男と女の間には長くて深い溝がある(三十と一夜の短篇第3回)
「なあ、もしタイムマシンがあったならどんな時代に行ってみたい?」
志信は小夜子に尋ねてみた。小夜子は志信からの唐突な質問にくすくすと笑ってみせた。小夜子のアパートの小部屋で二人きり、遠慮なく甘えるように体を寄せる。
「う~ん、急に訊かれても判んないよ。しのと一緒ならどこだっていいもん」
媚態に脂下がることなく、志信は小夜子の頬をつついた。
「もうちょっと考えてみて、真面目に答えろよ」
「真面目に?」
「そうだよ。恐竜のいる時代に行ってみたいとか、お姫様の生活がどんなのか見てみたいとか、子どもの頃は真剣に考えたりしなかった? それの大人バージョンとしてさ」
小夜子は口角を下げた。どう真面目に考えればいいのか戸惑ってしまう質問だ。大人がそれを真剣に考えるのなら、物理学的な問題をクリアする方が先のような気がする。そうねえと、小夜子は人差し指で唇をとんとんとした。
「やっぱりないわ」
「えっ!」
「だってそうでしょ。男尊女卑の歴史が長いもの。一応現代は法の下の平等が保証されているじゃない。身分差があるとか、女は男に仕えて当然なんて真っ平だわ。
それに、昔は水栓を捻れば蛇口から水が出るなんてないから、川や井戸から水汲みをしなくちゃあいけないし、電気もなくて蝋燭やら行燈やらの灯では不充分だし、火事の心配があるわ。そう、ガスで調理やお風呂の湯沸かしなんて便利な物、現代ならではでしょう。一々紙くずや藁を使って火打石で火を点けて、薪でご飯を炊いて、お風呂を沸かしてなんて大変じゃない。こっちだって火の用心よ。
毎日気軽にお風呂やシャワーできなきゃ嫌じゃない。それに洗濯もそう。一つ一つ手洗いして、干してなんてゴム手袋のない時代を想像しただけで手の皮が真っ赤に腫れ上がってきそう。全自動洗濯機は有難いわよ。
ほら、時代劇では水汲みのほかに糸紡ぎや機織りも女性の仕事みたいに映されているじゃない。そんな細かい手仕事毎日毎日、炊事や掃除と一緒にやるのって大変そう。わたし、ボタン付けも面倒臭い方だもん。和服の洗い張りって一回一回するものなのかしら。
ああ、あと病気ね。耐性菌がどうとか言われているけれど、抗生物質があるから簡単に病気を治せるケースだってあるものだわ。考えてもみてよ。それに外科手術がなければ、盲腸炎をこじらせて腹膜炎で人が死んでいた時代の方が人類の歴史で長いのよ。天然痘だって昔あったじゃない。それに狂犬病。日本ではここのところ発生していないそうだけど、これだって飼い犬に予防接種をしたり、野犬を捕まえたりした成果でしょう。知ってる? 狂犬病の動物に嚙まれたら感染して死んじゃうのよ。
ああ、でも日本狼は見てみたいっていうか、種は保存しておくべきだったのかしら」
志信が口を挟もうとすると、小夜子はそんないとまを与えず喋りつづけた。
「狼がいた頃って山里は怖かったのかしら。当然狼だって狂犬病に罹ったりしたでしょうから、その注意も必要だったわよねぇ。
機械化が進んでいないのだから、当然全部が人の手で行われていた訳でしょう。田植えも稲刈りも、漁業もそうだし、その後の食べ物の加工だってそうよ。
冷蔵庫や冷凍庫がないから、長期保存といったら干物、乾物、塩漬けでしょう。
冬に体を冷やすといっても生野菜のサラダを食べたくなることもあるじゃない。そうそう、冬におこたでアイスクリームって堪えられない!
文明ってつくづく有難いと思うわ。昔は人の移動が徒歩か馬でしょ。自動車や新幹線、飛行機を知るとそれで旅行するのが当たり前じゃない。それで東海道五十なんとかとか、お伊勢参りとか、していられない。
だから、行ってみたい時代なんてないわ」
志信はあんぐり口を開けていた。
「なあによ、真面目に答えたのに変な顔してる。ひどいわ。
それにさ、聞いたことある? アマゾンとかアフリカの未開の地域に取材に行く時には風邪引きとか体調不良者は連れていけないのよ。向こうで未知の病原菌をもらう可能性もあるけど、取材チームが現地に流行性の感冒や胃腸炎を持ち込んでそこの住民をパンデミックに巻き込む可能性があるんだそうよ。
タイムマシンに乗っていって新型インフルエンザをその時代の人たちに伝染させちゃったら目も当てられないわ。
あとは言葉の問題よ。「は行」の発音は時代によって「F」音だったり「P」音だったりするじゃない。言葉は生き物。付け加えるのなら、わたし、古文書読めないもん。古い時代に行ったら、絶対苦労したうえに野垂れ死にしてしまうわよ。
生まれ育った時代で人間生きていくのよ、行ってみたい時代って言われたって無意味だわ」
「そうだな……」
志信はすっかり萎れてうなだれていた。
まずいと小夜子はようやく気付いた。男性の言う、男の浪漫、少年らしさ、稚気を無視して一気にまくしたててしまった。志信を傷付けただろうか。
「と、とにかく、わたしはしのと一緒ならいいのよ」
小夜子は志信に肩を寄せた。しかし、志信は目を逸らす。
「いいんだ。小夜は行きたい時代なんてないんだろう。歴女とか自称しても冷静なんだな」
志信の不機嫌な物言いは小夜子を不安にさせるより、苛立たせた。歴女なんて流行りの言い方をされていたって、タイムトラベルしてみたいかは別ものだ。
「なによお、わたしが戦国武将かっこいいとか言っているから試してみたの? わたしの頭の中が単純だとでも思っていた訳?」
「違うよ」
「じゃあ何よ」
志信は意を決したように小夜子に向き直った。
「俺は今まで小夜子に隠していたことがある」
「借金でもあって夜逃げしようとしていたの?」
地球の裏側のような、どこかに人に知られぬ所に逃げ込みたいと計画しているのかも。タイムマシンはその例え話か。
志信は告げた。
「違う。俺は――、いや某はこの時代の人間ではないのだ。来し方からこの世に流されてきた。ゆえに某、この世で慣れぬながらも懸命に働き、生きてきた。
小夜に出会うて某は幸いであった。
某はそなたが大事だ。そなたと二世の契りを結び、ともに暮らしたいと願うておる」
今度は小夜子が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「嘘ではない」
「つまり……、タイムマシンに乗ってきたの?」
「いいや、そうではない。時を超える機械は持っておらぬ。気が付いたらこの世に迷い込んでおった。そして3年暮らしてきた。
こうして暮らしていて、またいつか元の時代に帰ってしまうやも知れぬ。もしかしたらそなたを巻き込む恐れもある。
そなたと別れたくない! しかし、そなたを某の定めに巻き込んだらあまりにも酷い」
小夜子はきっぱりと言った。
「何を言っているのよ。志信は志信。わたしの誰よりも愛している人よ。
あなたがフリーターでもわたしは正社員で働いているのだし、この現代なら何があっても大丈夫よ。
それにタイムスリップに巻き込まれたって平気だわ。
言ったでしょ。志信と一緒の時代が一番いいって」
志信は拍子抜けしたようだった。
「小夜、本気か?」
「これが冗談だと言ったら張り倒すからね」
小夜子の語気に、こくこくと志信は肯いた。
「ところでしのはいつの時代から来たの?」
志信は躊躇しているようだ。
「ねえ、はっきり言って! 教えてちょうだい」
実は、と志信は口を開いた。
「小夜の好きな戦国時代から来たと言えればいいんだけど、そうじゃない。
済まない。俺は昭和の生まれなんだ」
「はあ……?」
「平成20年に大きな地震があっただろう? 俺はその時どんぐり山で山歩きをしていたんだ。突然の地震で土砂崩れがあって、巻き込まれた! と思ったら、山の中で気絶していた。起きて家に連絡しようとしたら、5年間もどこに行ってたんだと言われたんだ。それで地震のショックで5年先に飛ばされたと判った。
だから、俺の親兄弟も健在だし、戸籍もある。でも、戸籍よりも実年齢は5歳若いんだ。
ただ、5年のブランクって結構キツクてさ、持っていた最新型のはずの携帯電話がガラパゴスケータイって言われてスマートフォンにびっくりしたり、流行りのギャグだって『グー』とか『どんだけ~』とか言っていたのが、『じぇじぇじぇ』とか『だめよ、だめだめ』とかさ付いていくのに勉強しなくちゃいけなくなって大変だったよ。
なぁんか就職もうまくいかなくて、いまだに非正規労働者のままでさ。このまま小夜から見捨てられたらどうしようと、悩んでいたんだ。
でも安心した」
ふざけていたのか、と小夜子は腸がかっかとしてきた。
「それってただの行方不明か、記憶喪失の間違いじゃないの? 5年間ふらふらしていたっていう……」
志信はとぼけるように笑ってみせる。
「えっ! 小夜は俺を疑うの?
そうだよなぁ、お袋もいまだに信じてくれないから。でも5年間の記憶がないんだ。やっぱり未来に吹っ飛ばされたんだよ」
突然の告白をどう受け止めればいいのだろう。
「判った。信じる」
そう言うしかなかった。
「良かった。小夜、愛しているよ」
志信は喜色満面。秘密を明かしてほっとしているようだ。
「信じるから、引っ叩かせて」
有無を言わさず小夜子はバシーンと志信の頬を張った。
突然、床に倒れた志信の姿が消えた。ショックで8年前に戻ったのかも知れない。
「どうしよう。どんぐり山の中に入っちゃったのかな? それとも8年前のこの部屋かな? 生きていたら、わたしのことを覚えていてくれるかしら」
某なんて大仰な言葉遣いをしなかったら、むかっ腹で叩かなかったかも知れないのに。残念な男だった。
平成20年の岩手・宮城内陸地震では大規模な山崩れがあり、いまだに行方不明の方がいらっしゃいます。不快に感じられる方がいらっしゃるかも知れません。お詫び申し上げます。