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「あら、叶。早いじゃない」
会社帰りのサラリーマン。
誰が見てもそうだし、実際そう。
スーツにネクタイ。
これといって服装にこだわっている様子もなく、ごくごく普通だ。
ネクタイを少し緩め、上着を脱いでカウンターのスツールの背に放る。
とたんにみっしりとした筋肉質の体がシャツの上からでも感じられるようになった。
朝比奈叶はごくごく普通のサラリーマンだ。
長身の山崎よりさらに高い。
高いうえにかっちりとした体型をしている。
スポーツ選手で言うと、バスケットボール選手のような雰囲気の体型に近いかもしれない。
実際、中学、高校、大学とバスケ部だった。
ボールを掴んで振り回すことなど造作ない、大きな手と指。
絵描きが荒っぽいタッチでぐいぐいと書き進めたような男だ。
繊細さはかけらもない。
きつい目。眉間にはいつも皺が寄っていて、それが様になる。
中性的な山崎とはまったく違う、男くさい男だ。
顔つきがいかつい上に、長身で猫背でもない。
山崎曰く、3ない男と呼ばれている。
無粋・無愛想・無神経。おまけに不器用。
それなのに、営業職。
しかも取引先からはかなりの信用を得ている。
無愛想な分、お世辞も無ければ嘘も無いからだ。
「何飲む?」
言いながら、透子は冷凍庫から冷えたビールグラスをもう出している。
それを見ながら、眉間のしわを少しだけ深くして、
「ビール」
と言った。
まろやかで良く通る山崎の声とは正反対の、ハスキーヴォイス。
低くて、つっけんどんで、愛想のかけらも無い。
けれど、長年付き合っている山崎には、無愛想なだけで冷たい男ではないことは良く分かっている。
かつて山崎が叶と同じ会社で働いていた頃から、叶は変わらない。
店を始めると言ったときも、そうか、と言っただけだったが、オープンの日には仕事の忙しい時期だったにもかかわらず、来てくれたのだ。
冷たいどころか、誰よりもお人よしだ。
なんだかんだといって面倒見もいい。
「ありゃなんだ」
しあが、アップライトのピアノを前に微動だにせず、こちらに背中を向けている。
しあと言えば、腹をすかせているか、ふらふらと歩き回るか、ピアノを弾いてるかの3パターンの行動しかありえない。
「悩んでるみたいよ。めずらしく」
「今日、先生が変わって初めてのレッスンだったのよ。
今まで言われたことのない課題を与えられて、人生最大に悩んでるところじゃないかしら」
しあの保護者その1とその2が口々に、保護者その3にしあの様子を報告する。
ただし、保護者その3は、あまり保護者という役職に関してやる気が無い、ふりをしている。
「あいつが食いモン以外のことで悩んでるのか」
「そうそう。貴重な光景だわね」
透子が叶の目の前に、泡とビールの対比が完璧なグラスをなれた手つきで差し出した。
ちゃっかり、自分と山崎の分まで用意している。
「恋をしろって言われたんだってさ」
「は?」
思わず上唇についた泡を舐めるのも忘れて聞き返した。
白いひげが生えた叶を見て、山崎が密かに吹き出す。
「あたしに会うなり、あの子なんていったと思う?『透子ちゃん、恋がしたい』馬鹿よねー。馬鹿すぎて食べちゃいたいわ」
「続きも話してあげたら?叶も笑うわよ」
思い出し笑いをしながら、透子はいたずらっぽい目を輝かせて言った。
「意味分かってるのって聞いたらね、あの子ね、ぶふっ」
耐え切れず笑い出した山崎につられて、透子も吹き出してしまう。
一人とり残された気がしてきた叶は、思わず眉間に力が入る。
白い泡のひげはまだつけたままだ。
「叶さんとでもできる? だって。馬鹿よねー!」
なにを考えてるんだ、あの馬鹿は。