変身
大粒の雨が窓を激しく叩いている。部屋に戻って間もなくバラバラと雨が降り始め、あっという間に暴風雨になっていた。何気なく時計を見る。時刻は21時半。
小雨は昨日と同じく先にシャワーを済ませ、ゆったりと本を読みながら寛いでいた。今日は安部公房の「砂の女」だ。真紀は数十分前から浴室に篭もっている。今日も長風呂だろうか。
慣れない運動をしたせいか、どうも体がだるい。こりゃあ、明日は筋肉痛だな……と、憂鬱な気分になった。私も湯船でゆっくり体をほぐすべきだったか……しかし、今更また風呂に入る気にもなれないし、後の祭りである。せめてゆっくりと体を休めよう。この天気だと明日も特にする事はなさそうだし、まあ、何とかなるだろう。
そんな事を考えながらソファーに寝そべっていると、コンコン、と部屋をノックする音が聞こえた。
誰だろう、瞬かな?のっそりと体を起こしてドアへ向かう。よいしょ、と二、三回は言ってしまったと思う。
「はい、どちら様?」
「こんばんは、心美です。ちょっと、お話がしたくて……」
おや、これは意外な来客だ。
ドアを開けると、心美ちゃんが飲み物を持って立っていた。Tシャツにショーパン。小雨と同じラフな格好だ。心美ちゃんはいつもスカートのイメージがあったので、少し驚いた。部屋着はこんな感じなのか。持っているのは、ウーロン茶と……ワイン?え、ワイン?
「もう、お休みでしたか?」
「いやいや、そんなそんな。どうぞ、入って」
ソファーに座って、二人でしばらく話をしていた。
「お姉さんが欲しかったな……」
心美ちゃんはしみじみとそう漏らした。同性の姉妹が欲しいという気持ちはよくわかる。私にも弟がいるが、これがどうにも残念なやつなのだ。
「私も、心美ちゃんみたいなかわいい妹がいたら楽しいだろうな……」
お互い妙にしんみりしてしまったところで、黒いネグリジェ姿の真紀が風呂から生還してきた。溺死してるんじゃないかと思っていた。化粧はもちろん落としている。
「あら……いらっしゃい。」
心美ちゃんは、初めて見るクールな真紀に面食らっているようだったが、私が事情を説明すると案外すんなりと理解してくれた。物分かりがいい子だ。寧ろ、ぶりっ子な真紀よりもこちらのほうが接しやすいのかもしれない。
真紀はあまり喋らなかったが、心美ちゃんはやはり真紀に興味津々のようだ。心美ちゃんが色々質問をして、真紀が二言三言答える。そんな事が続いた。
「どうしたら、真紀さんみたいに綺麗になれるのかな……」
「そんな……大した事はしてないよ」
「私、お化粧とか下手だし……なかなか、上手くいかなくて」
ぼやきながら、化粧台の上に並んでいる真紀の化粧品をちらちらと見ている。いや、そういえば、この部屋に入った時から気にしていたかもしれない。
「教えてあげようか?」
相変わらず無表情の真紀だが、案外乗り気なようだ。
「え、いいんですか?」
心美ちゃんが部屋から自分の化粧品を持ってきて、いつものメイクをする。真紀はそれをじっと眺めていた。それだけでもナチュラルメイクで十分可愛らしいと思ったが、真紀は自分のマスカラやアイライナー、アイシャドーを使ってアイメイクを施した。
真紀のこんなに真剣な表情は初めて見た。いつかテレビで見た、作業中の彫刻家を連想した。さらに、鮮やかに赤い口紅とグロス……なるほど、心美ちゃんのくりっとした目がぐっと大人っぽくなり、薄めの唇も艶っぽくなった。
最後にうっすらとチークを施して、完了。
「うわぁ……」
私も心美ちゃんも、思わず嘆息してしまった。とても綺麗だ。そしてセクシー。心美ちゃんは早速嬉しそうに自撮りをしている。そんな心美ちゃんを見て、真紀も満足そうだ。相変わらず無表情ではあったが。
「ありがとうございます……こんな私、初めて……」
心美ちゃんはうっとりと鏡を見つめていた。
「これ、開けていいの?」
真紀はいつの間にかワインに手をかけている。おいおい、私たちは未成年だぞ。
「あ、どうぞ……。一昨日のディナーの残りで、お口に合うかはわかりませんけど……」
「ちょっと真紀、そんな、未成年だよ?高校生の目の前で飲酒なんて……」
「細かい事言わないの。そのために持ってきてくれたんだから」
そう言うなり、真紀は食器棚からグラスを二つ持ってきてコルクを捻り、真紀と私の分を注ぎ始めた。深い紅色の液体がグラスを満たしてゆく。
「ちょっと……私、ワインなんて飲んだ事ないし……」
「だったら、ちょうどいい機会じゃないの。飲んでみなさいよ」
心美ちゃんはコップにウーロン茶を注いでいる。
「チーズか何か、持って来ればよかったですね……」
三人でテーブルを囲んで、まず乾杯をする。そしていよいよ、初めてのワインを口に含んだ。
濃い。
ビールやチューハイ程度のものなら飲んだ事はあったが、全く別物だった。アルコールが強い。すぐに酔ってしまいそうだった。真紀はグラスを揺らしながらゆっくりと香りを楽しんでから口に含んだ。
「うん、おいしい」
私には味を楽しむような余裕は全くなかったのだが、真紀は飲み慣れているらしい。本当に未成年か?
それから少し、真紀が使っている化粧品の話などをしているうちに、私と真紀は強烈な眠気に襲われ始めた。やはり、真紀も昼間のビーチバレーが堪えていたのだろう。私はワインの方がきつかった。
「ごめんね心美ちゃん、なんか急に眠くなって……」
「あ、いえいえ、いいんです。真紀さん、小雨さん、今日は本当に有難うございました」
この部屋に入った時とは見違えるほど綺麗になった心美ちゃんは、深々とお辞儀をして、残ったワインとウーロン茶を持って自分の部屋に戻っていった。
私達はそのままベッドに直行した。真紀の寝息が聞こえてくるのとほぼ同時に、私も深い眠りについた。