猫、拾いました。
今日はちょっと飲み過ぎてしまった。何度も吐きそうになりながら、やっとここまで辿り着いた。酒屋の角を曲がれば、すぐに俺の住むアパートが有る。もう少しの辛抱だ。
酒屋の角を曲がった時だった、道路の脇に何かが居る。俺は反射的に道路の反対側へ避けた。避けた場所から状況を確認すると、それはうずくまっている人間のようだ。きっと酔っ払いだろうと思い無視して行こうとしたが、酔っ払いにしては小さい。普通、酔っ払いは若くても二十歳前後だろう。それにしては小さすぎる気がする。サイズ的には子供だ。
こんな場合、どうしたら良いのだろうか? 声をかけるべきなのかも知れないが、変な事に関わるのはご免だ。俺は見なかったことにして、黙って通り過ぎようとした。しかし、そんな俺の選択は許されなかった。
「お兄さん、助けてよ」
うずくまる様に座っていた人間が俺に助けを求めている。声をかけられて、それを無視するほどの度胸を俺は持ち合わせていない。しかし、すぐに返答出来るほどの勇気も持ち合わせてはいなかった。
俺は少し離れた街灯からの淡い光を頼りに、座り込んでいる人間を観察した。どうも少年の様だ。薄汚れたTシャツに短パン、スニーカーを履いて額にNとYを重ねたロゴが入ったキャップをかぶっている。うずくまっている姿は、まるで捨て猫だ。俺は声にこたえる決断をした。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「お腹がすいて動けない」
「家はどこ?」
「家なんか無いよ」
「お父さんとお母さんは?」
「両方とも居ない」
ホームレスか? まだ子供なのに……。俺の中にも、慈悲の心は存在する様だ。とにかく、今日のところは家に泊めて、明日対処しようと思った。ネットで調べれば、どこに相談したら良いかくらいわかるだろう。
「俺のアパートはすぐそこだけれど、家で休んで行くか?」
「ありがとうございます」
少年は弱々しい声で言った。ホームレスの子供の様だが、ちゃんと礼儀は知っているみたいだ。
俺は玄関の照明を点けた。少年は服も身体も泥だらけだった。少年の身長は140センチ位だから、まだ小学生かもしれない。
「腹が減っているって言っていたけれど、その前にシャワーを浴びてこいよ。そのまま部屋に上がられたら、部屋中泥だらけに成っちまうからな。その間にちょっとコンビニまで言って、食い物調達して来るから待っていろ。俺のしか無いからサイズは合わないけれど、着替えを置いておくからちゃんと着替えるんだぞ」
「はい」
俺はそう言ってコンビニまで往復した。ついさっきまで飲み過ぎて吐きそうだったのに、今はすっかり酔いも醒めている。人間っていうヤツは不思議なものだ。
コンビニから戻って来ても、少年はまだシャワーを浴び続けていた。
「めし、買って来たぞ。早く出てこいよ」
俺はバスルームの扉に向かって、言った。
「はーい」
少年は元気そうな返事を返した。
「あー、気持ち良かった」
そう言いながら、俺が用意した短パンとTシャツを着てバスルームから出て来た少年を見て、俺の思考は停止した。停止した脳みそとは無関係に、言葉は口から飛び出て行った。
「えっ! おまえ、さっきのヤツか?」
俺は自分の目を疑った。バスルームから出て来た少年は、どう見ても少年には見えなかったからだ。
「やだなぁ、さっきのヤツに決まっているでしょう。お腹がすいて死にそうだよ。このお弁当、食べて良いの?」
「う、うん。食べて良いよ。お、お茶も買って来たから……」
俺の戸惑いをよそに、少年(?)は弁当を平らげた。
「そんなに見つめないでよね。恥ずかしいじゃない! Tシャツが大きいから肩が出ちゃうよ」
「あっ、うん」
俺は慌てて目をそらした。少年だと思っていたヤツは、どう見ても女の子だったのだ。その上カワイイ。俺はロリコンでは無い。たぶん……。ロリコンでなくても、こんなカワイイ女の子を目の前にすると、ときめいてしまう。
ショートカットに白い肌、大きな目に小さめな鼻、だぶだぶのTシャツと短パンから生えている華奢な腕と足。まるで美少女フィギアの様だ。
「おまえ、あっ、キミはだれ?」
俺はやっとの思いでそう聞いた。
「私はノア、野原の野に亜細亜の亜で野亜」
「えっと、ノア、だね。俺は三本川の川、原っぱの原、勉強の勉で、川原勉」
「ふふふ、漢字なんかどうでも良いけれどね。ツトム、よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
子供のくせになぜか上から目線の様な気がする。しかし、そんなところもカワイイ! などと考えている自分に驚いた。そう、俺は断じてロリコンではない! はずだ。
少しだけ落ち着きを取り戻した俺は、一応聞いておかなくてはならない事が有ることを思い出した。
「ノアちゃんはいくつなの? 学校は行っているの?」
「ノアは二十歳だよ。学校は、高校までしか行っていないよ」
「へー、ノアちゃんはハタチなんだぁ。って? はたちいぃぃぃぃぃ! はたちって、二十さいのはたち?」
「ほかのハタチが有ったら教えてほしいわ」
ノアはその日から俺の部屋に居付いてしまった。
二十歳の男と女が、同居しているのだから、いろいろと想像する人もいるだろう。しかし、俺とノアの関係は、そうはならなかった。
俺とノアの関係は、飼い主とペットの様だった。もちろん俺が飼い主でノアがペットだ。ペットと言っても、ノアはまるで猫の様に自由気ままに振舞っていた。
猫と飼い主の関係がどの様なものかと言うと、ペットであるはずの猫が主人で、飼い主はその従者になってしまうものだ。猫好きの人であれば理解できるだろうと思うが、犬好きの人にはなかなか理解してもらえないかもしれない。俺とノアも、その様な関係だった。
ノアと俺の関係性を知ってもらう為に、標準的な一日の行動を紹介しておこう。
朝、目を覚ました俺はノアのために朝食の用意をする。準備が整った頃に起き出してきたノアが、美味しそうに朝食を食べる。そんな姿を見て、俺は幸せな気持ちになる。
幸せな気持ちのままノアを見詰めていた俺が、視線を時計に移すと出勤の時間が迫っている。俺は高校を卒業した後、土木関係の会社に就職した。毎日道路を作っている会社だ。俺は慌てて出勤準備をして、玄関でノアに言う。
「ノア、行ってきます」
ノアはお気に入りのクッションに座ったまま、出勤する俺を見ている。見ているだけで、何も言わない。そんなノアに、俺は安らぎをおぼえる。
帰宅した俺は、玄関ドアを開けて靴を脱ぎながら言う。
「ノア、ただいま」
そして、部屋に入る。ノアは、お気に入りのクッションの上から俺を見ている。じっと見ているが何も言わない。ごく稀に、玄関まで出て来る。しかし、俺を確認すると、又お気に入りのクッションへと戻って行く。
俺はノアのために、夕食の準備をする。ノアは、相変わらずクッションの上でテレビを見ている。気が向くと、俺の足元に座り込んで、俺を見上げる。そんな時は、ノアの頭をなでる事が許される。
夕食の準備が出来ると、ノアは美味しそうにそれを食べる。俺は、そんなノアを眺めて、幸せを感じる。
部屋でくつろいでいるときに、気が向くとノアは俺にすり寄ってくる。俺の膝に頭を乗せて、俺の顔を見上げる。俺はノアの頭を優しくなでる。そんな時、俺はノアから至福の時間をもらう。
しかし、俺からノアに近付いて、ノアに手を伸ばそうとすると、ほとんどの場合、キッと睨まれる。俺はタジタジと後退するしかない。
夜が更けて来ると、ノアはお気に入りのクッションの上で、丸くなって眠る。けっして俺のベッドを使用することは無い。
俺はお気に入りのクッションで丸くなって寝ているノアをしばし眺める。その後、電気を消してベッドに入る。
これがほぼ毎日繰り返されるわけだ。
俺とノアの関係を、わかってもらえただろうか?
生活の全てが、ノアを中心に回っている。そして、ノアが望まない限り、頭をなでる事さえ許されないのだ。まして、同棲している二十歳の男女が行う様な行為が許されるはずが無い。それでも俺は、二十歳の女性と同棲しているよりも、大きな幸福をノアから授けられていると思う。
ただ、俺にとって気なっているのは、俺のいない昼間のノアがどこで何をしているのか? だった。
ここまで猫の様なノアを見ていると、猫の行動を知りたくなった。昼間のノアの行動を知るヒントになるのではないだろうか?
俺はパソコンで猫の生態を検索してみた。それによると猫は、毎日自分のテリトリーをパトロールする。テリトリーの数か所にエサ場を持っている事が多いらしい。飼い主から与えられる食事だけでなく、別の場所で別の人からエサをもらっているケースが多いというのだ。それは複数の人の場合もあるようだ。そのうえ、エサを与えている人達の中には、自分がその猫の飼い主であると思い込んで、名前まで付けている事が多々あるというではないか。そんな猫を『半ノラ猫』と呼ぶらしい。
ノアも別の場所で別の人から食事をもらっているのだろうか? 別の人間がノアの飼い主(従者)だと思っているのだろうか? そう言えば、ノアは昼ご飯をどうしているのだろう? 俺の中で、昼間のノアを見てみたいという欲求が膨らんだ。