89 常世の岸辺、去る者と来る者 その2
ぐつぐつと沸騰する鍋。
煮込まれた混沌物質はやがて、光り輝くペーストになる。
「呪力が溶け合って、混然一体となっておる」
大絹姫が興味津々の顔で観察。
「鍋の神力がいかなるものをも溶かして、悪しきものを灰汁にしてしまうクマ」
「へぇー、すごいのう。料理に使えば旨そうじゃの」
「うん、すごく美味しかったクマ」
神界での饗応を思い出す翔一。
「いつか、作ってくれぬか、熊殿」
「そうだね、時間が空いたらみんなで鍋パーティーしよう」
「たのしみじゃ、でも、鍋が大きすぎるようじゃ。外でやるしかないのう」
「この鍋はお願いしたら、お手頃サイズにもなるクマ」
鍋を勝手に持ってきたのはダーク翔一だったが、持ち主もいない物でもある。咎めたりはしなかった。
そして、翔一は彼から性能を聞いていた。
「ほえー、さすがじゃ」
「よし、そろそろいいだろう。守りの精霊よ、姿を現したまえ!」
土壁源庵が叫ぶ。
すると、精霊界の深い奥底から何かの精霊が生命の力の源に宿り、一つの形をとる。
「龍。クマ」
それは光り輝く小さな龍だった。
「……」
何かいいたげに大きな目をぱちぱちとさせる。
「僕は翔一。君は名前あるクマ?」
「小水龍だよ」
かわいい声で答える、半透明の龍。
「へぇ。水竜君と何か関連あるの?」
「僕はあの、リヴァイアサンの子供だよ。お母さんも勇者様に仕えられて嬉しいって」
「え、あの剣にいたのはリヴァイアサンかよ。道理で神でもなんでも食うわけだ」
ダーク翔一も感心する。
「小水龍君。よかったら僕の家を守る守護神になってほしいクマ」
「いいけど、ちゃんとお祀りしてほしいよ」
「社と池を作るクマ。今工事中だけど」
「完成したら呼んでよ。それまでは精霊界を探検するかなぁ」
小水龍はそういうとどこかに飛んでいく。
「お社と池の設計はお母ちゃんの知り合いの建築業者に頼んであるクマ」
「翔一君、術式は……」
源庵が術を説明し始める。
水神に適した供物や祝詞の解説。
二人が専門的な話を始めたので、他のものは退屈になった、
「じゃあ俺忙しいから」
ダーク翔一が片手をあげて退散しようとする、
「嘘をつくな、ゴロゴロするだけぞよ」
「疲れ切った体を休めるのは重要な仕事だぜ」
「そのたるみ切った根性を、鍛えなおしてやるぞよ」
黒いオーラでダーク翔一を包もうとする大絹姫。
「うわ! やめろよ、暴力反対!」
逃げる宿精。追う大絹姫。
「拙者も弟子の鍛錬をせねば……」
球磨川風月斎が刀を背負った。
小さな道場を旧集落に建築したので、数人の弟子が通っているのだ。
弟子は超人クラブの人間やうわさを聞き付けたヒーローその他である。十人もいない。
尚、彼らは祈祷所への出入りを禁止されているので、専用の出入り口を森に作っている。なので、翔一はあまり彼らと顔を合わせたことがなかった。
砂浜を去る風月斎。
「じゃあ、先生。僕も手配その他で現実界に戻るクマ」
「お母上によろしくな」
翔一は頭を下げて源庵と別れる。
鍋の前には源庵一人が残った。
「フフフ。邪魔者はいない。この時を待っていたのだ」
源庵が土器面の下でにやりと笑うと、鍋にまだ半分以上残っている生命の原初物質を眺める。
すでに、醒め始めて、やわらかいプディングのような状態になっていた。
「キューキュー」
三匹ほどのチビクマが源庵が何をするのか興味津々で見ている。
「なんだ、おまえら帰らなかったのか。まあいい、私の偉大な術を見せてやる。ずばり、『ホムンクルス創造』だ!」
スチャっと精霊界ポケットから一冊の本を出す。
黒い皮表紙、邪悪な瘴気が漏れ出す。
「『ネクラロリコン』! 究極の魔導書ォ! 正直、新しいもの好きの私には見逃せない書物だ!」
明らかに名称をいい間違いながら、混沌山羊神教祖の持ち物だったものをモフ手にもつ。
ページを開くと謎の言語。
「キューキュー?」
「フフ。読めないだろう。当然だ。これはどこか異国の文字。しかーし、この世には文字精霊という奇妙な精霊がいるのだよ。彼らに力を借りれば、あーら不思議、あっさり解読できる。私ほどの術者ならな!」
「キューキュー!」「キューキュー!」
チビクマたちが感心している。
「フフ。称賛はまだ早いぞ。この書にある魔術『ホムンクルス創造』を使えば私は実態を持つ依り代を得られるのだ。しかも、それは究極の美、究極の肉体を兼ね備えた完璧な存在になる。フフ。いかにも私にふさわしい!」
腕を組み増上慢と化した源庵を小さなエアエレメンタルが浮かせる。
「キューキュー!」「キューキュー!」
「ではさっそく始めようか。私がイケメンになったあかつきには、詩乃さんを誘惑するいけないおじさんになっているだろう。ククク」
詠唱を開始する源庵。
「ビジュアルイメージはこれでいいかな。ガイアが俺を呼んでるみたいな感じだ。ワイルドだがセクシー。マジで生前の私じゃないか」
ファッション雑誌を開き、顔と姿をモデルからイメージする。
じわじわと鍋の中の物質が、何かの形を取り始めた。
しかし、すぐには変化しない。
「ふぅ、ちょっと疲れたか。火を燃やしていた間、ほとんど私が詠唱していたからな。本当に使えない、あのダメ宿精」
ダメ宿精とはいわずと知れた黒い子熊のことである。
彼は適当な言い訳を駆使しながら、極力さぼっていたのである。
「ちょっと、休憩。呪力を回復しないと……」
そういいながら、座った源庵はうつらうつらし始める。
「術は途中だけど、詠唱する人がいなければどうということもない……」
いつの間にか、やわらかい砂の上でぐうぐう寝る源庵。
「キューキュー」
チビクマたちは興味津々で見ていた。
一匹が鍋をちょんちょんと触って、熱くないことを確認してから鍋のふちに降り立つ。
三匹のチビクマはまじまじと生命の形を取り始めたプディングを間近で眺める。
ぶるぶる震えていた。
そのうち一匹が好奇心に負け、プディングを触る。
ヌル。
触れた瞬間、チビクマが吸い込まれた。
「キュー!」
仲間二匹が彼を引っ張り出そうとしたが、引きずられて、二匹もプディングに取り込まれる。
キュポ
ダーク翔一が呪術で作った仮生命、しかし、何かと契約もせず、名づけもされていない。
個として成立していなかったのだ。
契約や名前があれば抵抗できたかもしれないが、粘土が水に溶けるように、形を持っていた仮生命は生命の源物質に取り込まれて溶けてしまう。
しかし、小さな精霊生物の溶解は全く何の影響も齎さないということはなかった。
三体の精霊が源物質に取り込まれた形にもなったのだ。
ダーク翔一が核に使っていたのは、人間に友好的な動物の霊と知力を持つ精霊。それを妖術で融合させたものだ。源物質には呪詛や魔術を溶かす力はなかったようだ。すでに、鍋の火は落ちている。
やがて、精霊たちは生命の物質を己のものとして取り込み始めた。
三体の何かが生まれる。
ズオ。
物質は三つに分かれ、小柄な何かを形作って行く。
それはずんぐりした存在で、丸い耳、短い尻尾。
半透明の体は、やがて、色を帯びていく。
茶色、ベージュ、黒。
ふかふかの毛皮を形成した。
「クマクマ」
一番早く体が出来上がった茶色のそれは。のそのそと鍋から脱出して、砂地に転がり落ちる。
モフモフの体でやわらかい砂地に落ちても全くダメージは無いようだ。
ベージュと黒も続く。
どう見ても、子熊だった。
しかし、チビクマよりかなり大きい。
翔一の子熊形態よりは、少し小さい。
三匹の子熊はいびきをかく源庵を取り囲む。
じっと見降ろし、見つめる。
ベージュが源庵をモフっと揺さぶった。
「は、ああ、よく寝た。って、君たちは……翔一君でもダメ宿精でもないな」
起きた源庵はきょろきょろ、うろうろして状況を確認する。
「あー! 源物質がない! チビクマがいなくなって、子熊が三匹……嫌な予感がする」
「……」
不思議そうな顔で源庵を見る三匹の子熊。
「状況証拠的に間違いないよなぁ。君たち、チビクマの慣れの果てなのか」
「クマクマ?」
「こいつらに聞いても無駄か……あーあ、せっかくの超イケメン化プランが!」
思わず、寝転がってじたばたする源庵。
「はあ。失敗したものは仕方がない。でも、どうしようかな、こいつら。源物質に戻すのはさすがに気が引ける。さりとて、中身はチビクマを超えるようなものでもない。……というか、これはこれで依り代に使えるかもしれない」
目を光らせて、三匹を分析する源庵。
しばらく考えていたが。
「このままにしておくと、源物質でたくらんでいたことがばれるかもしれない。そうだ、友好的な祖霊辺りを呼んでこれと融合させよう。そうすれば個性を持った存在になる。結果、私の術のことはごまかせるだろう」
海岸に魔方陣を描き、埴輪を並べる。
「術の贄として埴輪を置いて。精霊入れて、生命に偽装。これで術の妨害はなくなる……」
好奇心の塊の子熊三匹は睡眠精霊を纏わせて、ぐうぐう寝ている。
「暴れられたら面倒だ」
源庵は友好的な既知の存在を呼ぶつもりだった。
しかし、この呪術は致命的な欠落があったのだ。
それは、術を行う場所が『海岸』であり、精霊や霊魂の通り道だったこと、それと、源庵自身の宿精がおらず、思ったほどの融通が利かなかったこと。
源庵は気が付かず、彼は太古の大祖霊の破壊的な呪力で何らかの霊を呼び寄せる。
バリ! バリ!
極天通販で買った埴輪が敵対的な邪霊の妨害ではじけ飛ぶ。しかし、友好的な霊がやってきて、妨害より一歩速く子熊に入り込んだ。
「フウ、うまくいったようだ。さすが私。……目を覚ますのだ。ともがらよ」
目が光り、ムクっと起きる三体の子熊。
明らかに先ほどとは存在感と目つきが違う。
源庵は術の間違いに気が付いていなかった。




