約束の花晶石
「ふふ、はい。わかってますよ」
我が聖女は小鳥のように可憐な声で私を受け入れる。
清らかで汚れのない私の聖女。
この腕から放してしまえば、もう二度と捕まえることはできない。
これが最後の機会だった。
けれど、どれだけ言葉を費やしても彼女が決して頷かないだろうということもわかっていた。
柔らかな陽光が彼女の栗色の髪を照らす。
所々光の加減によって金色に見えるのは、父上の血が入っているからか。
ティアニア様の神秘的な美しさとは異なり、平凡な愛らしさは小動物を思わせる。
青空を切り取ったような澄んだ無垢な瞳も、桃色の頬も、ふっくらとした唇も、その存在自体が庇護欲を掻き立てる。
(私がお守りできたなら……)
虐げてきた時間の分、大切に慈しめたらと今更どうしようもないことばかり考えてしまう。
恋ではない。でも確かに愛だった。
だからこそ、この手から離すことがこんなにも恐ろしい。
これが飛び立つ雛鳥を見送る気持ちだろうか。
不安で心配で、居ても立っても居られない。
彼女を託す相手があの男だから余計にそう思うのだろう。
ダクスの能力については信用している。
人間性も……認めたくはないがそう悪くはない。
けれどあの男はきっとユーフィリアを泣かせる。あれはそういう男だ。
そしてそれを理解しながら、ユーフィリアはダクスを愛したのだろう。
何とも歯痒いものだ。
昔からこうと決めたら曲げない方だったから仕方ないか。
未練を断ち切るように一度強く抱きしめてから、そっと解放した。
ユーフィリアから一歩分距離を空けて向かい合う。
「ユーフィリア、今から話すことをよく覚えていてください」
そう言って、彼女の足元に跪く。
「えっ、ちょっ、何です!?」
戸惑いの声を上げるユーフィリアを知らぬふりしてローブの裾を恭しく手に取ると、そこに躊躇いなく口付ける。
「国王がそんなことをしてはっ……」
「これが……最後です。どうか今は止めないでください」
私の発した真剣な響きにユーフィリアは言葉を止めた。
ローブから手を離し、膝をついたまま右手を胸元に当てる。顔を上げることなく目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。
そして、今の私が伝えられる誠意を言葉に変える。
「あなたの聖騎士は今もここに。お側で守る役目はダクスに譲ります。このアルディスの地であなたの平穏を守るために命を捧げます。そしてあなたの願いを叶えるために、この地に住まう民と国を守りましょう」
そう言って、彼女への贈り物を手に捧げ持つ。
それはたった一輪の薔薇だった。
彼女の瞳のように澄んだ空の色をしたそれに慎重に魔力を込めていくと、花弁の端からゆっくりと変化して最後はまるで宝石のような姿になる。
「花晶石……」
彼女が風に掻き消されそうな小さな声で呟いた。
「そうです。あなたの瞳に似た色を探すのに苦労しました。この薔薇は萎れることなく、枯れることなく、あなたの側で咲き続けます。私の誓いと共に」
ユーフィリアが震える指で受け取る。
「まだ……覚えてたんですか……?」
「忘れるはずがないでしょう。約束したのですから」
鼻の頭を赤くして、零れ落ちそうになる涙を堪えるユーフィリアを見上げて笑う。
「結婚するときは自分の瞳の色をした花晶石の花束がいいと駄々を捏ねたのは八歳のティアニア様でしたか。残念ながらティアニア様との約束は果たせませんでしたが、ユーフィリアに渡せてよかったです。今はこの一本をあなたに。残りは花嫁道具と共にダクスの地へお送りしましょう」
膝に手を付きながら立ち上がり、ユーフィリアの両手を包み込む。
「辛いことがあれば連絡ください。すぐに駆けつけましょう。助けがほしければ今回のように手紙をください。全力で力になります。もしダクスに泣かされたらアルディスに里帰りしてください。あいつが反省するまでここにいればいい。むしろずっとアルディスにいてくれても構わない。あなたが笑っていてくれるなら何でもしましょう」
視界が滲む。
決意はすぐに揺らぎそうになる。
それでも……それでも自分の望みよりもあなたの幸せを願える私でいることが、私という人間の誇りだ。
「大切に、します……っ」
くしゃりと顔を歪ませたユーフィリアの目に浮かぶ涙をハンカチで拭う。
「ユーフィリア、泣かないでください。ダクスにあらぬ疑いを向けられてしまいます」
茶化して言うと、ユーフィリアは笑い声を上げた。
「ふふ、はい。あの、ギルバート国王……今更ですがひとつ我儘を言っても?」
「なんなりと」
「お兄様とお呼びしたいです。そして、できましたら以前のユーフィリアに話すように砕けた口調で話していただけませんか?」
「は」
ピシッと固まってしまう。
「あの、半分とはいえ血は繋がってますし、こうしてプライベートな時だけでもそうできたらな、なんて思ったのですけど、あああ、やはり厚かましい願いでしたよねすみません!!」
私の反応がないことから後半は早口で捲し立てられる。最後は聞き取りにくかったが、とりあえず否定しなくては高速で首を横に振る。
「いやいやいやいや、そんなまさか!! 嫌なわけありません!! お兄様でもギル兄様でもお兄ちゃんでも好きなように呼んで構いませ……いや、構わない!!」
余計なことを口にした気がするが勢いに紛れて聞き流してくれるはずだ。
「……はい。ありがとうございます、お兄様」
ほんのりと頬を染めてはにかむユーフィリアに私の頬も緩んでいく。
今、この人生最高にだらしのない顔をしている自信があった。