青いワンピース
部屋に入ると、心美は開口一番に言った。
「あれ、電気……つきませんでした?」
部屋が真っ暗な事に驚いたようだ。
「いや……蛍光灯の明かりが苦手なんだ。つけようか?」
少し間があった。
「いえ……このままで」
二人でテーブルを挟んで、ソファに腰掛ける。心美の視線はテーブルの上の赤い蝋燭に注がれた。
「きれいな蝋燭ですね」
赤い水の中を、金魚がゆうゆうと泳いでいる。蝋燭から微かに薔薇の香りが漂ってきた。
「一目惚れして買ったものなんだよ。こだわりの品」
「使っちゃって良かったんですか?」
「いつか使うために買ったものだし、一人で楽しむよりは、二人で楽しんだほうがいいから……来てくれてよかった」
少しどぎまぎした様子だったが、返事はなかった。心美は、持参したランタンのスイッチを切った。蝋燭の明かりだけが暗闇の中に浮かんでいる。お互いの表情が見えるようで見えない、微妙な暗さだ。
「兄さんのお話……嘘なんでしょう?大学での」
「どうしてそう思うの?」
「兄さん、私には優しいけれど、人に慕われるようなタイプじゃないし……」
そう、それが、ここに来て初めて知った先輩の意外な一面だった。家族と一緒にいる間は、家族想いで妹想いの、ごく普通の優しい青年だったのだ。
「どれぐらい、嘘だったんですか?」
さて、どう答えようか。
「う~ん……6割ぐらいかな」
結局、家族想いな先輩の名誉を守ることにした。
「ふふふ……優しいんですね」
「嘘っていうのはね、信じていられれば真実になるんだよ。逆に、本当のことでも、信じられなければ、それは嘘になる」
「バレなければ、でしょう?」
「身も蓋もない表現だね、それは」
「私は普通です。瞬さんこそ、持って回ったような言い方ばかりして……」
「うん、全く以て、その通り」
心美は笑っている。何か面白い事を言っただろうか。まあ、しかし、楽しんでくれているのなら、それでいい。俺は、会話の継ぎ端を求めて、外の景色を眺める。
「いいところだね、ここは。夜になるととても静かで、気持ちが落ち着く」
「ええ、とっても。時々、蛙が五月蠅いですけど……」
「あと、虫ね」
「そうそう、うっかり窓を開けたりすると、たくさん入ってくるんですよ、虫。気を付けてくださいね」
暫く、この別荘での思い出や、周辺の事などを話していたが、一通り話し尽くしたのか、また会話が途切れた。
心美が口を開く。
「真紀さんと小雨さんとは、どういうご関係なんですか?」
またその話か……。さっきの先輩の話を思い出す。
「どうして、そんな質問を?」
心美はしばらく黙り込んでしまった。雨の音だけがしとしとと響く。
「……怒っていますか?」
「いや……そんなつもりはなかった。小雨はただの幼馴染だし、真紀は最近友達になったばかりだよ」
この一言に、どれだけの嘘が散りばめられているだろうか。吹き出しそうになるのを、ようやく堪えた。
「嘘……」
再び沈黙が流れる。今なら、蝋が滴る音さえ聞こえるかもしれない。心美は膝頭を見つめるように俯いている。表情は全く窺えなかった。仄かな薔薇の香りが、今は空々しく感じられる。
「話っていうのは、それ?」
返事はない。
「話が終わりなら、俺はもう休みたい……けど」
こんな夜中に、ただ話をしに来たわけではないという事を、彼女の化粧が物語っている。
「もし、まだ用があるのなら、こっちへおいで」
今のは、催促なのか、確認なのか、自分でもよくわからなかった。
「ふふふっ……何ですか?それ……」
心美はクスクスと笑い出した。彼女の笑いのツボがよくわからない。
「それで、本当に私がこのまま帰っちゃったら、どうするんですか?」
そうか。それは全く考えていなかった。確かに、相当間抜けな話だ。
「……そうだね、泣いちゃうかも」
肩を竦めておどけてみせたが、この暗さではよく見えなかったかもしれない。
「こっちへおいで、なんて……私、そんなに子供っぽいですか?」
「いや、その……」
「素直に、もっと近くで話したいって仰ったらいいのに」
完全にペースを握られている。
「もっと近くで……顔が見たい」
心美は立ち上がった。スカートから覗く脚だけが、暗闇の中にぼうっと浮かび上がる。改めて見ると、細い割には筋肉質だな、と思った。脚だけが一歩一歩近づいてきて、俺の膝に触れそうな位置で止まった。少し遅れて、ソファが沈み込む感触。視線を戻すと、目の前に心美の顔があった。
じっと見つめてみたが、目を合わせようとしない。俯き加減に、時々蝋燭の方を見たり、ワンピースの裾をいじったりしている。よく見ると、いつも着ている青いワンピースとは別のものだとわかる。
昼間とは全く別人に見えた。化粧一つでここまで変われるなんて、女はつくづく怖いものだ。灯火に照らされた唇が、まるで別の生き物のように艶めかしく蠢いて感じられる。
「とても綺麗だ」
心美は少しはにかんで、
「恥ずかしい……こんなにきちんとお化粧したの、初めてなんですよ」
「それは、光栄の極みだね」
彼女の頬に優しく触れる。少し驚いたようにこちらを見た。しかし、すぐに覚悟を決めたような表情に変わる。
「鼻……痣になっちゃいましたね」
昼間、ビーチバレーでぶつけた箇所に、確かに少し痣ができている。そんな事は、すっかり忘れていた。心美の指が、痣になった部分をそっとなぞる。
「俺がもし、本当にこのままお話しかしなかったら、どうする?」
心美が妖しく微笑んだ。
「そうですね……泣いちゃうかも」
蝋燭を吹き消し、そのままソファに倒れこむ。
闇の中で、滑らかな肌が、海のように静かに波打っていた。
「んっ……」
微かに吐息が漏れた。そこに唇がある。ごくり、と一つ唾を飲み、唇を重ねようとした瞬間。
ふっ
と、真紀の匂いを感じた。何故、こんな時に…?そのまま暫く硬直してしまう。
「あの……」
不安気な心美の声を聞いて、迷いを断った、その時だった。
うああああああっ……
静寂を引き裂くように、男の悲鳴が鳴り渡った。
いつになったら事件が起こるんだよ、と憤慨されていた皆様、長らくお待たせいたしました。




