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――――――――――



「ほんっと馬鹿ね。しあちゃんて。そういうところもかわいいんだけど」


薄暗い空間。

こじんまりとした広さの店内には、カウンターが7つ、テーブル席が2つ。

木製の床、年代を感じる変色した壁には、ところどころにサインがかかれている。落ち着いた雰囲気のバーだ。


他の店と、少し違う点を挙げるとすれば、店の奥に、アップライトのピアノが置かれた、床より少し高くなったステージもどきがあることだ。



店の名前は『Vexationsヴェクサシオン)

フランス語で『癪の種』という意味だ。

エリック・サティのピアノ曲のタイトルからつけたらしい。

店内で耳をすませば、いつもはサティの曲がうすく流れている。


今は違う。

しあが弾いていた。

ブラームスの小品。

『6つの小品』の中の2曲目、『間奏曲』。

静かな思いを秘めたような、少し悲しくて優しい、胸が切なくなるような曲だ。


けれど、透子は知っている。

今のしあには、これ以上を望めないこと。



「その、何たら教授ってさ、どういう人なのさ」


白いシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のパンツにタブリエ。いわゆるギャルソンの恰好をした透子が、隣に並んだ、同じ恰好の男に聞いた。


「そうね、あの大学で一番有名な変り者の先生ね。

でも、俺が唯一尊敬したピアノの先生よ」



名前を、山崎一郎という。

口調は女だが、見た目も中身も、れっきとした男である。

短く切った、カフェオレ色の髪、フランスの血が半分だか4分の一だか入っているらしく、彫りの深い顔立ちだ。

180を越えるすらりとした長身で、町を歩いているとよくモデルと間違われる。


実際、短い間だがモデルの仕事をしていたこともある。

しあが通う音楽大学で声楽を学んでいたこともある。

ごくまっとうなサラリーマンだったこともある。

紆余曲折を経て、現在『ヴェクサシオン』の店長である。


「うまい飯とうまい酒、そしていい男」をモットーに、5年前、脱サラして店を開いた。

広告も宣伝もしていないが、常連がつき、週末となると満席になることもしばしばだ。

バーのくせに料理は本格的、酒も上等なものが置いてある。

おまけに山崎は男前。

バイトの透子も口は悪いが相当な美人である。

食事よりもこの2人が目当て、というお客も少なからずいた。



「初めてのレッスンで、ブラームスを弾いてくるように言ったあたりからして、樋口先生らしいわ」

「ふーん」

「きっと、いい方向に向かうと思うわ、しあちゃん」

「そう。ならいいわ」



開店時間ではないので、店内にいるのは3人だけだ。

しあのピアノが、止まった。

何も考えずにピアノを弾く子が、樋口教授の言葉を、思い返しているらしい。


1年生の時についた橋本教授は、とにかくしあの高い演奏技術をひけらかし、さらに伸ばすことを重視する教師だった。

とにかく、難解な曲を毎回毎回山のように課題に出す。

一通り弾けるようになればまた新しい曲、といった具合に、ひたすら数をこなさせた。

レッスン時間は1分1秒でも惜しく、しあが少しでも遅れてきた日には火のように怒られた。



カラン、と店のドアが開いた。

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