4 王女呪いを解く
王女とトリロは無事に山を越え、見捨てられた王国に足を踏み入れることができました。
城へ続く町並みは、いにしえの賑わいを彷彿とさせるような名残が垣間見えましたが、人気が全くないので手入れもされず、風化を免れませんでした。遠くから見た時にも、城には特段変わった様子はありませんでした。
トリロを先頭にして城の正門まで馬を進めても、ドラゴンの姿は見えませんでした。城の周りには深い濠が巡らせてあり、門扉を兼ねる跳ね橋は上がっておりました。
「誰もいないようだ」
トリロは、山を越したらすぐに王女を置いて引き返すつもりだったのですが、見たところ危険がなさそうなので、好奇心に負けて一緒に来たのです。王女にとっては幸いなことでした。
「裏口から入れるかもしれないわ」
二人は馬の向きを変えました。すると、突然唸りを上げて、跳ね橋が落ちてきました。驚く馬を慌ててなだめながら、後じさりするのと同時に、地響きと共に跳ね橋が渡されました。土ぼこりが収まると、辺りは元の静けさを取り戻しました。
「どうする」
トリロが正面から入るつもりでいるのがわかり、王女は心強く思いましたが、嬉しさを隠して慎重に答えました。
「折角道ができたのだから、ここから入るわ」
そして躊躇わずに馬の首を向けました。王女が馬を進めると、トリロも後からついてきます。二人が跳ね橋を渡り終えるや否や、後ろから声が轟きました。
「ちょいと、お待ち」
王女はぎょっとして振り向きざまに、驚いて棒立ちになった馬から転げ落ちました。
幸い先に落馬したトリロが下敷きになったので、怪我をすることはありませんでした。
しかし、怯えた馬はそのまま逃げ去ってしまいました。
後ろから呼び止めたのは、巨大なドラゴンでした。
跳ね橋の上に乗り、正門から頭だけ覗かせて、ぎらぎらと光る目玉で二人を睨みつけておりました。
王女は腰が抜けて立ち上がれませんでした。これほど大きな生き物を見たのは、生まれて初めてのことです。しかも、人の言葉を話すとは思いもよらないことでした。ドラゴンと王女は暫く見つめ合いました。急に、ドラゴンは天を仰いで黒い煙と炎を吐き出しました。
「ぶわーはっはっはっは! ぶほぶほ」
「王女様、いい加減にどいてくれ。振り落とすぞ」
トリロの言葉が終わらないうちに、王女は地面に落とされました。まだ腰が抜けている王女は、立ち上がることもできませんでした。
トリロは素早く立ち上がり、改めてドラゴンが炎を噴き上げるのを目の当りにし、顎をだらりと垂らしてその場に凍り付きました。
「あんた、気に入ったよ」
ひとしきり炎を吐いた後のドラゴンの言葉に、王女は耳を疑いました。トリロも不審な顔つきで、王女とドラゴンを交互に見やります。ドラゴンは続けて言いました。
「あんたみたいな娘を待っていたんだ。王子に会いにきたんだろ」
「そ、そうよ」
王女は声を震わせながら、身分を名乗りました。ドラゴンはかっかっと短く笑って煙を吐いたので、王女とトリロは咽せました。
「へええ、王女様なのかい。目覚めた時の王子の顔が見物だね。王子は向こうの塔のてっぺんにいるよ。ほら、さっさとお行き」
くわっとドラゴンが口を開いて、ぎっしり詰まった歯並を見せたので、王女は急にしゃんとなって、ドラゴンが示した塔へ急ぎました。トリロが慌てて後を追います。
「どうなっているんだ。言い伝えと違うぞ」
「ドラゴンも、ここにいるのに飽きたのではないかしら」
城の敷地には、あちこちに黒焦げになった骨の山が散らばっておりました。ドラゴンの炎に焼かれた人達の成れの果てに違いありません。
王女はドラゴンに焼かれずに済んだことを感謝しながら、塔の階段を駆け上がりました。
階段の途中には、王子に仕えていたらしい人達が、ぐっすりと眠り込んでおりました。
死んでいるのではありません。何十年も前の古くさい服を着て、寝息を立てているのです。
王女は休み休みしながら階段を上りました。最初は駆け足だったのが、最後には足を持ち上げるようにして上りました。トリロが引っ張り上げなければ、てっぺんまでたどり着けなかったかもしれません。
てっぺんの部屋には、天蓋付きの古風で素敵な寝台があり、王子が仰向けに眠っておりました。
王女は寝台によりかかって寝入っているお付きの者を押しのけて、王子をつくづく眺めました。
眠る王子の顔立ちは整っておりました。柔らかそうな細く艶のある明るい髪が繊細な顔を縁取り、雪のように白い肌にうっすらと紅を差したように頬が染まっております。鮮やかな赤い唇はきっちりと結ばれ、目覚めの口づけを待ち構えておりました。王女は大きく深呼吸して、王子の唇に自分の唇を合わせました。
微かな風が起こり、王子の目が開きました。僅かな間、王女と王子は見つめ合いました。
それから王女はどん、と突き飛ばされました。寝台から転げ落ちた王女が腰をさすりながら立ち上がると、この上なく澄んだ瞳を持つ王子も、ぱっと起き上がって寝台から飛び降りました。そして窓に駆け寄ると、外に向かって叫びました。
「ドラゴン、ドラゴン、出ておいで! 僕が悪かった」
王子の言葉に、王女は目を丸くしました。窓の外から一陣の風が巻き起こり、どこから入ってきたのか、妖艶な美女が現れた時には、もっと目を丸くしました。妖艶な美女は戸惑いの顔つきで王女を見た後、返す瞳で憎々しげに王子を見ました。
「今さら何だって言うのさ。元はあんたが望んだことじゃないか。私を選ぶくらいなら、最初に口づけをしてくれた見知らぬ女とでも結婚した方がましだって。そこの女は王女様だと言うし、家柄も充分だ。呪いを解いてくれたのだから、お礼に結婚したらいいだろう」
美しい王子は王女を横目で見ました。形のよい唇がねじ曲げられました。王女はお城にいる時、ひどく恥ずかしい思いをしたことを不意に思い出しました。それで慌てて目を伏せました。
「呪いを解いてくれたのは、ありがたいことだよ。お礼はもちろんするよ。でも、助けてくれたお礼に必ず結婚しなくてはいけない、という法はないだろう。お礼の方法なら他にいくらでもある筈だ。僕は埋もれた財宝ではないのだから、見つけた人の物にはなれないよ。まして、結婚は跡継ぎを作る大事な儀式だもの。軽はずみにはできない。僕と結婚してくれ、ドラゴン」
「まあ王子様、おめでとうございます」
「呪いが解けたのですね。よかったわ」
居眠りしていたお付きの人達が目覚め始めました。塔の外からも人の話し声が聞こえてきました。階段の途中で眠りこけていた人もお祝いを言いにやってきました。
誰も彼も呪いを解いたのは妖艶な美女だと信じて疑わないのでした。
呆然としている王女を、トリロが連れ出しました。二人は呪いから解放されて浮かれている騒ぎに紛れて、城を出ました。乗ってきた馬は、ちゃんと跳ね橋の外で主人を待っておりました。戻ってきたのです。
「ここの王子とは、結婚できそうにない。これからどうする」
「帰る」
王女はぽつりと言いました。そこでトリロは王女を馬に乗せ、一緒に村まで戻りました。王女は案内を待たずに客室へ入ると、寝台に潜り込んで眠ってしまいました。
王女が目を覚ますと、部屋には誰もいませんでしたが、朝食と洗面用の水が用意されておりました。
部屋の外にも誰もいませんでした。王女は勝手に歩いてトリロのいる部屋まで行きました。トリロは机に向かって仕事をしておりましたが、王女の姿を見てもちらりと目を上げただけで仕事を続けました。王女は勝手に長椅子へ腰掛けました。
「馬を用意した。いつでも帰れる」
「どこへ帰るの」
トリロは仕事を中断して、顔を上げました。
「城だ。決まっているだろう」
「お供もお宝もなくした挙げ句、王子様を助けたのにドラゴンに妃の座を横取りされました、私の幸せは城の外にもありませんでした、なんてみんなに言えない。今更帰れないわ」
「ほかに帰る場所がなければ、仕方ないだろう」
「ここに置いてよ」
トリロは目を剥きました。
「だめだだめだ。女という奴は厄介でいけない。ここに居着かれてたまるか」
王女はトリロの剣幕に、打ちひしがれました。
「やっぱり不細工だから置いてくれないのね」
「顔の問題じゃない。その手の顔なら、戦争へ行った先で見慣れている。王女様はここの生活を知らない上に、家の仕事も何一つできない。ここでお城にいた時のような生活を始めるなど、ご免蒙る。村の生活と釣り合いが取れない。俺はここの領主を仰せつかっているが、遊んで暮らしているわけじゃない。ここではみんなが働かなければ、暮らしていけないんだ」
王女はトリロの館を見渡しました。確かに、ここではお城にいた時のような生活は望めません。ここの生活が一生続くことには、王女は我慢できないだろうと悟りました。
「だったら私はどうしたらいいのよ」
「自分で考えろ。城へ戻りさえすれば、何か道はあるだろう。どうしても結婚したいのなら、高望みさえしなければ、誰かしら相手は見つかるだろうし、結婚にこだわらなければ、修道院に入って神に祈る生活もあるだろう」
王女はトリロの用意した馬に乗って、城へ戻ることに決めました。
帰り道は山住みの男達の案内で、城の近くまで無事に着くことができました。城へ戻ると、心配していた王や王妃、姉王女達が涙を流して喜びました。
末王女は大勢のお供がどうなったか、旅の話をしなければなりませんでした。大勢のお供は、見捨てられた王国のドラゴンに殺されたことになりました。王子がドラゴンと結婚する話は、きっと外には漏らされないでしょう。もし漏れたとして、末王女が住む城にまで話が届くには、随分と長い時間がかかるに違いありません。そしてドラゴンは、誰を殺したのかいちいち覚えていないので、末王女の嘘が明らかにされることはないでしょう。
城に戻った末王女は間もなく修道院へ入り、姉王女達はそれぞれ麗しい伴侶を得て幸せに暮らしました。