始まりの場所へ
セルシオン様の吐息が耳元を掠める。
長い指先が宥めるように私の髪を梳いた。
「愛しい女の願いを誰が拒むと言うのか」
囁くようなその声に思わず力が抜けそうになり、慌てて離さないようにぎゅっと腕に力を込め直すとセルシオン様が微かに笑った気配を感じた。
「物分かりのいい振りなどするな。お前の全てで俺を求め続けてくれ。それ以上は何も望まん」
「……そんなこと言って、公妃に弱い愚王と呼ばれたらどうするんです?」
「ふむ、そうなればキースに譲位して隠居すればよかろう?」
「ふふ、そんなのキースが許しませんよ」
「ならば、あやつからどうやって逃げるか今から考えねばな」
「キースなら地獄の果てまで追ってきますよ」
「ははは! 違いない。どこまでも逃げようか。……二人で」
コツン、と額を合わせたセルシオン様の優しい声にどうしようもない愛しさが溢れてくる。
「はい、二人でならどこへでも」
私の返答に満足げに頷いたセルシオン様がナレアスに片手を上げて合図する。
「ナレアス」
「はっ」
前もって命じてあったのだろう。明確な指示はなくともナレアスは私とセルシオン様、そしてシアを魔力で覆う。
セルシオン様が私を抱き抱えたまま立ち上がった。
「ユーフィリア、目を閉じていろ」
言われるがまま目を閉じてしがみつく。
転移魔法で城に帰るのだろうか。行き先などわからなくても構わなかった。
予想した通り、少しして瞼を灼くような眩さに襲われる。
周囲の客の悲鳴が聞こえ、そして遠ざかりーー光が収まると共に静寂へと変わった。
どこか懐かしい清らかな木々のざわめきを感じて不思議に思いながらそろりと目を開くと、そこは清浄の森の奥深くにある古城の前だった。
温かな光が草花から離れて、ふわふわと空気中に漂う。まるで妖精が遊んでいるかのようだ。
楽園のように光に満ちたこの森の中で異質な古城は、数ヶ月前に見た時と変わらず今にも崩れ落ちそうである。
セルシオン様は蔓が巻きつき錆び付いた正門を前にして私を下ろすと、ナレアスとシアにここで待つよう命じて門を開いた。
セルシオン様の大きな手に引かれながら、奥へと進んでいく。
一度目は聖騎士達と魔王と呼ばれた彼を滅ぼしに。
二度目はナレアスとセルシオン様を助けに。
そして三度目の今はセルシオン様と共にこの名も知らぬ城を進む。
向かう先など決まっている。
悲しみの記憶に満ちたあの玉座だ。
忌避感から足を止めたくなったが、結局何も言えずついて行く。
やがて大扉の前に辿り着いた。
セルシオン様は扉を労わるように撫でるとゆっくりと押し開き、私をエスコートするようにして中へと招き入れる。
崩れた外壁から陽光が細く差し込んで、玉座を物悲しく照らす。私達の動きに反応してか、埃がきらきらと空気中に舞った。
セルシオン様は言葉を発しないまま、まっすぐ玉座を目指してその前で足を止めた。
すう、と息を吸い込む音が聞こえてセルシオン様を見上げる。
「この場所に立つと身が引き締まる。覚悟を決める時はよくここで気持ちを落ち着けたものだ」
「覚悟、ですか?」
「そうだ。爵位を継承した時や建国すると決めた時も……ここでお前を想っていた」
「私ではなく"ティアニアを"ですね。あ、いえ、すみません……」
つい拗ねた口調で口を挟んでしまって後悔した。
「ははっ、自分に妬いたか。お前の魂を想っていたのだ。そう拗ねるな」
セルシオン様は特に気分を害した様子もなくティアニアがかつて立っていた虚空を見つめて言葉を続ける。