プロローグ
深夜の薄暗い執務室に蝋燭の火が頼りなく揺れる。
部屋の中には私ーーユーフィリア・アルディスとセルシオン・ダクス宰相だけだ。
日中の暑さはどこに行ったのか夜は少し肌寒さすら感じる。
ーーいや、緊張でそう感じているだけなのかもしれない。
この提案は私の生死をも左右する重要な案件だ。祈るような気持ちで答えを待っていた。
室内に沈黙が重く横たわり、息を吐くことすら気を使うほどの静けさに耳が痛くなる。
彼は瞳を閉じて腕を組んだまま一言も言葉を発しない。
腰まで真っ直ぐに伸びた濡羽色の髪は、白皙の顔によく映えている。長い睫毛が影を作り、薄く形の良い唇には色気すら感じる。
その彫像のような端正な顔立ちを蝋燭の炎が照らし、陰影をつける様をじっと見つめていた。
(ウェルニア様は不公平ですね。世の中にはなぜこんなに美しい人がいるのでしょう)
創世の女神であるウェルニア様に胸の内とは言え、つい愚痴が零れた。
しかし、それも当然だろう。
彼の美しさと比べて自分のなんと平凡なことだろう。
比べる事すら烏滸がましい。
まるで平民のような栗色の髪に、淡い水色の瞳を頭に思い浮かべ、彼に気付かれぬよう嘆息する。
すれ違っても誰の記憶にも残らないだろう凡庸な面立ちだと十人中十人が答えるだろう。
更に言うならば、もう十七歳になるというのに色気の「い」の字も見当たらないとはどういうことだろうか。
自分を醜いとまでは言わないが、この美しい人の前にいることが酷く居た堪れない気持ちになる。
こうして向かい合って座ることすら、王女という身分だけでは不釣合いに感じた。
この身分社会においてそのように思わせる程に彼の美しさは異常なのだ。
まるで神の寵愛を受けた芸術品の様な美貌の前から一刻も早く立ち去りたいと心の底から願っていた。
閉じられた窓の向こうには細い三日月が雲に隠れ、小さな星々が煌々と輝き懸命に夜の闇を照らしている。
ちらり、とダクス宰相に視線を向けると、いつの間にか彼の深い紫黒色の瞳が私を映していた。
咄嗟に何を言ったらいいのか分からなくなり、思わず凝視して固まっていると聞き心地の良い耳を擽る低い声が小さく問いかけた。
「何を見ている」
「えっ、あ、いえっ、不躾にすみません……」
「責めているわけではない。王女が安易に謝るな」
「ですが私は半分は平民ですし、もう王女ではなくなります。公爵家であるダクス宰相の方が余程高貴な身分かと……」
「己を卑下するな。王の血に変わりはない。まあ、あの王にどれだけ価値があるかは知らんがな」
鼻で笑うと彼はローテーブルに置かれている契約書にあっさりとサインした。
目を見開き、ひったくる様にして契約書を手にする。
「ダクス宰相!? でっ、では契約成立ということでよろしいのですか!?」
信じられない気持ちで何度もサインを確認しながら問いかけると、漆黒の髪を揺らして鷹揚に頷く。
「ああ、構わん。彼奴等に血の雨を降らせてやろう。生まれ変わったというのに相も変わらずあの無知蒙昧な愚か者共に、俺が思い知らせてやろうぞ。……ふっ、ふはっ、ふはははははっ! ふはーっはっはっはっは!!」
「血の雨!? いえいえいえいえ、やめてください! 契約の履行だけで結構ですっ!」
堪えきれないといった様子で悪役のような哄笑を上げ続ける彼にさっそくこの契約に不安が過る。
「ふっ、気にするな。俺からのサービスだと思え。どうだ、俺は親切だろう?」
「いらないサービスです! 小さな親切、大きなお世話です!」
「なに、感謝はいらぬ。惚れてくれるなよ、王女よ」
「惚れませんよおぉぉぉ!! 話を聞いてくださいぃぃぃっ!」
思わず顔を両手で覆って天を仰いだ。
(あぁぁぁぁ……ウェルニア様、私もしかしなくても人選ミスしたかもしれません……!)
しかし、生き残るため彼の力を借りるしかない。
後戻りできないのだと言い聞かせて、ぐっと胸元で拳を握りしめた。