秋の始まり―呼応―
放課後の下駄箱。徐々に気温が低くなり制服の衣替えも行われ、秋になる事を実感するある日。
俺は彼女を待っていた。
廊下の奥からゆっくりと近づいてくるシューズの音。音のする方向に目を向けると、俺の待ち人。
自然と顔は綻んで待ち切れずに彼女の方に歩み寄った。
「遠野さん、一緒に帰ろう」
告白してから毎日放課後に言う言葉。この返事は決まってる。
「うん。待たせて、ごめんね」
彼女は申し訳なさそうな声で謝る。そして辛そうな表情を浮かべた。
いつもと変わらない言葉と表情。
「坂口くん、早かったんだね」
「うん。遠野さんと一緒に帰りたかったから、早めに終わらせて来たんだ」
笑って彼女の言葉に頷くと、彼女は少し困ったような顔をした。
俺は目を細めたまま彼女を見つめる。
「帰ろう、遠野さん」
少しだけ寂しく笑った俺に、少し俯きがちな彼女が気づくことはないだろう。
「うん、わかった」
彼女の感情の入らない相槌に、一瞬目を瞑った。
二人で歩き出すけれどそれは決して近くはない。拳を作って強く握った。
彼女の心を表すような少し遠い距離がもどかしい。
「遠野さん」
帰り道の河川敷まで歩いて来た時に彼女を呼ぶ。会話はいつも俺が話し掛けるばかりだった。
彼女を心情を思えば、むしろ相槌をしてくれているだけでも俺への対応は優しい。
「うん」
いつもと同じ相槌に眉を下げた。
不相応な願いかもしれない。彼女を傷つけた俺が願ってはいけないのかもしれない。
それでも、少しでも近づきたいと願ってしまうのはきっと罪なんだろう。
「俺、遠野さんの事を名前で呼びたいんだけど、駄目かな?」
縋る気持ちで口に出したけれどその返事がどうなるのかわからない。
彼女は相槌をやめて戸惑った顔をした。その表情に心が軋んだ。
まだ夏の余韻を残した生温い風が頬に当たる。
「……お願いします!」
形振りは構っていられなかった。どうしても頷いて欲しかった。叫んで頭を下げる。
「え……」
彼女の驚いた声がした。
「俺、遠野さんの事名前で呼んでみたいんだ。だからお願いします。頷いて欲しい。
遠野さんの名前、すごく可愛いなって前から思ってて。だからどうしても呼んでみたいんだ」
そう言って顔を上げて彼女を見ると目を瞬かせていた。
「頼む……どうか、お願いします!」
もう一度頭を下げる。
すると、今まで俺の前では聞いたことがなかった声が聞こえた。
「ふふふ」
その声に思わず下げていた頭を上げた。
彼女が笑っていた。抑えきれなかった笑みが零れるように笑う彼女に胸が詰まった。
俺の前で初めて見た笑顔だった。
見れるのか不安だった、それでもずっと見たいと思っていた彼女の笑顔だ。
「坂口くん……そんなに必死に頼まなくても……彼氏なのに……」
笑いながら言った彼女の言葉になんとも形容し難い気持ちが湧き上がる。
彼女にとっては俺は、歓迎すべき存在ではなかったはずだ。
「……ごめん。やっぱり駄目かな」
「……いいよ。坂口くん不器用だね」
彼女は困ったように微笑んでいた。俺はそれが了承の言葉なのかわからなくて視線を泳がせた。
「……私は昴って呼んだらいいの?」
彼女の声で自分の名前を呼ばれた事に心が綻ぶ。仕方ないような響きの優しい声。
「呼んでくれるなら、めちゃくちゃ嬉しい……」
優しい声に促されるかのように出た言葉は俺の本心だった。
「そっか……。昴ってわかりやすいね」
そう言って笑っている彼女は、何かを零したような優しい笑みだ。
まさかこうなるなんて思ってもいなかった俺は、少し視線をずらして答えた。
「そう、かな……」
戸惑っているはずなのに、その感情の動きさえ信じられないほど俺の心は喜びに満ちている。
「うん。昴、なんかうちの弟に似てる」
笑みを零す彼女が眩しくて俺は目を細めた。
彼女が少しでも心を許してくれるなら弟扱いでも構わない。
「……菫」
初めて口に出した彼女の名前は、綺麗なのに柔らかい音だ。
「なに?」
呼ぶと答えてくれたその声は、思っていたよりも優しかった。
「菫、ありがとうな」
俺のその言葉に彼女は目を瞠った後、花が綻ぶように笑ってくれた。
少しでも許されたなんて思ってもいいのだろうか。
もしかしたらこのまま彼女が俺を許してくれる日が来るんじゃないかと、夢想した。
だんだんと厳しくなっていく季節をまだ感じさせない、秋の始まりの風が吹いたばかりの頃。