大神官
大聖堂特別温室とは大神官とその直下に所属する数名の高位神官だけで管理している温室だ。
この温室には他と比べる事もない程に清浄な気が満ち、世界でもこの場所でしか咲かない白い大輪の花が辺り一面に一年中咲き乱れている。
この白い花はウェルニー教の聖花ノルトリアスと呼ばれており、幾重にも薄い花弁が折り重なりほんのりと甘い香りを放っている。
ハーヴェイ大神官から香る匂いもノルトリアスの香だ。
初代聖女の生誕の日には、ノルトリアスの花弁を大聖堂の鐘楼から降らせる聖花祭りがあり、とても美しい光景で毎年春が来るのを心待ちにしていた。
しかし、来年からはもう見ることは出来ないだろう。
王命が重く心にのしかかり、胸元を押さえた。
温室の奥にある白いテーブルセットはいつものお茶会の場所だ。
既にポットやお菓子等が用意されている。
促されるまま椅子に腰掛けると、大神官手ずから紅茶を淹れてもらい、目の前にティーカップを差し出される。
深い紅色から湯気が立ち上り、熟した果実のような紅茶の良い香りが辺りに漂う。
「これはロンディウム王国の夏摘みの紅茶です。以前美味しいと仰っていたでしょう? 取り寄せてしまいました。今日のお菓子にも合うんですよ。ぜひ召し上がってください」
そう言うと、にこにことご機嫌な様子で私をじっと眺めてくる。
「ええっと、何か良い事でもありましたか?」
「ふふ、ふふふふふ。ふふふふふふふ」
「は、ハーヴェイ大神官……?」
不気味な笑い声を上げ続ける彼に、紅茶に何かを盛られたのかとハーヴェイ大神官のカップの底を確かめるが特に薬の類は見えない。
毒なら聖力で解毒も出来るが、そのような事をしたら、聖女と認定されてこのまま監禁される可能性が高い。
「ああっ、どうしたらっ……! どうか正気に戻ってくださいっ」
「は、あ……これでどうして正気に戻れましょうか」
恍惚とした吐息と上気した頬、とろんとした瞳で私を見つめてきた。
(…………くっ、これはまた色気が凄いことに……まさか媚薬の類でしょうか)
確かにハーヴェイ大神官は見目麗しく、物腰柔らかな美青年だ。
しかし、聖職者にそのようなものを盛るなど罰当たりにも程がある。
「ユーフィリア様、なぜいつにも増してその様な聖なる気を纏っていらっしゃるのです? あまりの心地よさに意識が飛んでしまいそうです」
「まさかの私が原因ですか!?」
「原因だなんてとんでもない! 永遠にここにいていただきたいくらいです。やっぱり私と結婚しませんか?」
「え、嫌です」
「つれないお方ですね……私にこんなことをしておきながら……」
「何もしてませんっ、言い掛かりはやめてください! も、もし誰かに聞かれたら……」
ハーヴェイ大神官の発言次第では何かしらの責任を取らされる可能性がある。若干青くなりながら周囲を見渡す。
「大丈夫ですよ。ユーフィリア様が望まない事は何もいたしません。例え聖女の力が目覚めていても。他国の将軍との婚姻が決まったとしても。あなた様の許可なく勝手な事などいたしません」
(どこまで知ってるんですか、この人ーーーっ!?)
「えっ、や、いや、いやですねぇ、ハーヴェイ大神官様ったら! ななな何を言っているのやらっ? お、おほほほほ」
ハーヴェイ大神官はどうにか誤魔化そうとする私に、落ち着くようにと紅茶のおかわりを淹れて手渡すと柔らかな笑みを浮かべた。
「ご安心ください。王城には我らウェルニー教の信徒が多数潜んでおります。ユーフィリア様に関する事で私が知らないことなど何一つありません。あなた様を蔑み見下した者共は全て把握し、教会より然るべきタイミングで制裁を加える予定で動いております」
「何を安心しろとーーー!? 王城の警備体勢穴だらけでは!? 情報漏洩とかっ、もうほんとどうなってるんですっ!?」
「落ち着いてください。もっと広い目で見ると良いのです。王家も民も全てウェルニー教の徒です。であれば、大神官である私に報告があっても何もおかしくありません」
「おかしいです!」
「そんなことより、ユーフィリア様。このままいけば一年後に嫁ぐことになりますよ。そんな事、私としては絶対に認められないのですが。あ、そうです! 将軍を暗殺しましょうか?」
教会の諜報員についてはサラッと流され、これは名案です、とでも言いたげないい笑顔で提案してくる。
頭が痛くなってきた。
「……いえ、教会が介入してはいけないでしょう……お気持ちだけありがたく受け取ります」
「あなた様がそう仰るのでしたら仕方ありませんね。気が変わればいつでもお申し付けください」
「あ、はい、ありがとうございます……」
きらきらと輝く笑顔で言われ、顔が引き攣る。
しかし、少々過激な所はあるが味方と思える相手がいるのはそれだけで救いになる。
沈んで戻れなくなりそうだった気持ちは少し浮上して、前を向く力が湧いてきていた。
ハーヴェイ大神官に心からの感謝を送ると共に、ウェルニー教会への警戒心を最大まで引き上げて大聖堂を後にした。