王太子の天敵
「妾腹の顔を朝から見る事になるとは今日は最悪な一日になりそうだな」
「本当ですね、ギルバート様。全く忌々しい! おい、平民! 不愉快な顔をギルバート様に見せるなよ!」
「相変わらず王族とは思えない貧相なお顔立ちですねぇ」
「ギルバート様にお声がけいただいたんだから、床に頭を擦り付けて喜べよ! ほらっ、早く!」
王太子の言葉から始まり、側近らがそれに続く。
うっかり徹夜した身にはその声の大きさには苦痛を感じる。
それに何よりはっきり言うと、もう聞き飽きている。
物心がつく頃から続く、変わり映えのしない罵詈雑言など心を痛める必要もない。
言うなれば鳥の囀り……は良く言い過ぎか。
ならば、そう。これは牛蛙のようなものだ。少し煩いけれど気に留めるほどではない。
しかし、なぜ部屋から出ただけで絡まれるのだろう。
待ち構えていたのではないかと疑ってしまう。
不快ならば話しかけたり近付いたりしなければいいのに。
ふと、もしかしたら彼らの中にも前世の記憶のようにはっきりしたものではなくても、何かしら感じるものがあるのかもしれないと思った。
だが、あの過保護で忠実な聖騎士時代の記憶を万が一にでも思い出したら、命を絶ちかねない程に自分を責めそうなのでウェルニア様には記憶を封じておいていただくよう重ねて祈りを捧げる。
今を生きている彼らには不要な記憶だ。
そうして思考の海に浸っている間も眼前の彼らは口汚く私を罵り続けていた。
何も反応を返さない事に苛立っているのだろう。
しかし、肯定しようと反論しようと四人分の罵倒が返ってくるならば特に急ぎの用事がなければ黙っていた方が楽だった。
後ろにいるシアと共に彼らの気が済むのを口を閉ざして待っているとーー
「ふん、この王城はいつから動物園になったのだ。煩くて敵わんな。猿どもは檻に入れておかねばならんのではないか? なあ、王女よ」
(ひっ! 私に同意を求めていらっしゃる!?)
突如、背後から現れたダクス宰相の発言に背筋を凍らせた。
そんな同意したくても出来ない質問をしないで頂きたい。
「宰相!! 貴様、王太子である私を愚弄するか!!」
「ああ、王太子であったか。キーキーと耳障りな声だったので猿かと思ったぞ。そうして群れているところもまるでお山の大将のようではないか。低俗なお前にお似合いだな」
「…………っ!!」
王太子はあまりの怒りに声も出ないのか首まで赤くしてダクス宰相を睨みつける。
「ギルバート様に何と言う口を!! 跪いて許しを乞うべきではないか!?」
食ってかかるトラヴィスをどこ吹く風と聞き流し、私へと視線を向ける。
「王女よ、このような場所で何をしている?」
「おい! 無視するなよ!」
トラヴィスがダクス宰相の肩を掴んだ瞬間、気付けばトラヴィスは床に叩き伏せられた。
「軽々しく触れてくれるな。お前達のような品性下劣な者共に触れられては加減ができん」
トラヴィスが触れた所を手で払い、不快げに眉を寄せる。
ついでと言わんばかりにその手をハンカチで拭いてトラヴィスの上に投げ捨てた。
「ぐ、うぅ……」
「それでも騎士か? 手加減してやったのにまだ起き上がれんとは情けない。王太子よ、護衛は選考しなおした方が良いのではないか? これではすぐに命を落としかねんぞ」
「余計なお世話だ! 貴様の指図など受けん!」
王太子が喚くように返す。
トラヴィスが腕を押さえながら起き上がり、羞恥と憎しみが入り混じった表情をダクス宰相へと向けた。
「落ち着いてください、トラヴィス。宰相閣下に手を出してはいけません」
今にも剣を抜きそうな雰囲気で、丸腰のダクス宰相へとにじり寄ろうとするトラヴィスをライアンが引き止める。
「ほう、魔導師は心得ているようだな。それにしてはこの国の王女に罵声を浴びせる低脳具合だが、この中では多少はマシか」
「…………ダクス宰相。あなたも王太子殿下への不敬、罰される覚悟はお有りですか?」
「そうだそうだ! ギルバート様だって王族なんだぞ! あんたの首を刎ねるくらい簡単なんだからな!」
怒りを押し殺したライアンの声に楽士のリンツも続く。
その発言にダクス宰相は前屈みとなり震え出した。
「ふ、は、ははははははは!! 不敬、不敬とはな! はははは! これは面白いことを聞いた! 知っているか? 俺は国王より頼まれて宰相の地位に就いた。敬えもしない狸の下に付くなど御免だと何度と断ってやったのだがしつこくてな。狸が不敬は一切罪に問わないと誓約書まで書いて持ってきたので受けてやったのだ。王太子よ、俺の不敬を罰する事ができるならして見せよ! お前に国王の決定を覆せることが出来るならな。そして、もし見事この俺を罰する事が出来たならば代わりにこの国を潰してやろう! ふははははは!」
陛下の普段から宰相に外交も国政も任せきりな様子を思い出したのか、王太子は悔しそうに顔を歪めて舌打ちをする。
「どうした? 俺から国王へ奏上してやろうか?」
「くっ、結構だ!! 相変わらず忌々しい奴め! 私が国王になれば真っ先に首を刎ねてやるからな! くそっ、行くぞ!!」
王太子は唇を噛みながら、まるで三下悪役のように側近達を引き連れて去っていった。
その王太子達の背中を見ながら心底愉快そうに高らかに笑うダクス宰相を若干引き気味に眺めていると、笑いが収まった彼が私へと視線を向ける。
「見たか? 奴ら尻尾を巻いて逃げ帰ったぞ。王女も笑ってやるといい。あのような下らぬ者共の言葉など気にするな。野良犬に噛まれたようなものだと思っておけ」
ダクス宰相は以前から私が王太子に絡まれているところに遭遇すると手助けをしてくれた。
その労わるような声に微笑んでお礼を告げる。
「ダクス宰相、助けてくださってありがとうございます。大丈夫です。何も気にしておりません」
そう答えると、紫黒の瞳が探るように細められた。
「ふん? 確かに昨日と比べて随分と顔付きが変わったではないか」
「そう、ですか?」
「ああ、それにーー」
ダクス宰相は徐に私に左手を伸ばすと頬を包み、目の下を親指で優しく撫でた。
「隈もできている。眠れなかったか」
「っ!!」
顔を覗き込まれ、耳まで赤くなっている自覚がある。
(うぁぁああ、距離感!!)
「どうした? なぜ何も言わない」
(あなたの! お顔が! 美しすぎて!! 言葉が出ないんです!!)
動揺から声が出ずに口を震わせる私を、ダクス宰相が不思議そうに首を傾げて見下ろす。
「体調が悪いわけではないか?」
「っ、は、はい……っ」
小刻みに震える私を心配しているのか頬に触れる手が離れる気配がない。
(は、離してくださいって言うのです、ユーフィリア! せーので言いましょう! せーのっ……って、ぁぁぁああっ、言えないぃぃっ! ど、動悸がっ、息が苦しいっ……)
至近距離で見つめる彼の顔に、私の顔は真っ赤に染まっているだろう。
正常な思考は奪われて、まともな言葉が出てこない。
まるで催眠にかけられたように彼の瞳から目を逸らせない。
そんな私を見かねたのか、シアの手が私とダクス宰相の顔の間に差し込まれた。
「宰相閣下。みだりにユーフィリア様にお触れになりませんよう」
「む、そうか。すまないな。女子供に対する距離感がよくわからん。まあ何もないのならそれで良い。ではな」
「あ、ぁぁぁああ、ま、ままままってくださいっ」
踵を返した彼の黒い上着を慌てて掴む。
その布地の上質な質感に、皺ができてしまうかと心配になり思わず指の力を緩めた。
「どうした?」
これが最後の分かれ目だ。
渡すかどうか僅かに逡巡して、震える手で契約書を取り出すと、彼の胸元に押し付ける。
「こ、これっ! 読んでくださいっ」
「なんだ。恋文か?」
「違いますっ!!」
「ふっ、知っている。言ってみただけだ。あとで読んでおこう」
まずは受け取ってもらえた事に安堵して、背の高い彼の後ろ姿を見送った。
後程なにかしらの返答があるだろう。
しかし、どうしたことか顔の火照りが治らない。
「し、シア。なんだか今日はとても暑いですね!」
「そうですね。夏ですので」
言い訳にしては雑すぎるが、シアは察してくれたのか指摘せずに静かに肯定してくれた。
その冷静な声に更に気恥ずかしさが増して、熱を冷まそうと必死で手で仰いだ。