神の手
神の手
年に一度だけ、私は、白い衣を身にまとう。
年に一度だけ、私は、私自身に戻る。
白い衣には、別段何の意味もあるわけではない。
自他を隔てる小道具としての意味があるだけだ。
舞台衣装のようなものと思えばいいのかもしれない。この小道具兼舞台衣装のお蔭で、信徒達の力が強まるのなら、それもまたよし、と思っている。
日時は、1月8日。私の誕生日だ。
別に、3月3日でも、5月5日でも、12月12日でも、いつでもよかった。
「宝主様のお生まれになった日にいたしましょう。」
と古い信徒が言ったので、年に一度の日は、私の誕生日に決まった。
『宝主』というのも、誰かが勝手に呼び始めた名前で、『宝主教』というのも、私の知らないうちに決まっていた。
そんなものはどうでもいいことなのに、人というのは、何か形とか呼び名がないと不安なのだろう。
昔、爺さんが言っていたように、昔の私がそうだったように。
私の知らないうちに、S市の山奥に『宝主殿』とかいう立派な寺院のような建物までできていた。
私の知らないうちに、『宝主教』の信者は日本だけでなく、諸外国まで含めると、20万人以上いるらしかった。
私の知らないうちに、『宝主様』グッズが売り出され、『宝主教』の信者になるには多額の『お布施』がいるようになっており、いつの間にか宗教法人になっており、各国の各都市に支部ができ、会社組織のようなものになっていた。
強引な勧誘や高額のお布施のせいで、『宝主教』が新聞や週刊誌で非難されたことは、私も知っている。
私は仕方無く、今では『最高幹部』と呼ばれるようになっている古い信徒の元に、自分の分身を飛ばし、私がなぜ自分の力を皆に分け与えたのかを思い出させたのだった。
現世の富や栄光や出世のためではなく、または、宗教組織や会社組織の発展のためではなく、死にかけている地球を何とかして救うために、私は自分の力を皆に分け与えた。
「しかし、お金がないと、宝主殿の維持も支部組織の維持もできないのです。」と『最高幹部』は言った。
「そんなものは必要ない。」と私は言った。
「必要なのは一人一人の人の力で、組織や建物ではない。」
「でも、それでは、誰が信徒で誰が信徒でないか、どの信徒の力が一番強いのか、どの信徒が『宝主様』のことを本当に信じてついてきているのか、そういう『宝主教』の根幹が揺らいでしまいます。」
「20年以上も共にいて・・・何一つわからないのか・・・」と私は断腸の想いで、相手から、まだ
わずかに残っている力を奪った。
それ以後も、彼は力を完全に失ったことに気付かないまま、最高幹部として、信徒達に采配を振るっている。
年に一度、私は新しい信徒達に、自分の力を直接与える。
その前に、この力を悪用しない、己一人の欲望のために使わないこと、争いをなくし、空気や水を清浄にし、病気や苦痛を癒すために使うことを約束してもらう。
約束を守る限り、天寿を全うするまで、私は自分の信徒達の健康と幸福を守る。
信徒の一人のように、私は会場に向かい、信徒の一人のように、私は会場内に入る。
分身も飛ばさず、生身の私が自分の足で己自身を運ぶ年に一度の生誕祭だ。
私は信徒の一人のように、混雑や不安や恐れや疑問を他の信徒達と共有する。
『宝主様』が唯一絶対で何でもできるのなら、何で、自分で世界中から争いや病気や貧困を取り除いて、世界中の人を全て幸せにできないのか。
何で、『宝主教』に入って、お金も沢山使っているのに、全然金持ちにも幸せにもなれないのか。
何で、何で、何で・・・・私は分身をその場に残したまま、奥の間に実体を移動させる。
その時には白い衣を身にまとっているので、一番古い信徒でさえ、私の登場の仕方に驚く。
そして、そのまま、舞台の上に瞬間移動する。
私もただの人間だから、ゴオオッ!という信徒達の驚く暴風雨のような声や、ギャアア!というような悲鳴を聞くと、つい嬉しくなる。
これぐらいの芸当をしないと、疑り深い人間や半信半疑の人間は、自分の受け取る無限の力を信じない。
「皆さん、こんにちは。」と言うと、誰一人いないかのように、会場が静まりかえる。
「新しい信徒の皆さん、以前新しかった信徒の皆さん・・・」と言うと、緊張が緩むせいか、こちらが驚くような爆笑が起こる。
私には、もっと重々しく登場し、もっと勿体ぶって話して欲しい、と『幹部』と呼ばれるようになっている古い信徒達が思っていることはわかっている。
権威とか威厳とか身分とか等級が、実際の力よりも大事な人間達だ。
「今日は、会場の中を数えてみると、17453人の人が新しく力をもらうんですね。」と言うと、
会場内がどよめく。
「外国からも、2218人の人が来ています。」
オー!とか、ワア!という元気な声が会場から上がっている。
テレパシーで直接話"しているので、通訳はいらない。
「私のことを神様か何かのように聞いてきている人もいるようですが、私も皆さんと同じただの人間です。皆さんのまだ開発されていない力を、ちょっとだけ余分に持っているだけです。
それと、皆さんの隠されている力を引き出す力を持っています。
この力は、残念ながら、今生きている人間の中では、私だけしか持っていません。
後、3年後に、もう一人生まれるはずですが、その子が力を発揮できるまでには、まだ時間がかかるでしょう。
今、地球は汚染され、動物も植物も死にかけています。
私の力は、死にかけている地球を救うためにある、と子供の時に知りました。
でも、私一人の力でできることは、本当に限られている。
だから、皆さんの力と協力が必要なのです。
今から、一瞬で新しい信徒の皆さんに、私の力を分け与えます。
しかし、その前に約束してください。
この力を悪用しないこと。
己一人の欲望のために使わないこと。
争いをなくし、空気や水を清浄にし、 人々や動物や植物の病気や苦痛を癒すために使うこと。
それだけを約束してください。
約束を守る限り、天寿を全うするまで、私は皆さんの健康と幸福を守ります。
しかし、約束を破った場合・・・」
3万人以上いる会場内が静まりかえった。
正確には、32658人。
「そんなに怖がらないでください。皆さんを地獄に落としたり、天罰を当てたりしませんから。」
また、爆笑の渦が起こる。
「力を与えられたのと同様に、一瞬で力を失うだけです。
この約束は誰に言う必要もありません。
自分の心の中で自分と約束してください。
その力を地球と地球上の生物を守るために使う、と。
その瞬間、力はあなたのものです。
では、また、来年。」
再び、ゴオオッという驚きの声を耳に残しながら、私は、会場内の分身の中に自分の実体を移した。
私の退場の仕方に慣れているはずの古い信徒達でさえ、舞台の上や下で驚き騒いでいる。
「何だか、怖い。」と隣に座っていた50代くらいの女性が、私に抱きついてきた。
「大丈夫ですよ。」と私はポンポンと女性の背中を叩いて、落ち着かせた。
「宝主様は、本当に凄い方ですよね。」と古くからの信徒が自分の周囲の人達に言った。
「宝主様さえ信じていれば、何も怖いことはないんですから。
何でも子供の頃から、ああいう凄い力を使ってらしたそうで、ご両親までが神様のように、宝主様に、お仕えしていたということですよ。」
「へえ」
「ほお」と周囲の人達は感心して聴いているようだった。
「実際の使い方は、宝主教の実践塾の方できちんと習ってくださいね。」
「はい。」
「あなた、実践してますか?」と突然、話の矛先を向けられて、私は「ええ、まあ。」と曖昧に答えた。
「あんまりしてない顔ですね。再入塾して、もう一度最初から習った方がいいかもしれませんね。
二度目以降は2割引きです。何支部ですか?
地区長は誰ですか?」
「あ、自分で相談してみます。」と言って、私は立ち上がった。
舞台の上では、第二部が始まる旨のアナウンスが聞こえている。
誰が企画するのか、舞台の飾りつけや音楽隊や幹部の服装が年々派手になっていく。
幹部の多くは、いつの間にか自分で力を失っている。そして、そのことにさえ気付いていなかった。
「あの、握手していただけますか?」
「ええ、いいですよ。」
会場の外に出るまでに、何十人かの女性と握手した。
彼女達が日々の生活で、充分に力を使っているのがわかった。だから、私が使っていることもわかるのだ。
女性の勘は鋭い、と私は思い、平凡な中年のサラリーマンに戻るために、切符を買って、駅の改札口を通った。
私が最初に自分が他の人間達と違う、と気がついたのは、4才か5才の時だった。
「誰か知らないけれど、とても歳をとった大きな大きな、でも、凄くきれいな女の人が横になっていて、それで、僕と何人かの子供達が周りに座っていて、大人の人達も沢山いて、その中の一人が、その女の人の鼻を、ハサミで切ったんだ。でも、全然血が出なくて、ゴムか蝋燭みたいなものを切ったみたいな感じだった。
僕はビックリして、空中に昇ってしまって、上から皆を見ていたんだ。
本当に、髪の毛は白いのに、凄く綺麗な人だった。それに、凄く大きくて・・・」
「いい加減にしなさい!」と母親は、私の話を遮った。
それと同時につないでいた私の手を振り払った。
幼稚園に行く朝のことだった。
「本当に、気味の悪いことを。あんたがそんなことを覚えているはずがないんだから。」
「そんなことって、何?」
「・・・そんな、あれは、あんたが2才にもなってない時の話でしょ。あんたのひいお祖母さんが
死んだの。」
「ひいお祖母さん? あの女の人は、僕のひいお祖母さんだったの?」
「もう、やめましょう、こんな人の亡くなった時の話なんて。」
「けど・・・」
「けど、じゃない、あんたは、ひいお祖母さんに可愛がってもらったけれど、あんたは、お祖母さんの白い髪が怖いって、逃げ回ってたじゃないの。それに、何で、今、そんな話をするのよ!」
「けど・・・」
「もう! 一人で幼稚園に行きなさい。それに、二度とそんな話をするんじゃないの!」
何で、お母さんは、こんなに僕のことを怒るんだろう、と淋しくなった右手を振りながら、その
時の私は一人で幼稚園に向かった。
それ以来、ひいお祖母さんの話は、お母さんには、してはいけない話になった。
自分より大きい人達には、してはいけない話が随分あるんだ、とそれまでにも気がついていたけれど、お母さんにもしてはいけない話があるとは思っていなかった。
私は、よく草や木や鳥と話した。
でも、そのことは誰にも言わなかった。
私は、よく、「こういう気がする。」と言ったことがあったけれど、大きな人達には、一度もま
ともに受け取ってもらえなかった。
私は、幼稚園に入園するぐらいまで、大きな人達も小さな子供達も、皆、私と同じなんだ、と勝手に思い込んでいた。
けれど、「本当に、気味の悪い子だ。」と大きな人達に何度か言われているうちに、そういう話
はしてはいけないんだ、と分かるようになった。
多分、私はとても孤独な子供だったのだと思う。
だから、私は、とても無口だった。
言ってはいけないことが多すぎて、何も言えなくなってしまっていたから。
今から思えば無邪気に友達と遊んでいたこともあったけれど、でも、誰一人として、私の友達だったことはないような気がする。
私は、どこにいても、一人場違いな存在だったのだから。
「勇気君は、おませですね。」と幼稚園の先生が言っていたらしい。
その先生は、後で聞くと、私のことをひどく可愛がってくれていたらしい。
私に分からないのは、ひいお祖母さんにしろ、幼稚園の先生にしろ、その後の小学校の先生にしろ、自分を大変可愛がってくれた人の思い出というのが全然ない。
何も覚えていない。
全部他人、特に、母親から聞いた話で、私の記憶には一切ない。
残念なことに、覚えているのは、「この家は怖い。」と言った後、その大きな家に落ちた雷、家の天上に吊るしてあって、雷で真っ二つに割れた大鍋。
私は、その割れた鍋を見て、怖くて泣いた。
私が泣いた理由は、多分、誰も知らない。
自分でもわからなかった、と思う。
その家の天上には、その時にも、青い色をした大きな大きな蛇が住んでいた。
その蛇が生きている限り、この家は安全だ、と思ったけれど、誰にも言わなかった。
「ここは、いや、早く帰りたい。」と言った直後、大火事で燃えた家。
私は、その家とその家の周囲の家が大きな炎を上げて燃えているのを、大声で叫んでいる大人達に混じって見ていた。
私は、燃え盛る炎の色がとても綺麗だ、と思って見ていた。
本当に美しかった。
炎は生きている物のように、大きくなったり小さくなったりしていた。
私は、その美しさに心を奪われて、何も考えずに見惚れていた。
「この人は、透き通って見える。」と言った後、入院して亡くなった人。
その人は、突然ではないけれど、私の目の前で、徐々に透明になっていった。
会う度に透明になっていって、私は、それを綺麗だと思っていた。
その人が透明になったお蔭で、背後に風景が見える。
私は、それがとても面白いし、面白いことはいいことだと思っていた。
一番綺麗だったのが、半分以上透明になった時で、その人の姿と、その人の後ろにある大きな樹が、私の丁度好きな感じで重なり合っていた。
「この子は・・・何で、そんな目で、私を見るの!」
とその人が叫んだのを覚えている。
え? と私は思った。
その時の感じを、とてもよく覚えている。
何で、私がもうじき死んでしまうのを知っているの?
誰にもそれは知られたくないの。
死んでしまうその時まで、誰にも知られたくないの、とその人が思っているのが、わかった。
「まあ、まあ、まあ。」とか、「何を子供相手に。」
という声も覚えている。
ずっと後で、母親から、その人が病院に入院してすぐに亡くなった、という話を聞いた。
私は、年よりずっと大人びている、とか、年齢にしては幼過ぎるとか、様々な評価を受けていたらしい。
高木美鈴ちゃんというのが、幼稚園時代に一番仲がよくて、婚約までしていたとか、小林卓也君
というのが、近所で一番の友達で、いつも一緒に遊んでいた、ということも、全然記憶にはない。
「今日は、寄り道をしない方がいいよ。」と私は言ったらしい。
幼稚園に入園して、すぐの頃だ。
私を気にいっていた幼稚園の先生が、後で母親に教えたそうだ。
その日、小林卓也君は、幼稚園では行ってはいけないと言われていた雑木林の中に寄り道をして、野犬に噛まれて、結局、それが元で死んでしまったということを。
私は、何も覚えていない。
「あんたは、本当に、気味が悪い。」と、その頃だろう、実の母親に言われたのは。
ひいお祖母さんの話は、その後のことだと思う。
それ以後、私は、自分がこう感じるとか、こう思うということを、一切話さなくなった。
私は、幼い胸を罪悪感で一杯にしていたのだと思う。
自分が悪いんだ、と思っていたのだろう。
自分さえ何も言わなければ何も起こらなかったんだ、と思い込んだのだと思う。
生まれつきなのか、そういう様々なことのせいか、私は、草や木、花や昆虫、動物との方が、人間よりも親しくなってしまった。
「大丈夫よ。」と草や木が慰めてくれる。
「お前って、本当に可哀相なヤツだなあ。」と昆虫が言う。
「そんなことで滅入ってたら、生きてなんかられないぞ。」と犬や猫が言う。
「馬鹿か。」と太陽や風が私を慰め、「ハッハッハッハ、何やってるんだ。」と雪や雨までもが、私に話しかける。
そして、その中でも、私が一番好きだったのは、家のすぐ近くにあって、昼間でも夕方みたいに暗い森の中にある一本の大きな大きな木だった。
そこも卓也君が野犬に噛まれた学校の近くの雑木林同様、子供は遊んではいけない場所になっていた。
一度、その森の入り口近くの地面から白骨死体が見つかったこともあって、幽霊が出る、と言って、大人も子供も怖がっている場所だった。
だから、私は誰にも邪魔されずに、木々や昆虫と話すことができたのだ。
「やあ、また来たね。」
「元気かい。」
「来る時は、いつも一人だね。」
「爺さんのとこに行くのかい?」
「仲がいいな。」
沢山の草木や昆虫が、私に挨拶してくれる。
その間に、私は、入って来た時とは別人のように、ドンドン元気になっていくのだった。
『爺さん』というのは、とても大きな美しい木で、秋になっても冬になっても、豊かな濃い緑色の
葉っぱを腕につけていた。
爺さんに抱きつくと、とても温かで、優しい気持ちが身体中に広がって行くようだった。
私は彼が本当に好きだった。
優しさとか愛情、豊かさとか知恵、思いやりや心遣いは、彼から学んだものだと思う。
「お前達も、俺達と同じで、昔は、色々なことができたんだ。
俺達は、本当は、一つだったんだ。
元々は、同じところから生まれてきたんだからな。」
どこから?
「知らないのか?そんな大事なこと。」
うん。でも、爺さんは、何で知ってるの?
「何となくだよ、何となく。」
何となくは、よくないよ、きっと。
「お前の『何となく』はどうだったんだ?」
僕の『何となく』は、ダメだった。
「そう思ってんのは、お前だろ? お前の『何となく』は、本当になったんだろ?」
うん・・・だから、ダメだったんだと思う。
「本当になる『何となく』は、本当だろう?」
けど、ダメなんだよ、何となくじゃ。
「そうかあ・・・ダメなのかあ・・・そうかもしれないなあ・・・」
うん。
「そうかあ・・・」
うん。
「お前ってなあ・・・」
え?
「うーん・・・何となく俺達なんだけど、何となく俺達じゃないしなあ・・・」
うん。僕も、そうだと思う。
「けど、俺達、お前のことが、本当に好きだぞお。」
うん。僕もね、皆のこと、好きだよ。
他の・・・人間の皆のことも、多分、好きなんだけど、向こうは僕のこと・・・気味が悪いって、
言う・・・
「俺達は、思わないぞ。ずっと昔は、これがフツウだったんだからなあ。」
そうなの?
「そうさ。だって、元々、同じところから生まれてきたんだからさ。な、俺達、同じだろ? いつ
からか知らないけど、俺達とお前達は、違うことになってしまったんだなあ。」
僕、わからないよ、そんなこと。
「うーん・・・俺達にだってわからないよ、そんなこと。
俺達は、ただ、ずっと同じとこで生きてるだけだからな・・・」
私が心淋しくなったのを見越したように、
「いいこと、教えてやるよう。」と木々や昆虫や動物達が、声を揃えて言った。
「お前は、半分俺達だから、いいこと教えてやるよ。」と爺さんが言った。
私は、それまで当たり前だと思っていたこと、頭の中か身体の中で話をすることを、ちょっとだ
け意識した。
爺さんの声が一番大きいから爺さんと話しているんだけれど、それは同時に、周囲の木々や昆虫、太陽や空気とも一緒に話しているようだった。
何? いいことって?
「俺達の葉っぱってのはさ、お前の手なんだよ。」
葉っぱが手なの?
僕、わからない。
「いいよ、わからなくても。一つずつ教えてやるからさ。
・・・昔は、お前達だって、皆が同じ力を持ってたんだよ。まだ、俺達と一緒な間はね。」
僕、全然わからない。
「お前達の言う『病気』っての、俺達とお前達が仲間でなくなってから、できた話なんだよ。」
でも・・・僕、わからないけど、病気って、聞いたことあるよ。
それでね・・・死んでしまった人もいるんだよ。
「・・・うん、そりゃな、そういうこともあるだろうな。
それに、お前は、随分後に生まれてきたから、そんな昔の話は知らないんだよ。
『病気』ってのは、俺達とお前達が、ちょっと別れてからできたんだと思うぜ。」
そうなの?
「俺も、随分後に生まれてるから、よくは知らないけど、俺達仲間は、全部聞いてるんだよ。
そういうことは、自然に伝わるからさ。
今は、俺達にも『病気』ができたんだけど、ずっと昔はなかったんだよ。
俺達とお前達が、何となく別れた辺りから、『病気』っていうものがでてきて、それを、もう少し前は、お前達も自力で何とかしたんだよ。」
病気を? 何で? どうやって?
「だから、お前達は、その突然出てきたものに驚いて、俺達の葉っぱを使ったのさ。」
手のこと? 病院の薬のこと?
「うーん・・・今でも使ってることがあるらしいけど、『病気』ってのを治すのに、俺達の葉っぱを
使ったんだ。
で、そのためかどうか知らないけど、今は、俺達の間にも『病気』があるようになったんだ。
空気や水や土が変になって、本当だったら、『病気』なんて知らないはずの俺達も『病気』ってもんになるようになったんだ。
ずっと前は、俺達がお前達を治していたんだけど、今でも、そうだけど、けど、もうすぐすると、
お前達に治してもらわないといけないほど重症になるんだ。それが、俺達にはわかるんだ。
だから、俺達のためにも、お前には、思い出して欲しいんだ。
そのずっと昔、俺達とお前達が別れた後、お前達が俺達を真似て使った力を。」
それが、手なの?
「俺達にはどうしようもないんだよ。
今はいいけど、これ以後、動けない俺達には、お前達の力が必要になる。
けれど、今のところ、俺達と話せる人間は、お前を含めて数えるほどしかいない。
しかも、お前以外の人間は、まだ生まれていないか、もう死んでしまっている。
だから、俺達は、お前の力を全開にする必要があるんだ。
お前は、分かっているな、俺達が、もうじきここからいなくなるのは。」
何で?
何でいなくなってしまうの?
「・・・知らなくていい。俺達は、今、眠っているお前の力を全開にする。」
何で? 何で、僕なの?
それに、何でいなくなってしまうの?
そうしたら、僕は、また、一人になってしまう・・・
「お前は、元々一人だ。」
・・・え!
何で?
「お前は、一人で生まれてきた。そして、死ぬ時も一人だ。お前だけじゃない、どの人間も、ある
時から、一人で生まれて一人で死ぬようになった。」
何で?
「俺達と別れた時から・・・人間は、そういう道を自分で選んだんだ。けど、それは、お前の責任
じゃない。俺達の責任でもない。けど、俺達には、もう、時間がない。
お前が自分の力をどう使おうが、お前の自由だ。それは、元々お前の力なんだからな。
もう帰る時間だろう?」
私は、胸の潰れる思いで、慣れ親しんだ森を離れた。
私の大好きな木々、昆虫、小動物、そして、爺さん。
彼らがなぜ、私を一人にするのかわからなかった。
私の胸は不安と恐怖で満員になった。
もう二度と、私の愛する世界には戻れないことを、私は『何となく』知っていたからだ。
その翌日から、森の入口は閉鎖され、私は、慣れ親しんだ森に入ることができなくなった。
ヘルメットを被った、トラックに一杯の男の人達が森の中に入って行った。
森の中では、伐採が始まっていた。
私は茫然として、慣れ親しんだ木々の叫び声を聞いていた。
他の比較的小さな木々が切り払われた後も、爺さんだけは、しばらくの間、倒れずに残っていた。
『樹齢』とか『記念』ということばが聞こえていたけれど、『開発』という声の響きが大きくなって
間もなく、爺さんの呻き声がして、あの美しい腕が一本一本もぎ取られ、胴を鋸で引かれ、長く尾を
引く、悲しそうな叫び声を上げながら、周囲に地響きを立てて、爺さんは倒れた。
根も掘り起こされ、爺さんが生きていた痕跡は一切なくなってしまう。
私は顔の筋一つ動かさずに、爺さんが倒れていくのを見ていた。
爺さんの腕がもがれる度に、私の腕が痛みできしんだ。
爺さんの胴が引かれる時には、私の腹もギリギリと痛む。
爺さんの根が掘り起こされる時、私の足は地面を離れ、私は空中を浮遊していた。
顔の筋一つ動かさずに爺さんの方を見ている自分が、はるか下方に見えた。
「何しに来た。」と爺さんが呻きながら言った。
あんた達と一緒に行くために。
「そんな必要はない。もしかすると、俺達が『死ぬ』とでも思っているのか。」
・・・うん。
「一緒に、お前達の言う『天国』とかいうところに行きたいとでも思っているのか。」
・・・うん。
ワハハハハハ、と爺さんを始め、まだ残っている、周囲の草花や昆虫、太陽や空気までが一緒になって笑った。
・・・何を、何を笑うの?
「俺達は決して死なない。
俺達は何度も何度も生まれ変わる。」
どうやって。
「俺達はグルグルと変化していくだけで、お前達の言う『死』なんてものは、お前達の言う『夢』の
ようなものなんだよ。」
言ってることがわからない。
でも、でも、あんたは・・・いなくなってしまう。
「そうか・・・ここに俺が、俺達がいる、というのが、お前にとっては大事なことなんだな。
俺達にとっては、あんまり意味のないことだけれど、お前にとっては大事なことなんだ。
ここにいなくなるということが、お前達の言う『死んでしまう』ということなんだな。」
・・・うん。多分、そうだと思う。
「それは、お前にとっては、本当に悲しいことなんだな。涙も出ないほど。
一緒に、『天国』とかいうところに行きたい、と思うほど。」
・・うん・・・そうだと思う。
「・・・わかった。
次の春まで待ってくれ。
早く、自分の身体に戻るんだ。
まだお前は、そう長い間、意識と実体が離れていることに慣れてないんだから。」
戻りたくない。
「早く戻らないと、次の春の楽しみがなくなってしまうぞ。
早く、戻れ。お前の実体が朽ちてしまうと、俺達も困るんだ。」
・・・わかった、と思ったとたんに、私は自分の身体に戻っていた。
私は、『自閉症』かもしれない、と大人達に言われながら、その年の秋と冬を過ごした。
「こんなことで、小学校に上がれるのかしら。」
と母親が父親に相談しているのが聞こえていた。
『小学校』?
一体、それは何?
僕にどういう関係があるの?
それよりも、私の身体の真ん中には、ポッカリと大きな大きな穴が開いていて、秋から冬の間、そこを、今までにないほどの寒くて冷たい風が吹き抜けていた。
寒いよ、寒いよ。
「それは冬なんだから、寒いのは当たり前だ。」
寒すぎるよ。
「寒ければ、もっと服を着て、温かくして過ごすんだ。」
私の頭の中には、今も爺さんがいて、私に話しかけてくる。
けれど、私には、それが自分の頭の中でだけ、まだ生きている爺さんだと思っていた。
凍えるほど寒い冬を過ごした後、私は、少し前まで森があって、その後次々に建ち始めた家の側を歩いていた。
「やあ。」
やあ。
「しばらく、姿を見なかったね。」
うん。
「仲良しが一杯いなくなったからねえ。」
うん。
まだ残っている草花達が、私に優しく話しかけてくれる。
「やあ。」
私は驚いて周囲を見回した。
「やあ、久し振りだなあ。」
あ、と私は思った。
その声が、自分の頭の中の声なのか、本当の爺さんの声なのか、確かめるのが怖かった。
あ、あ、と私は思った。
爺さんがいた辺りの、爺さんの根っこのあった辺りの、端の端の方に、爺さんとは似ても似つか
ない、ヒョロヒョロした小さな草のような物が生えていた。
でも、生意気に、ちゃんとヒョロリとした幹もある。
私には、誰に言われるまでもなく、それが、爺さんだとわかっていた。
「春まで待てって、約束しただろう?」
・・・うん。
「前と、形が違うから驚いてんのか。」
・・・うん。
「けど、分かるんだろ?
俺が誰か。
本当は、そんなこと、俺にとっては大した問題じゃないんだけど、お前にとっては大事な問題らしかったから、こうやって、また形になったんだ。
形にならなくても、お前とは秋も冬も話していたけれど、お前達は、形のないものは『無い』と思うんだな。」
・・・う、うん、そう。
こうやって姿を見たら、・・・初めて、会えたと思う。
「それなら、俺の形を、お前の好きな所に連れて行けばいい。
今なら動かしても、形は朽ちないからな。
これ以上大きくなると引き抜かれて、また、お前が悲しい気持ちになる。
木になる必要もなかったのに、この形でないと、お前は俺だと思わないからな。
お前達というのは、本当に、うーん、本当に、厄介なヤツラだと思うよ、全く。」
・・・う、うん。多分、そうなんだ、爺さんの言う通りなんだと思う。
けど、僕は、本当に、凄く凄く嬉しい。
「ん・・・で、寒いのは、もう治ったのか。」
うん。もう寒くない。
何でだか、もう全然寒くない。
けど、もう、爺さんなんて呼べないね、本当に、こんなにちっちゃくて可愛いんだから。
「・・・爺さんでいいよ、爺さんで。
お前達は、何か名前をつけておかないと心配で仕方無くなるんだろう?
どんな名前をつけても、俺は俺だし、名前がなくても、俺は俺で、俺でなくても、形がなくても、俺は俺だ。」
僕、よくわからないけど・・・嬉しい。
「じゃあ、早く、この形を好きなところに連れて行って、形が朽ちないように世話すればいい。」
うん、ちょっと待っててね。
私は、根を傷つけないように、赤ちゃんみたいな爺さんを、家の庭の一番太陽の当たる場所に埋めて、周りを綺麗な石で囲み、『勇気のき』という看板を作って立てた。
「あらあら、可愛い木ね。」と母親が、恐々私に声をかけた。
「うん、可愛いでしょう、お母さん。これね、あの森のあったところで見つけたの。」
「そう、勇気は、あの森が好きだったものね。」
「うん。」
なーんだ、お母さんは知っていたのか、内緒にしてたのに。
「あの森がなくなって、悲しかったの?」
「うん。そうだよ。」
悲しいというより、凄く、寒かったんだよ。
「その木の赤ちゃんは、あの森の子供なのねえ・・・」
母親は、エブロンで顔を覆って、オイオイと泣き出した。
「勇気が・・・その・・・何も言わなくなってしまったのでね、お母さんはどうしていいのかわからなかったのよ。
でも、よかったね、森の赤ちゃんが見つかって・・・」
「うん、僕、凄く嬉しい。」
爺さん、お母さんが何だか知らないけど、嬉しそうだよ。
「お前達は、本当に形だけで喜んだり悲しんだりするんだな。
でも、大抵泣いているのを見ると、悲しんでいる、と思うのに、お前には人が喜んでいるのがわかるんだな。
この場所は太陽や雨からはいい場所だけど、木が大きくなるには土がよくない。
この形が朽ちて、また大騒ぎするのなら、土を替えてやってくれ。
それから、お前の両方の手で、この形にエネルギーを送ってやれば、もっと早く成長するだろう。」
どうすればいいの?
「お前の両手で、この木のエネルギーを一番感じる空間を探して、お前を通して、強いエネルギーの循環を行えばいい。」
何のことかわからない。
「ううん・・・右の手と左の手の間に木を挟む。
そうじゃない。両手は縦に。そうそう。平行・・・同じ場所に。そうそう。
それから、少しずつ、木から同じぐらいずつ両手を離していく。
そこだ。
その場所を覚えておくんだ。そして、元気に大きくなれ、と思えばいい。
最初は、そうやって直接やるんだ。
そのうち、離れていてもできるようになるし、考えるだけでも、できるようになる。
お前は、元々こういう力が他の人間より強かったから、他の人間から見たら、気味の悪い存在に思われたのだろう。」
他の人に言ってはいけないんでしょ?
「・・・そうだな。お前がもっとシッカリと自分の力をコントロールできるまで、言わない方がいいだろう。言っても、気味悪がられるだけで、誰も、お前の言うことを信用しないだろうからな。
お前のその力は、草木だけでなく、動物や人間にも使えるし、空気や雨、空の雲にも影響を与えることができる。
いい影響を与えれば、お前は健康で幸福でいられるだろうし、悪い影響を与えれば、お前の肉体や生活に何らかの支障が出てくる。
少しずつ、使っていけばいい。」
うん。爺さんが前みたいに、元気で大きくなるように、毎日やってあげる。
「あんまり強く思い過ぎるなよ。
この場所は、大きすぎる木には狭いから。」
あ、そうだね。
他の木や、野菜や花もいるものね。
「勇気、勇気。」と母親の呼ぶ声で、私は、現実に戻った。
「ほら、小学校の入学式の服、一度着て見せて。」
行きたくないな・・・
「行ってやれ。他の人間の喜ぶ形も認めてやれ。
お前の形は人間なんだからな。」
うん。そうだったね。
私は、その後のことは、余り覚えていない。
私の頭にあったのは、爺さんが生まれ変わった小さな苗木。
土を替えなければ。
毎日、爺さんが大きく育つように、言われた通りにやらなくては。
爺さんは、周囲の人達が驚くぐらいの速度で、成長していった。
どこかで、自分をコントロールしなければ、と思ってはいた。
思ってはいたけれど、私は、もう一度、あの大きくて美しい爺さんに会いたかった。
その想いは、自分で考えているよりも、ずっと強かったのだと思う。
2年も経たないうちに、爺さんは、私の両腕が回りきらないほど大きな木になった。
そして、かつての爺さんほどではないけれど、私の大好きだった形に近づいていた。
元の姿の10分の1ぐらいだけれど、その姿は、前の姿に似て、とても美しかった。
「お前は、自分が何をしているのか、わかっているのか。」とは、よく、爺さんに言われた。
わかってるけど、自分でも止められない。
「このままいくと、お前の家の庭は、俺だけで一杯になって、それでも足りなくなる。」
わかってる。
「野菜も、花も、朽ちかけている。悲鳴を上げているぞ。」
知っている。
それは、知っていた。
だから、野菜や花にも、爺さんにするのと同じように、成長するように思ってはいた。
けれど、私は知っていた。
本心では、爺さんのために、場所を空けてやってくれ、と思っていたことは。
「勇気、お父さんは、転勤することになった。」
と父が言ったのを覚えている。
小学校の3年生か4年生ぐらいか。
私には、それまで、父親の記憶がほとんどない。母親の記憶は途切れ途切れにある。
私には、妹と弟がいたが、その記憶もほとんどない。
「僕は、一緒に行かない。」と私は言った。
「ずっと、ここにいる。」
その翌々日、学校から帰ってみると、爺さんの姿がなかった。
根の辺りから全部が引き抜かれている。
信じられないことだった。
わかってはいた。爺さんが大きくなり過ぎていたことは。
わかってはいた。どこかで、自分の力をセーブしなければいけないことは。
けれど、その時の私には、爺さんが以前のように、大きく成長してくれることしか、頭になかった。
結局、私には、爺さんしかいなかったのだ。
爺さん以外には、誰も近しい人がいなかった。
また、5才の時みたいに、爺さんを失いたくなかった。
爺さんを失うことは、自分を失うのと同じことだった。
私が、この私が、この世でも、何とか生きていけるのは、相変わらず5才の時と同じで、爺さん
がいてくれるからだった。
5才の時と違うのは、私が、怒りという感情を知ってしまったことだ。
殺してやる!
私は、両親に対して、いや、自分以外の生き物に対して、初めての殺意を抱いた。
あいつらが、爺さんを殺したんだ。
僕が転校をいやがってるのが、爺さんのせいだと思って、爺さんを殺したんだ。
僕のためにではなく、自分達のためだけに、爺さんを殺したんだ。
・・・あいつら・・・殺してやる、と私は思った。
「待て、待て、待て。」と、頭の中で、爺さんが言った。
何を、何を待つの。
「お前は、自分の力を知らないから怖い。
お前が本気で想えば、お前の両親は確実に死ぬぞ。
そして、お前もその同じマイナスのエネルギーを自分に受けて・・・死ぬ。」
構わないよ、死んだって、と私は半分笑いながら答えた。
だって、あいつらは、僕の一番大事なものを・・・
「早まるな。もう少し待て。それからでも遅くない。
俺は、俺達は、いつも、お前と一緒にいる。
お前が、それを知らない、知ろうとしないだけだ。
もう少し待て。」
いやだ。
「そうか・・・それなら、お前は、二度と俺には会えない。
もし、それでいいなら、好きにすればいい。」
もがき苦しんだあげく、私は、結局、待つことにした。
二度と会えない、という爺さんの脅しは、他の何よりも効き目があった。
私は、悲しそうな顔をする級友達と別れた。
悲しそうな顔をする近隣の人達と、友人達と別れた。
「・・・やれやれ。悲しい時に悲しい顔をする、というのが、お前達の形だろうに。
本当にお前と別れるのが悲しくなければ、誰も悲しそうな顔をしないというのに。」
けど、僕は、全然悲しくない。
あんたがいないことが、ひどく悲しい。
あんたが、待て、というから待っているだけだ。
そうでなければ、あいつらと一緒だ。
二度もいなくなるのなら、最初からいない方がよかった。そしたら、こんなに悲しい辛い想いも
しなくてすんだんだ。
「・・・やれやれ。お前は、感謝ということを知らないね。
俺達は、ことさら改めて『感謝』なんて思いはしないけど、周囲の全てのものに生かされている、ということは知っている。
お前のような考えでいけば、俺や、俺達は、元々いない方がよかったし、お前の両親もいなくてもよかった。
お前の周囲の人達も、お前にとってはいらない人達だった。
そうしたら、お前は生まれてもいなかっただろうし、もし、生まれていても、すぐに朽ちていた
ことだろうよ。
お前が怒っているのは、多分、俺のことでだろうけど、元々いないものなら、怒る必要もないわけだ。
お前は、何も無いものに向かって腹を立ててるんじゃないか。
それは、誰のせいでもない。
お前自身のせいだろう。」
・・・何を言ってるのかわからない。
僕が、バカだって言いたいだけなんだろう。
あんたが居なくなって、腹を立てている、僕がバカだってことだな。
爺さんからの返事が欲しかったけれど、どこからも、何の返事もなかった。
私は、誰からも見放されたように感じていた。
私は、また、誰とも口をきかなくなった。
というより、爺さんを失って、爺さん以外には、誰も話す相手がいなくなったというだけのこと
だった。
「元気がないね。」
「元気を出して。」
「大丈夫だから。」
「俺達みんながついているから。」
私は、木々の声に、草花の声に、昆虫達の声に、太陽や大気の声に、雨や雷の声にさえ、耳をすまし、心をすます。
その中に、爺さんの声が、混じってはいないか、と。
けれども、爺さんの声は、囁き声ですら聞こえなかった。
爺さん、爺さん、一体、どこに行ってしまったんだ。
いいんだよ、爺さん、形がなくっても、声だけでも聞かせてくれたら。
爺さん、爺さん、爺さん・・・
そして、私は、生ける屍となって、父親の転勤先の社宅に引っ越すことになった。
「早まるな。もう少し待て。それからでも遅くない。
俺は、いつも、お前と一緒にいる。
お前が、それを知らない、知ろうとしないだけだ。もう少し待て。」
そんなことを言ったのは、一体、誰だったんだろう。
一体、誰だったんだろう?
父親だけではない。
母親や妹や弟が、転勤することでウキウキしているのが、私には、気にいらなかった。
皆で、私の不幸を祝福しているような気がしていた。
太陽や空気や水、草木、犬や猫や馬や牛や山羊までが、会う先々で、ワクワクウキウキして、私を迎えた。
思わず、同じように喜びそうになる自分を必死で抑えた。
こいつらには、本当の感情つまり、心の底からの喜びや悲しみというものがないから、ただ単純
に、僕が来たことが嬉しいだけなんだ。
僕の悲しみなんか、全然分かっていないんだ、と私は思った。
僕だって、単純に喜びたいとは思っている。
思っているけれど、喜べない。全然、嬉しくないんだから。
そして、私は、父親の転勤した先の社宅の庭に、というより、社宅の敷地内に、あの爺さんの姿を発見した。
ちょっと元気はなかったけれど、確かに、私の爺さんだった。
「やあ。」と爺さんは、以前の通りに、本当に、今までに何もなかったかのように、挨拶した。
私は、何も言えなかった。
「お前には、本当に、形だけが大事なんだな。
けど、実際、ちょっと待ってて、よかっただろう?」
私は、何も言えなかった。
「『勇気のき』だもんな。」と父親が言った。
私が小学校入学前に作った、色があせて茶色くなった看板も一緒にあった。
「大変だったんだから。専門の人に頼んで、運んでもらったんだから。」と母親が言った。
「・・・土に気をつけないといけないんだよ。」と私はかろうじて言った。
「あの家では、この木は大きくなり過ぎてね。
それに、もっともっと大きくなりそうだったから、多分、ここでなら、もっともっと大きくなっても大丈夫だろうと思ったんだ。」と父親が言った。
「だって、『勇気のき』なんだから。」と母親が言った。
「お兄ちゃんの木。」
「お兄ちゃんの木。」と弟と妹が言った。
「ちょっと待ってて、よかったね。」と周囲の草花が言った。
「本当に、よかったなあ。」と太陽と空気が言った。
何か言ってよ、と私は爺さんに言った。
「何も言わないでも、分かってんだろう。」と爺さんは言った。
うん、と言って、私は、声を上げて泣いた。
ワーン、ワーン、と他の子供達みたいに、大きな声で泣いた。
「お兄ちゃん、泣いたらダメだあ・・・」と弟と妹も同じように、ワーン、ワーンと泣いた。
「ちょっと無理して、よかった。」と母親が言った。
「うん、よかったな。」と父親が言った。
「形というものも、中々いいもんだな。」と爺さんが言った。
「俺も無理して、形になってよかったのかもしれん。形というのは不自由なもんだ、とお前達の言う、2000年ぐらい思い暮らしてきた。
何しろ自分で移動できない。
天変地異が起きることがわかっていても、
身体を傷つけられることがわかっていても、
どうすることもできない。
ま、自在に形から離れることはできても、形に対する執着はある。
怖いものは怖いし、痛いものは痛いし、イヤなものはイヤだ。」
でも、僕は嬉しい。
「それなら、お前を嬉しくしてくれた相手に、きちんと感謝するんだ。」
爺さん、ありがとう。
「・・・違うだろう。お前のことを考えて、色々な物を諦めて、お前に殺されそうになっているのも
知らず、俺をここまで連れて来てくれたのは、一体誰だ。」
お父さんとお母さん?
「それから?」
爺さんを運んでくれた人。
「他には?」
ええと・・・爺さんを生かしてくれてる太陽や水や空気や土。
「もっと他には?」
・・・ううん・・・爺さんを運んだトラック。
「弟と妹は?」
え? 何で? だって、別に、何も・・・
「お前は、自分のことしか考えてないから分からないだろうけど、お前の弟や妹は、沢山の友達や先生や近所の人と別れるのが、本当に悲しかったんだぞ。けど、お前の大事なもののために、それを全部諦めたんだ。
お前とは違って、弟や妹には、会いたい時に会いたい相手に会える、ということさえ分かっていないのに。」
・・・
「お前は、他人にない力を持ちながら、自分のことしか考えていない。」
でも、僕は・・・爺さんのことを・・・
「何で、お前は、俺のことを考える。」
「僕は爺さんが好きで、爺さんがいないと、淋しくて死んでしまうような気がするから。
「誰が死んでしまうんだ。」
僕。
「お前以外には。」
・・・爺さん。
「俺達は死なない。お前には、何度も言ったはずだ。では、お前は自分が死んでしまうのが怖かっ
たんだな。それだけが、イヤだったんだな。」
・・・うん。
また、爺さんからの声が途絶えた気がした。
そうだ、と私は思った。私は、自分のためだけに、爺さんの姿が欲しかった。
・・・淋しかったからだ。
私には、爺さん以外に誰もいなかった。
誰も・・・
そうか、死んでしまうのは、僕だけだったのか、と私は思った。
淋しくて悲しくて死んでしまうのは、僕だけなんだ。
僕が考えていたのは、本当に自分のことだけだったんだ。
その日を境に、私に人間の家族というものができた。
それから、転校先で人間の友達ができた。
私は、自分が草木や動物と話せるとか、人の病気が治せるなんていうことは、誰にも言わなかっ
た。
天候を変えられるとか、瞬間で別の場所に移動できるなんてことも、言わなかった。
家族や友人の前では、私は、ただの子供だった。
守ってもらわないと生きていけないただの子供。
僕は、やっぱり一人ぼっちだ。
「はっはーん。」と爺さんは笑った。
「嬉しそうに、一人ぼっちだ、なんて言うな。
お前には、今、守ってくれる人間と守ってやれる人間がいる。
お前は、家族や友達の健康を守ってやれる。
それから、俺たちや海や大気を守ってやれる。
こんな幸せなことはないんだぞ。
別に、人前でひけらかせてやる必要はないんだ。黙って守ってやればいい。」
うん、そうだね。
「ある国の原子力発電所が壊れそうになっている。」
私が中学生になった時、爺さんが言った。
「今、俺達は力を合わせて何とかしようとしている。水と大気の一部は、お前にまかせる。」
何をしたらいいの?
「ああ、もうだめだ・・・俺達の無力が恨めしい。
また、この星の一部が死んでしまった。
お前は想って欲しい。
その国の水と大気の汚れが落ちるように。」
うん。その国の水と大気の汚れが落ちますように。
「お前達の仲間も、俺達の仲間も、沢山の実体が消えた。」
けど、爺さん達は死なないんでしょ?
「大勢の仲間の意識とエネルギーが、各地に散った。
俺達が死なないのは、エネルギーを循環できる仲間がいるからだ。
しかし、この星自身が死んだら、仲間の実体が全部消えてしまったら、さすがの俺達でさえ、意識
だけになって宇宙をさまようことになる。」
その後、各地で戦争や核実験、事故や地震が起きるごとに、爺さんは嘆いた。
私も同じように嘆いていたつもりだったが、ただの中学生としての私は、友情だとか恋愛感情だとか勉強だとか遊びに忙しく、爺さんと同じほど、地球の運命を嘆いたりしなかった。
「ついてこい。」と、ある日、爺さんは言った。
ええ!
僕、今日はこれから彼女とデートの約束があるのに。
「意識だけでいい。実体は残して、デートでも何でもさせておけ。」
そんな横暴な・・・と思いながら、私は、爺さんに教えられたように、自分の意識を実体から切り
離した。
「長い時間じゃない。ほんの数分だ。」
爺さんと私の意識は、物凄い速度で地面から離れていった。
家々が小さくなっていき、おもちゃのような町がいくつも見えた。
あちこちで森林が破壊され、河がコンクリートで固められているのが見えた。
日本が地図のように見える頃、海岸沿いに原子力発電所が不気味に林立しているのが見えた。
そして、ごちゃごちゃした都会と一面が緑の地域が見えた。
日本には、綺麗なところがいっぱいあるんだ、と私は思った。
爺さんと私の意識は、もっと速く上空に登って行く。
目の下に雲が見える。
地球が本当に円いのがわかる。
そして、本当に青い。
青くて、美しい。
「あれが俺達の星だ。
あの青い星から俺達は生まれた。
青い星の青い海から、俺達は来た。
俺は、あの星が、本当にいとおしいんだ。
あの海が、この大気が、本当にいとおしいんだ。
同じ海から来た仲間が、本当にいとおしいんだ。
そして、あの星を失うことが、本当に残念なんだ。本当に残念で、悲しいんだ。」
何で?
何で、地球を失うの?
「俺達のあの星は、今はまだ青い・・・」
青くなくなるの?
爺さん、青くなくなってしまうの?
そう思ったとたん、私は、自分の実体に意識が戻っていくのがわかった。
「勇気君、何で泣いてるのよ。」という声が聞こえていた。
僕がクラスで一番好きだった女の子だった。
「やだあ、男のくせに、泣いてるの。そんなのって、最低。」
うん、僕は最低だ、と私は思った。
「なーんか、勇気君のイメージ壊れちゃった。」とよく知っていたはずなのに、初めて会ったかのよ
うな、見知らぬ女の子が言った。
私は、普通の中学生・高校生・大学生・社会人をやりながら、爺さんに教えられたように、日本の
各地に意識を、時には実体を飛ばすようになった。
「焦るな、慌てるな。」と爺さんは言った。
高校を卒業する頃には、入学試験を分身に受けさせながら、キリストのように変身した実体をあらゆる場所に偏在させ、同時に自分の力の一部を他の人間に伝えられるまでになった。
あの美しい青い星を、地球を守るために。
「お父さん、お帰りなさい。」と娘が私を出迎えた。
この子が、3年後に私の後継者を産むことはわかっていた。
「お母さんたら、お父さんは浮気してるんじゃないか、って、凄く心配してたわよ。」
「馬鹿らしい。」
「ま、優しくしてあげて。」
それから、爺さんが、話があるんですって、と娘はテレパシーで、私に話した。
やあ、爺さん、まだ注文があるの?
「お前のしていることは、この星を維持しているだけで・・・」
わかってるよ。
今のところは、それで精一杯だ。
『焦るな、慌てるな』って、教えてくれたのは、爺さんの方だよ。
「うむむむむ・・・」
私は、最初に出会った時と同じ形になった爺さんに見惚れていた。
「俺に見惚れる暇があったらだな・・・」と言いながら、爺さんが照れているのがわかった。
「爺さん、私の孫も、よろしく頼むよ。」と私は声に出して言った。
「当たり前だ。」と爺さんが答える。
「ただいま、帰りました。」と私は不満に頬をふくらませている妻に、未来の地球の救世主の祖母
となる女性に、心からの敬意をこめて挨拶した。