺は弱い人間だ。少し気がおかしくなっていた。いつでもビンタしてくれ」
「泣くな、ましこ。体温を奪われる。必ず救助は来る! 確認しよう、俺たちがクレバスに落ちるところは誰にも目撃されていないが、連絡が取れなくなったら即時キャンプに戻り遭難者を捜索するのが「当たり前」だっただろ? 思い出したか?」
「ああ、ああ、そうだ。必ず救助は来る」
「そうだ・・」
「ちょっと待て、何でさっきあんなよく分からない話をした?」ましこが聞いた。
「え?」
「だから、さっきのみかんの電車賃の話、」
「分かりにくかったか?」
「いや、分かりにくいな。つまり何だその、お前は俺に何を求めてた? どんな「感想」を持てばよかったんだ?」
「ほっこり、とか嬉しいとか、お前の言ったことでいいと思うよ」
「そうか? 本当にそれだけか? 他にもあるような気がする。・・たかはら、お前はこんな時にあんな分かりにくい話をするなんて「残忍」な男だな」
「ざんにん・・、そうか、そうかも知れん。俺が謝ればいいのか? 俺が謝ったらお前はどんな気持ちがする?」
「そりゃ「気持ちいい」な」
「悪かった、謝る。本当にごめんなさい」たかはらは頭を下げた。
「違うな、俺は「悲しく」なった。お前が謝っているのを聞いたら俺は悲しくなったよ」ましこはまた泣き出した。
「泣くな、ましこ。それは「当たり前」だ。他の話をしよう。必ず救助は来る。今度はましこ、お前の話したいことを話してくれ」
ましこは鼻を拭いた。ぶ厚い手袋の中からも鼻水がバリバリに凍っているのが分かる。
「ウム・・、そうだな、何がいいか・・、適当な話が思い付かないな、歌でもいいか?」
「うん、それはいいな」
「ラララ・・」
「うん、いい声だ」
「ラララ・・」
たかはらはうっとりとましこの歌声に聞き入っていた。
「・・言葉にできない」
「ウム・・、その歌は知っている。だがなぜ今その歌を歌う?」
「まずかったか?」
「今、俺たちは気が狂わないために「当たり前」の感情を確認し合っているんだよな?」
「ハはハ」
「どうして笑う?」思わずたかはらはまたましこの頬をビンタした。
「大丈夫か、ましこ。おかしくなってるぞ」
「いや、今お前は「怒った」んだろ? だから俺を殴った」
「なるほど、そうだ。俺は「怒った」。なぜ俺が怒ったのか分かるか?」
「俺の歌が「悲しい」からだろ?」
「違う、あの歌は「あなたに会えて本当によかった・・」だろ? だからあの歌は「嬉しい」歌だ。俺が怒ったのはあんな歌を歌ったからだ」
「なぜだ? なぜ「嬉しい」のに「怒る」んだ? お前こそおかしくなってるぞ!」ましこはたかはらの頬をビンタし返した。
狂ったようにたかはらが怒り出した。
「分からない奴だな! 俺が怒っているのはお前が言葉にできないなんて歌を歌ったからだ? 分かるか? 今、俺たちは・・」
「ちょっと待て」ましこはたかはらの顔を手で押さえた。
「何だ? 何が起きた?」
「聞こえるだろ?」ましこは目を閉じた。
たかはらもそうしてみた。
ガリガリ、と氷を掘るような音がした。
「助けだ!」
「おーい!」
たかはらとましこの二人はあらん限りの大声を出した。周りの氷も太鼓のように打ち鳴らした。
「ここだ! ここだ! 早く助けてくれ!」
「おーい! おー!」
真上で人の声がくぐもって反響する音が聞こえる。
さっきとは違い、影が差した。だがそれは希望の影だった。上に人がいる!
二人は手を取り合った。
「助かった! 見つけてくれたんだ! たかはら、俺たちは助かるぞ!」
「おお、ましこ! 俺たちは生き残った! お前のおかげだ、「嬉しい」な!」
「お前こそまだ「怒って」ないか?」
「怒ってるわけないさ、少し目が痛いけどな」
「どうした? なぜ目が痛い?」
「さっき、お前に殴られた時に君の指が俺の目に当たった」
「ハはハ」
「なぜ笑う? ましこ、そこは「怒る」べきだろ」
「いや、「おかしい」ね、だから横隔膜がひくひくするのさ、お前、「おかしい」ことを言ったぞ?」
「いや、全く笑えないぞ。俺は気が狂ってない。お前まさか・・」
「いやいや、早とちりするな、俺はお前が今そんな小さな事を気にしてるのが「おかしく」て笑ってしまったんだ。俺を殴れ」
容赦なく間髪入れずにたかはらはましこの頬をビンタした。
ましこの笑いがやっと止んだ。
「そうだ、俺は「悔しい」ぞ。お前が今殴ったからな。これは普通の感情だろ?」
「ああ、俺たちは気が狂わなかった」
「そうさ、俺たちは気が狂っていない」
「おーい! おーい!」
「ここだ! ここだ!」
穴が掘られている。上からポタポタと水が滴ってきた。
「わはは、嬉しい! 嬉しい!」
「たかはら、俺も嬉しいぞ!」
「ましこ、それが「当たり前」さ、だって俺たちは助け出されるんだから!」
「ああ、おーい! こっちだー!」
音がピタリと止んだ。
「どうした? 何でやめた?」
「分からん」
二人は耳を澄ました。
「まさか日が暮れたのか?」
「奴ら中断したのか?」
「いや、諦めたのかも知れないぞ」
「声が聞こえなかった?」
「畜生!」たかはらは氷を殴った。
ブロロロロ、と遠く聞き慣れたエンジンの音がした。
「あれは車だ、本当に行っちまいやがった・・」
「おい、ましこ、諦めるのは早い。せっかくあそこまで穴を掘ってくれたんだからどうにか俺たちだけであそこまでよじ登れないかな」
「そうか、行けるかも知れない」ましこはサックからかぎ爪の形をしたフックを出した。たかはらは命綱をサックから出した。
ましこが隣の氷にそのフックの爪を刺す。
「よし、」ましこの声で、たかはらが二人の体とフックを命綱で結ぶ。
「焦らず、焦らず」たかはらがましこを押し出す。ましこはたかはらの背を利用して上へとフックを刺す。たかはらは下のフックに足をかけ、またましこを押し出す。
「もう少し、」ましこがフックを刺して止まった。
「おい、たかはら」
「ん? どうした、ましこ。俺は上が見えない。報告してくれ」
「穴はもう一歩だ。だがそこまで行ってもどうやって氷を割る?」
「ましこ、氷の厚さはどのくらいだ? 割れそうにないか?」
「ちょっと無理そうだな。2,3mはありそうだ」
「ましこ、こんな事言ってる場合じゃないかも知れないが、今の気分はどんな感じだ?」
「うーん、「絶望」かな・・」
「ましこ、しっかりしろ! 俺は「悲しい」くらいだ、さっきの言葉にできないくらいな」「ちょっと待て」ましこが下を向いた拍子に足がたかはらの顔に当たった。
「さっき、お前はあの歌を「嬉しい」と言ったぞ? お前、おかしくなってるのか?」
「いや、あの歌と今は別だ。分かるか? 俺の言っていることが。俺たちは今、「ギリギリ」だ」
「いや、分からんな、「ギリギリ」どころか「絶望」なんじゃないか?」
「まず感情を一旦置いて、行動を決めよう。下りるか?」
「・・」
「なぜ返事をしない?」
「「辛い」からだ」
「何が「辛い」? 姿勢が「辛い」か?」
「いやいや、普通分かるだろ、たかはら、心が「辛い」んだ。いちいち説明するとだな、俺が下りようと言ったらもう希望がなくなりそうな気がするんだ、だから言葉にできないから返事ができなかった」
「また言葉にできないか! その話は一旦やめようと言っただろ! 下りるか下りないか、それを決めよう。俺は下りた方がいいと思う。この姿勢がつ、・・キツいし、お前が重いし、いちいち説明すると、フックをこのままにしておいたらいつでもまた上れる、一旦下りて落ち着かないか? それでまた策を練ろう」
「そうだな、それは尤もだ。俺は「賛成」だ」
二人はゆっくり穴の底へ戻っていった。
「とにかく何か食え、落ち着こう」たかはらはそう言って、自分もサックからカロリーパーツを出して口に入れてゆっくりと咀嚼した。
ましこもそれを真似するサルのようにそうした。
ガガガ、といきなり音がした。
二人とも「ビクッと」した。
上を見ると、何人かの人影が重なっており、さっきの穴をまた掘り進めているようだ。
「分かったぞ、ましこ、さっき引き返したのは穴を掘る機械を取りに行ったんだ! おーい! 俺たちは見捨てられていなかった!」
「たかはら、もう「言葉にできない」も言っていいぞ! もう何もかも解禁だ! おーい! 俺たちはこっちだー! ここにいるぞー・・!」
まずたかはらの手が他の隊員たちに握られ、抱かれるように引き上げられた。たかはらは泣いていた。
「ましこ、もう少しだ」たかはらが言った。ましこの手も伸びる。それを掴み、引き上げる。
二人の顔は凍傷に焼け、命綱が二人の体をつないでいる。
誰も聞いていないが大歓声だ。
たかはらもましこも「喜んで」いた。だが、なぜか笑ってはいなかった。他の隊員たちと同じくらい「幸せ」だったのだが、他の隊員たちの目には助け出された二人は異常に「不機嫌」に連れて来られたしょぼくれたインディアンのような顔をしていた。