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滑り落ちる雪

作者: おふとあさひ

 芝崎圭人はベットの壁に埋め込まれているデジタル時計に目が行った。うんうんと相槌は打っているが、スマートフォンから聴こえる声は耳をすり抜け、頭には一切入ってこない。


「聞いてる?」

「ああ、聞こえてるよ。今日も仕事が忙しかったんだ。これからも、忙しいし、しばらく帰れそうにないよ」


 飲み終わった缶ビールの空き缶をゴミ箱に捨て、スマホを耳にあてたまま、ユニットバスに入る。鏡に映った顔は黒くて、暗い。酔いが回っていない。


「そういうことだから、じゃあね。切るよ」


 芝崎は、おやすみと聞こえたが、それに返す事無く電話を切った。幼い頃から聞き飽きた声だった。こちらの心配よりも、自分の言いたいことだけを言うために電話を掛けてくる。


 明日は、朝一番の便で新潟を発つ。すぐにでも眠りたいところだが、このままベッドに入ったところで、眠れる気がしなかった。

 芝崎はカードキーを手に取ると、小銭を握って部屋を出た。確か、フロント前のロビーに缶チューハイを売っている自動販売機があったはずだ。



 目覚ましで起きた時、どれだけ眠れたのか、はっきりと分からなかった。ずっと眠れないまま朝を迎えた気すらした。デスクの上には、空き缶が何本も転がっている。身支度を整え、チェックアウトするためフロントに向かう。


「今日は、空港送迎のバンは出ません。全ての便が欠航になっているはずです」

「そんなはずはないでしょ? 飛ぶでしょ、絶対」


 芝崎は希望的観測を言って交渉するが、埒が明かない。

 大寒波のせいで記録的な大雪になると、今朝のニュースが伝えていた。その影響で、今からタクシーを呼んだとしても、いつ来るかわからないとフロントの男が言った。



 新潟空港までの雪道を、革靴をぐっしょりと濡らしながら、スーツケースを引き摺った。

 横殴りの猛吹雪で役に立たない傘を畳んでリュックに押し込む。積もった雪を融かそうと、そこかしこの融雪装置から水が吹き上がっている。


 芝崎は、昨日の退社後、カナに電話して、旅行に誘っていた――

「沖縄? どうして急に明日なの? そんなの、無理。急に仕事休めないよ」

 カナの抗議は当然だった。

「どうしても明日、出発したいんだ」

「なぜ?」

「急だけど、休暇が取れたんだ。これを逃すと、しばらく休めないんだよ」

――


 芝崎がカナとのやり取りを思い出していると、ポケットのスマートフォンが震えた。

 取り出すのが億劫で、後から見ることにする。


――

「重要な話があるんだ。那覇に着いたら打ち明けるから」

「なによ、それ。今、教えてよ。なんで、旅行先じゃないと教えてくれないの?」

――


 頭の中のカナの声。今、この猛吹雪の中からも聴こえてくるような気がした時、後方から照らされた。芝崎が振り返ると、ヘッドライトの鋭い光が目に突き刺さる。猛スピードで車が近づいてきていた。



 空港の電光掲示板は、ほとんどの便が〝欠航〟を表示していた。

 ただ、芝崎の予約していた那覇便だけ、〝遅延中〟という表示……奇跡か奇術か。どちらにせよ、嬉しさが込み上げて、胸が躍った。


 芝崎はふぅと長く息を吐き、ショップ『アカシヤ』の前のベンチシートに座る。

 まもなく、カナが現れた。カナは、芸能人にしか似合わないような、真赤なカシミヤコートをさらりと着こなしていた。さすがは、アパレル店員なだけはある。

 芝崎がカナと出会ったのは半年前だった。新潟市内にある大型ショッピングモールにある、アパレルショップの人気店に彼女はいた。


――

「彼女へのプレゼントか何かですか?」

 若い女性店員に声を掛けられて、芝崎はレディスものの服を手に取ってみていることに気付いた。

「あ、これ、レディスですか……」

「若くて線の細い方でしたら、男性でも着られる方もいらっしゃいますが……」

 それは、暗に、若くなく、線も太いと言われているようなものだった。

 だが、嫌な気にはならなかった。カナの全方向的に愛嬌のある、屈託のない笑顔に釘付けになり、意識を天にいざなわれていた。


 何度か通う内、仲良くなり、芝崎からデートに誘い、付き合うことになった。

 裕福な家庭で育ったのか、カナの性格は穏やかで常に余裕があり、振る舞いにも気品があった。持ち物もブランドものばかりで、決して派手ではないが、芝崎は引け目を感じるようになった。

 芝崎は、カナに釣り合うような男になろうと決意した。


 付き合って一か月記念日、二か月記念日、三ヶ月記念日……毎月の記念日。

 それに、誕生日、クリスマスにプレゼントを買った。どれも有名なブランドのもので、芝崎は釣り合うために、必死にお金を工面した。カナが喜んでくれているのか、渡すたびに気になった。

――


 新潟空港に現れたカナの赤いコートも、ブーツも、持っているバッグも、芝崎がプレゼントしたものだった。

 芝崎は、両方の口角が上がった。カナは遅れて来たことを詫びて、隣に座る。


「どうしたの? 一体、何があったの? なんで急に旅行に行こうなんて誘ってくれたの?」

「ごめんな……わがままなこと言って、すまなかった。でも、来てくれたんだ。うれしいよ」

 カナは肩をすくめ、視線を床に落とした。

「そんな……。でも……急だったから、少し、驚いてるんだけど。何かあったの?」

 今まで、二人で旅行に行ったことはなかった。カナが驚くのも無理はない。

「ご……ごめん。ごめんな……」

 芝崎としては、もっと早く、カナと旅行がしたかった。

 しかし、新潟の地で、旅行をすると言えば、車だった。

 芝崎は車を持っていなかった。出かけるときは、いつもカナの車だったので、旅行に誘うのも気が引けた。


「急すぎるよ……今日のは、急すぎる誘いだったから……」

 首を振るカナの瞳から、すーっと一筋の涙がこぼれた。

「カナ? どうした? どうかしたの、カナ?」

 芝崎はカナの異変に気付き、身を乗り出す。


「なんで、あんなところを歩いていたの?」


 どうやら、芝崎が空港まで歩いて来たことをカナに見られたらしい。

「寮から来たんじゃないの?」

 芝崎は会社の寮で暮らしていた。寮からでは朝一の便に間に合わないと思い、空港近くのホテルに泊まっていた。

「ごめんね。ごめんね」

 カナは泣きじゃくった。

 一体どうしたというのだ。芝崎は混乱した。


「急だったから。夜中まであれこれ考えて、朝起きたら、寝坊して……。それでも、会うんだから綺麗にしなきゃって。そしたら、出る時間が遅くなって。大雪の中、急いできたの」


 カナの頬を伝う涙の軌跡は、ほうき星のように煌めいた。

「ど、どうしたの、カナ? な、なんで泣いているの? 何かあったの?」

「ごめんね、ごめんね……間に合わないと思ったから、伝えておきたいことがあったから、スマホを触ってたの。そしたら、雪道にハンドルを取られちゃって……」


 目を閉じたカナの色白の肌は、色素を無くして空港ロビーを透かし、少しずつ透明感を増した。

 芝崎は何が起こっているのか理解できない。動けない。


 カナの体はマンドルラのようなものに包まれ、まるで天女のように、一段と艶美に映えた。カナの質感が、肉体から空漠に昇華されはじめ、精霊の気配すら漂いはじめた。

 芝崎は神秘的な光景に見惚れ、無意識のうちに手を伸ばしていた。二つ目のほうき星が流れるのであれば、それを指先で受けとめたいと、そっとカナの頬に触れようとした。

 芝崎の右手は、空を切った。


「ごめんね……芝崎くんを轢いちゃって……」


 カナは小さな声で、そう言い残して、消えた。


 芝崎のとなりには、誰もいなくなった。


 芝崎はスーツケースを持っていないことに気付いた。

 どこに、置き忘れたのだろう? 


 ふと、視線を落とすと、足元が見えない。いや、足が見えない。足が無い……足が。足が、消えていた。


 芝崎は空港を出て、ホテルに引き返そうとした。吹雪の向こうに、パトカーの赤色灯が見える。

 歩道に乗り上げた軽自動車が飲食店のシャッターに突っ込んで大破していた。

 レスキュー隊が取り囲んでいる。そのうちの一人が、軽自動車のフレームを切断した。火花が飛び散る。その光景を前にして、芝崎は立ちすくんでいた。


 レスキュー隊は、ハンドルに挟まれたカナを引き出し、担架に乗せた。

 カナは意識がないようだった。

 瞳孔が開いているようにも見える。カナを載せた救急車が走り出す。

 芝崎は、追いかけた。が、追いつけない。そういえば、自分は……!?!?



 芝崎が気づくと、病室の天井から、ベッドに横たわる人間を見下ろしていた。あおむけに眠っている。


 今の芝崎は、自分自身が見えなかった。魂になっているらしかった。

 見えない芝崎自身の姿は、眼下に眠る人体なのだと悟った。これは、生き返れるシチュエーションではないのか。


 喜び勇む心を押さえながら、ゆっくりと界下におり、自分の体の中に入っていった。

 目を開ける。

 実体のある、本物の肉体。すぐそばに誰かいる。

 心配そうに、覗きこんできた。見覚えがない。看護師らしい。


 声を出そうとしてみると、意外にも発せられた。 

「か……看護師さん……ぼ……ぼくは、生きてますか?」

「あ、芝崎さん! お目覚になられましたか? お体、どうですか? 痛いところはありますか? 今、先生を呼びますね」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 病室を出ようとする看護師を呼び止めると、看護師はきょとんとして振り向いた。

「はい?」


「そ、その前に、質問してもいいですか?」


 看護師はいいとも、だめとも言わず、静止している。


「ボクを轢いた女性は、どうなりましたか? ボクを轢いた軽自動車を運転していた女性ですけど……この病院に運び込まれたんじゃないですか?」


 看護師は、ああと、躊躇いながら口を開く。少し考えてから言った。

「残念ながら、つい先ほど、お亡くなりになりました」

 芝崎は放心した。


 それに気づいていないのか、看護師が続ける。

「芝崎さんに衝突する直前にハンドルを切られたようで、芝崎さんは幸運にも、助かったんですよ。命に別状なく……軽いかすり傷で済んでいますよ」


 芝崎は、慟哭した。

 雲の上の神々に、遣る瀬無い悲しみを聞かせるように、行き場の無い怒りをぶつけるように哭した。吐きそうなほど号泣し、涙腺が波打ち、呼吸も激しく乱れた。


「どうされました? だ、大丈夫ですか? ご家族に連絡しましたから、安心してくださいね。大阪からなんで、夕方ごろになるようですけど、とんできますって」


泣き咽ぶ芝崎の背中を看護師がさすった。



 芝崎は人目を盗んで病室を抜け出し、猛吹雪の中を駆けた。あてはない。遠くへ。どこまでも遠くへ行きたい。


 昨日の昼過ぎ、芝崎は上司に呼ばれた。そして連れられるがまま、薄暗い会議室に入った。中には、険しい表情をした監査担当者が座っていた――



「伝票をいじってますよね。過去の伝票をチェックすると、半年前くらいからやっていますね……。二百万くらいかな。結構な額ですよ、これは」

 テーブルの上には、芝崎がこれまでに処理した伝票が並べられていた。

 芝崎は、全国的にも有名な運送会社で営業をしていた。


 五枚組の発送伝票。

 客に渡すのは一番上の一枚。会社で売り上げを上げるのは先後の一枚。その一枚は、カーボン紙を細工して、別の金額を転写すれば、差額が懐に入る。単純な不正行為だった。

 それだけに、監査担当はカーボンの濃さや色、カスレなど、細かくチェックする。知ってはいたが、バレないと思っていた。


「芝崎、なんでこんなことをしたんだ? 懲戒処分は免れないぞ。そんなことくらい、知っていただろう?」

 上司の質問にも芝崎は黙っていた。真冬だというのに、額から汗が噴き出す。

「懲戒解雇は免れないですね、警察に被害届も出す予定です。三日以内には処分が決まりますから、ご自宅の寮で待機しておいてもらえますか?」

 監査担当の冷徹で淡々とした通告を耳にした途端、目が泳ぎ、視点が定まらなくなった。

「何に使ったんだ、芝崎? 単身赴任だろ? 家族に隠れて……ギャンブルか?

 それとも女か? いずれにせよ、家族を路頭に迷わしたんだぞ。取り返しのつかないことをしたんだぞ」


 大阪本店で働いていた芝崎が新潟支店に単身赴任したのは二年前だった。

 新潟では、独身男性とともに、会社の寮に住んでいた。盆と正月は妻と子供のいる大阪に帰っていたが、今年の正月は、多忙を理由に帰らないでいた。

 カナには、年齢をごまかし、結婚していることも隠した。

 カナへの愛情が溢れすぎて、盲目的になっていた。カナとずっと一緒にいたくて、別れたくなくて、捨てられたくなくて、本当は不釣り合いな高級な店に食事に誘い、いろんなプレゼントをした。

 会社のお金に手を出すようになるまで、時間はかからなかった。カナを思うと、罪悪感情は湧かなかった。


 自宅待機を告げられて寮に帰ると、すぐに荷物をまとめた。

 航空チケットを予約し、カナに電話し、逃げるように寮を出ていた――



 猛吹雪の中へ、病院のスリッパのまま駆け出していた。

 もはや足先の感覚はない。

 田んぼに積もった雪は、まるで、異世界の平原のようだった。芝崎は、膝上まで積もった雪にかき入った。


「間に合わないと思ったから、伝えておきたいことがあったから、スマホを触ってたの」


 空港に霊となって現れたカナの声が蘇る。

 芝崎は、雪を掻いて進みながら、ポケットのスマートフォンを取り出す。かじかむ手で操作すると、カナからのメッセージが届いていた。


「やっぱり、わたしは沖縄には行けません。急なことで、仕事が休めなかったとか、そういうことじゃないの。それは問題ない。それより、那覇に着いたら、芝崎君から何を言われるんだろうと考えたの。プロポーズかな? そんな希望も一瞬よぎったけど、きっとそうじゃないよね? 芝崎君に家族がいることを告げられるんじゃないかって思った。そしたら、どうなるんだろう。不倫関係は、お互いを不幸にするよね。これ以上、先に進むと、別れるとき、お互い、もっと傷つくんじゃないかって。不幸になるんじゃないかって」


 カナは知っていた。スワイプして先に進む。


「だから、このあたりで、別れようって思う。空港に行って、直接伝えようと思ったんだけど、間に合いそうに無いから、ラインでごめんね。今まで、ありがとう」


 芝崎は、新雪の上に倒れ込んだ。力尽きた……というより、力尽きたかった。

 このまま、凍死したい。


 スマホには、もう一つ、未読のメッセージが残っていた。

 大阪の妻、恵理子からだ。恵理子とは、小学校からの幼馴染で、大学卒業と同時に結婚していた。息子と娘は、それぞれ、小学一年生と幼稚園の年少である。毎晩のように、子育ての苦労話を聞かされていた。

 逃げたかった。今思えば、身勝手だった。

 恵理子は恨んでいるだろう。

 不倫した上、会社の金を横領して、解雇されたんだから、当然か……。

 生命保険すら掛けていないことをどう思うんだろう。

 恵理子には、最期まで迷惑をかけるんだな……。


 芝崎は、メッセージを読もうか迷った。このまま目を閉じれば、死ねるような気がした。

 が。

 結局、メッセージを開いた。


「おやすみ。さっき、言う前に切れちゃった気がしたから。明日も、お仕事、がんばってね」


 芝崎は目を閉じた。全身が震える。走馬灯が巡る。瞼に熱いものを感じた。


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