鬼さんだあれ?
「『鬼の噂』って都市伝説知ってる?」
俺は軽く首を傾げた。
「聞いたこと無いけど」
「そう」
俺の目の前で、萌奈花はニッコリと笑う。ツインテールに束ねた茶髪がさらっと揺れた。
「じゃあ、教えてあげるね」
周囲には一つの机を隔てて対座している俺と萌奈花以外、誰もいない。もう今日の授業は全て終わり、現在は放課後だ。ちなみに、なぜ俺達がまだ学校に残っているかというと、部活中のとある友人を待っているからである。
「昔々あるところに、人間ととても良く似た『鬼』と呼ばれたものがいてね」
「おう」
「その『鬼』は普段は人間とほとんど一緒なのに、感情が高まった時に頭にツノが現れるせいで、人間に気味悪がられていたみたいなの。しかも、何かあるとすぐに暴力的になって……戦闘欲が強かったみたい」
「まあ、歴史で習ったからそれぐらいは分かるよ」
約千年前までは、この世界には鬼がいた。萌奈花が言った通り、暴力的だったために避けられ、駆逐されたりしていた。歴史の先生曰く、謎な部分が多く危険な生物だとされていたらしい。
萌奈花は話を続ける。
「でね。最近、鬼を見たって人が続出しているらしいよ」
「まさか」
鬼は既に絶滅している。目撃した人なんているわけがない。デマ情報に決まっている。
「ほんとにほんとなんだってばー!」
「……じゃあ、どうしてニュースとかで報道されない?」
「そ、それは……」
俺の言葉に、萌奈花は口を閉ざしてしまった。
少しの間、沈黙が続いた後に萌奈花は、はっと思い出したかのように、
「って、これ都市伝説の話だってば。本当かどうか分かるわけないでしょ」
「都市伝説だとしてもその都市伝説自体聞いたことないからなあ」
萌奈花はこの学校では名が通っているオカルトマニアだ。だから、マイナーな都市伝説なども網羅している。これはその一つなのだろう。
だが、俺はそんな萌奈花に少し意地悪をしてやろうと思った。だから、わざわざさっきの発言をしたのだ。
萌奈花は頬をぷくーっとさせ、こっちを涙目でにらんでいる。どうやら少しやりすぎたようだ。
「ほ、本当だもん……」
さすがに泣かすわけにはいかないので、俺は慌ててフォローを入れる。
「分かった分かった、鬼がいるんだろ。信じてやるよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「……ありがと」
もちろん信じてはいない。話を合わせただけだ。
萌奈花は、おもむろにケータイを取り出した。ピンクのカバーを取り付けたスマートフォンだ。
「それでね、こんなメールが届いてきたの。見覚えある?」
そう言いながら、萌奈花は俺にケータイを見せてくる。俺はケータイの画面を覗き込んだ。
鬼ノ存在ヲ絶対ニ散策シテハイケナイ
それは新聞の記事から文字を切り出して、一枚一枚貼り付けたかのような感じだった。
なぜか俺の背筋が一瞬凍った。
「これは……いつ送られてきたんだ?」
「一昨日の夜よ。寝る前に知らない人からメールが来たから見たら、これだった。どうせチェーンメールなんだろうけど」
「知らない人から来たのか」
萌奈花が答える前に、突然ドアがガラッと開いた。
「少し遅れた、ごめん」
ドアへと振り向くと、そこには俺たちの待っていた奴がいた。
赤いジャージ姿で入ってきたそいつは若干息を荒げて頬を赤らめながら、こちらへ歩み寄ってきた。部活がハードだったのだろう。セミロングのふわふわした髪をなびかせながら、人形のような透き通った目は俺達を捉えていた。
「夜美ちゃんやっときた!」
「遅いぞ夜美」
腕時計を見ると五時三分。既に部活の終わる時間を過ぎている。
夜美は俺達の近くの椅子にちょこんと座る。
「だからごめん。部活が終わるの、ちょっと遅れた」
謝る声はたどたどしいが、昔から夜美はこんな口調なので俺と萌奈花はもう慣れている。だから気にしていない。
こほん。
小さな咳払いをして、萌奈花が突然立ち上がる。瞳には先ほどの大粒の涙は無く、代わりにキラキラとした星模様が映し出されていた。
「それじゃあ夜美ちゃん。新しく仕入れてきた都市伝説のお話聞かせて!」
「分かった」
萌奈花の言葉に夜美が頷く。
俺と萌奈花は、この話を聞くために残っていたのだ。
俺達三人は『オカルト研究部』という非公式サークルに所属している。今日は、夜美が新たに都市伝説を仕入れてきたというので、この時間までわざわざ待っていたのだ。俺はこのサークルの会合が非常に面倒だったので、そのまま帰ろうとしたが、帰り際に萌奈花に捕まって残る羽目になってしまった。
息を整えた夜美は、早速話し始める。
「『鬼の噂』って都市伝説なんだけど」
「……」
「……」
見事に萌奈花とネタがかぶってしまったようだ。夜美はだまった俺達を見て、戸惑ったような表情を浮かべる。
「見事にネタがかぶったな」
「だね」
「え? え? 何?」
「夜美ちゃん、衝撃的なことをいうよ」
萌奈花は、真顔で夜美の手を握りしめる。
「う、うん」
「実は夜美ちゃんが今から話すことは、さっき私がまもるに話したことと同じだと思うんだよ」
「ふぇ!?」
夜美は小さく悲鳴を上げた。
「あ、あ、でも、もしかしたら、都市伝説の名前が同じだけで、中身が全く違うかもしれないから一応簡単に話してみて!」
「うん……」
萌奈花がすさまじい速さでフォローを入れた。そういえば、萌奈花はフォローをするのが昔から上手かったっけな。
「昔、この世界に、鬼がいたのは、歴史で習ったよね?」
「そうだな」
「その鬼がね、いなくなったはずなのに、最近、鬼を見たって話が、いっぱい、あるんだって。――このあたりでも」
「やっぱり、同じみたい……ってこのあたりで?」
萌奈花が不思議そうに首を傾げる。
「このあたりってどういうこと?」
「それは萌奈花の話に無かったな」
夜美は驚いた俺達の反応に、少し安心したようなそうでもないような複雑な表情をしている。
「じゃあ、話すね。この前から、ずっと休んでいる、豊田君なんだけどね」
言いながら、夜美は窓側の席の一つに目を向ける。俺と萌奈花もつられて視線をその机に移した。
「その豊田君が、休んでる、理由っていうのがね、鬼と、何か関係しているかもしれないんだって」
一瞬の静寂。
「じょ、冗談だよね?」
萌奈花は顔を真っ青にしている。相変わらず分かりやすいやつだ。
俺には夜美の真剣な眼差しが、冗談を言っているようには見えなかった。勿論、信じるか信じないかは別の話として。
豊田秀吉。そいつは一週間ぐらい前からずっと休んでいる。もともと、影の薄いやつで俺が豊田が休んでいることに気が付いたのは二日前のことだ。担任も特に豊田が休んだことはホームルームで言ってなかったし、気づかないのも仕方がないだろうとその時は自ら納得していた。
「本当みたいだと、思う。この前廊下で、先生が誰かと話をしているのを、聞いてたら、豊田君の名前が出てきたり、鬼って単語が出てきてた」
「聞き間違えじゃないのか?」
俺の質問に夜美はふるふると首を振った。
「聞き間違えじゃ、ないと思う。何度もその単語を先生とその誰かが、言ってたし。しかも、私がその廊下を、何気ないふりをして歩いてたら、先生とその誰かが、いきなり黙り込んで、私のほうをチラって見てきたし」
俺は心の中を靄でおおわれるような奇妙な感覚にとらわれていた。
なんだこの感覚。何かが心の中で見えそうで見えない。手遅れになる前に、見なければいけない――そんな気がした。
ここで、黙り込んでいた萌奈花が、
「じゃあ、豊田君のお家に行ってみようよ。本人に聞いてみたほうがはっきりするでしょ」
「うん」
萌奈花の提案に夜美が賛成した。
俺にも飛び火が来そうなので、俺はゆっくりと気配を消して立ち上がる。さっきのことをじっくり考えるよりも、今はこの場から離れることが最優先だ。
「ちょっと待ってよ、まもる」
しかし、萌奈花が帰ろうとした俺を止める。ここで屈するわけにはいかない。
「今日は早めに帰らないといけない用事が」
「無いでしょ。まもるもいっしょに来てよ」
「……」
萌奈花は、俺より二手も三手も上手だった。
「まもる、お願い」
さらに夜美の追い討ち攻撃で、完全に逃げ場を失ってしまった。
俺はため息をついて、
「分かったよ」
と頷いた。家に帰っても、課題を消化する他にすることないし、別にこいつらに付き合うのもかなわないだろう……。
@@@@@
豊田の住所をお見舞いへ行くと称して聞き出しに行くべく、俺達三人は職員室へと向かった。
担任の容姿はキン肉マンそのもので、頭が禿げている。だから普段は簡単に見つけられるのだが、今日は違った。
「いないねー」
俺の背後から、萌奈花が落胆の声を上げている。
「担任もいないようだし、今日は諦めたほうがいいんじゃないか」
今日は六月七日だ。定期試験がもうすぐあるので、それの準備で教師は皆忙しいのだろう。
「まだ、諦めない」
夜美は続ける。
「担任の席を漁れば、住所の載った用紙が、出てくるかもしれない」
「……」
冷たい視線を夜美に送る。しかし、俺とは対照的に萌奈花は目を輝かせた。
「いいね、それ採用!」
「お前ら……、どれだけ都市伝説を検証したいんだよ。別に今日じゃなくてもいいだろ。試験前なわけだし」
そうは言ったものの都市伝説検証をしたがるこいつらの暴走を俺は生まれて一七年間止めた試しがないので、ほとんど諦めている。無理だ。
ちなみに俺と萌奈花と夜美は幼稚園の頃からの幼馴染である。こいつらは小さい頃から探究心、好奇心が人三倍ぐらいあり、不思議なことがあるとすぐに調べたがる。それは一度始まるともう止められない。それだけなら、お前ら二人で勝手にやってろで万事解決なのだが、なぜかいつも俺を巻き込んでくるのだ。今まで、巻き込まれた回数は数知れず、だ。迷惑極まりない。
だがまあ、こいつらだけで行動させるといつの間にか危なっかしいことをしていたりすることもあるので、俺はいつも付いている。今回は特に危ないことに首を突っ込みそうな、そんな気がする。
「ささ、漁ろう!」
萌奈花は俺を通過して、担任の席へ移動し、何の躊躇いもなく漁りだした。それに加担するかのように、夜美も移動して漁りだす。……俺は傍観者でいることにした。
がさがさ、ごそごそ。
周囲の教師陣が、萌奈花と夜美の行動に注目し、何を探しているんだいなどと話しかける教師もいた。その時、萌奈花は決まって『担任に頼まれて豊田君に届けるものを探しているんです』、と答えた。それを聞いた教師は、納得したのかさっさと自分の仕事に戻っていった。
しばらくして、夜美が一枚の資料を手に取って、萌奈花の肩をつんつんした。
「あったよ、萌奈花ちゃん」
「おおー! ありがと夜美ちゃん!」
萌奈花はぎゅむーっと夜美に抱きついて、喜びの旨を伝える。夜美はひゃっと小さな悲鳴を上げそうになりながら、頬をほんのりと赤く染めた。
俺は傍観者でいることをやめ、担任の席へと移動した。
「あったのか」
「うん! これ」
萌奈花から資料を渡される。それに目を通すと、確かに、豊田の住所が書かれていた。
「じゃあ、いこ」
夜美は職員室のドアに向かい出す。俺と萌奈花もそれに続いた。
そして、職員室のドアを開けようとした時、ガラっと音を上げて、ドアが開いた。そこから、担任が姿を現す。
「あ、やばいかも」
萌奈花は豊田の住所が書かれた資料を隠し、逃げる態勢に入った。
担任は俺達をひと目見て、それから職員室の中に入っていく。
ギィン
「……ッ」
突如、軽い頭痛が俺を襲った。思わず声が出そうになったが、何とかこらえる。
俺は振り返って担任の姿を探した。担任はせっせとパソコンを弄っていた。
「ふぅ……何とかバレずに済んだね」
萌奈花が安堵の息を吐いた。
それと同時に、俺の頭痛も収まる。
夜美は振り返った。
「はやく、行こう?」
「うん」
「そうだな」
さっきの頭痛は何だったのだろうか。風邪でも引いたか。
俺は思考を巡らせたが、軽い頭痛のためにこんなに必死になって原因を探るのもばかばかしくなって考えることをやめる。
俺達は職員室を後にした。
@@@@@
俺は腕時計で時間を確認する。
五時四三分。
六月なので、まだ空は明るい。
とりあえず、俺達は、豊田の家の前にいた。家が学校からそんなに離れていなかったので、すぐに到着したのだ。
豊田の家の周囲は普通の住宅街である。そして、その住宅街の中に豊田家はそびえ立っていた。
「意外と普通の家ね」
萌奈花は、そう言いつつ、豊田家のインターホンを一度だけ押した。さすがは、萌奈花だ。行動がチーター並みに早い。
……。
…………。
……………………。
「いないの?」
反応は無かった。外出中なのかもしれない。
萌奈花はインターホンを連続で押し続けた。
ピーンポーンピンポーンピンポンピンポンピンポンピンポンッ
「押しすぎだ」
俺は萌奈花の腕を掴む。外出中なのかもしれないのに、連打したところで意味は無いだろう。
萌奈花は不快そうな表情で俺を睨みつけた。
「何するの! 手を離してよ!」
「断る。今日はもう帰ろう。外出中なのかもしれないだろ」
「それは、違うと思う」
夜美は豊田家の駐車場を指さした。そこには真っ赤な車が停まっていた。
車があるのだから、豊田家の人は家の中にいると判断しているのだろう。
しかし、俺はそれに反論した。
「例えば散歩に行ってるって可能性だってある」
それに萌奈花が対抗する。
「散歩? そんなわけないでしょ」
萌奈花は続ける。
「普通、散歩は朝、早く起きてするものなの! 今散歩する意味がわかんない」
いやその理屈は確実におかしいだろ。夕方に散歩をするやつだっている。現に俺だって夕方に散歩をする時だってある。
「都市伝説検証は今じゃなくてもいいだろ? 後日また日を改めて、ここに来ればいいし」
「私は今知りたいの! 夜美ちゃんもそうだよね!」
突然話を振られた夜美は少し戸惑いはしたものの、大きく頷いた。
俺はそんなのお構いなしに、萌奈花の腕を掴み続けた。
「~~~!」
俺が腕を離す気がないと悟った萌奈花は、なんとしてでもインターホンに手を伸ばすべく、渾身の力で前進しようとしている。だが、俺との力の差がありすぎて、まったく近づけないでいた。あまりにも萌奈花がジタバタするので、俺の顔に萌奈花の髪が当たったりしたが、そんなのお構いなしだ。
と、そこへ夜美が俺と萌奈花を通過して、豊田家のドアをノックしだした。
「おい、夜美」
「夜美ちゃん頑張って!」
なんの応援だ。
「頑張る」
頑張るな。
夜美は、俺の心の悲痛の叫びを軽くスルーし、ドアノブに手をかけた。俺は萌奈花の行動を阻止するだけで手一杯であり、何もできないでいた。
それから、夜美はドアノブを軽くひねりドアを開けてしまった。
というよりも、ドアに鍵がかかっていなかった。
俺は思わず、手の力を緩めてしまい、その隙に萌奈花は俺から脱出した。
外出中なのに、家の鍵を掛けていないのは、かなりの不用心だ。いや、家にいても家の鍵を掛けていないのは不用心ではあるのだが。
「さ、入ろうよ! 夜美ちゃん!」
「うん」
「おい待て! 勝手に人の家に上がるな!」
しかし、萌奈花と夜美は俺の注意を無視して家の中に入っていった。
俺は慌てて二人を追う。
家の中に入るとまず長い一本廊下と階段、一番奥に木製の扉が見えた。壁一面、真っ白で、百合の花が植えられている黒い植木鉢が玄関のわきに置かれている。
萌奈花と夜美は玄関で立ち止まっていた。
「だれかいませんかー!」
萌奈花が叫んでいるにもかかわらず、シーンと静まり返ったままである。これじゃ、人がいる可能性は皆無と断定してもいいだろう。
俺は再び萌奈花の腕を掴む。
「誰も居ないことを確認したわけだし、ここにいる必要は無いだろ。帰ろう」
「中を確認しなきゃまだわからないでしょ」
夜美は、靴を脱いでから、中にすたすたと入っていく。
……萌奈花と夜美はいつも以上に異常であった。
二人のテンションがおかしい気がする。それは、俺の気のせいか? それとも気のせいではなく。
いや、気のせいだということにしておこう。いつもこんな感じだ。
そうに違いない。
夜美はおそらくリビングへつながるであろうドアに手をかけた。俺は先ほどとは違って、しっかりと萌奈花の腕を掴んで離さずにいる。
夜美はドアを開ける。ギィィと音を立ててドアを開ける。
そして中に吸い込まれるように入って、
「…………ひっ」
後ずさった。
俺と萌奈花は夜美の変化を見逃さない。
「夜美ちゃんどうしたの?」
「何があった」
「…………」
夜美は無言のままだ。
一歩、また一歩と、ゆっくり後退していった。
「夜美ちゃん……?」
夜美は小刻みに震えていた。表情は俺からは見えない。
そして、ドサリと音を立てて夜美は倒れた。
「夜美ちゃん!!」
「夜美ッ!」
俺と萌奈花は倒れた夜美へ駆けつける。
夜美は何かを見た。あのドアの向こう側の何かを見たんだ。
じゃあ何を見た?
何を見たんだ?
夜美は何を見た?
「夜美ちゃん! しっかりして!」
夜美は反応しない。目を開けない。
「萌奈花、ちょっとどいてくれ」
俺は萌奈花をどかして、夜美の口に耳を近づける。
呼吸音は聞こえた。まるで安らかに寝ているかのような、そんな感じだ。
俺の隣では、心配そうに萌奈花が夜美の顔を覗いていた。
ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンッッ
頭に金属音が鳴り響くとともに激痛が走った。雷が俺の頭を貫通するような激痛が走った。頭を片手で抑える。
「ア……今すぐ……ッゥ」
俺は今すぐにでも萌奈花に夜美を背負ってここから逃げろと言いたい。
だが、それを伝えようとすると口が言うことを聞いてくれなかった。
なんだよ、コレ。
「まもる? どうしたの……?」
萌奈花が今度は俺の顔を覗き込む。
萌奈花に変な心配をさせるわけにはいかないので、なるべく平然を装った。
「大丈夫だ」
そして、大きく深呼吸をしてから、
「夜美は気絶しているだけだ。萌奈花、お前は夜美と玄関で待ってろ。俺はここを探索する――」
――万が一のことがあったら、俺にかまわず、夜美を背負って玄関から逃げてくれ。
そう続けようとしたが、やはり発言する前に強烈な頭痛に見舞われ、阻害されてしまう。
どうやら萌奈花と夜美を外に逃がす関連のことは発言できないらしい。意味が分からなかった。
「で、でもそしたらまもるが……!」
萌奈花は今にも大粒の涙を瞳から落としてしまいそうだった。
「俺のことはどうでもいい」
「でも!」
俺は萌奈花の両肩に手を乗せる。
「いいか萌奈花、冷静に聞け。夜美は何か衝撃的なものを見て気絶した。夜美は怪我ひとつしていない。つまり、このドアの向こう側にあるものは俺達に危害はないはずだ」
危害がないはずだ。この言葉は、俺自身にも言い聞かせるつもりで言った。危害がある可能性だってもちろんある。だが、そんなことで萌奈花に余計な心配をさせてしまったところで何のメリットもない。
俺は夜美が気絶させるものが何か見ておきたかった。好奇心のようなものだった。
……俺も十分、異常だな。オカルト研究部にふさわしい人間だ。
萌奈花は無言で夜美を運びながら、玄関まで移動した。
俺はそれを見届けると、いよいよドアノブに手をかける。そんな俺の手には手汗がびっしりと。
息を大きく吸い込む。
目を閉じる。
そして、ドアノブにかけている手に力を入れる。
中に入り込んで、目を開けた。
四角いテーブル、薄型テレビ、ソファー、そして赤。
赤。赤赤赤。赤赤赤赤々々。
床一面が真紅一色だった。真紅色の床には人型のモノが横たわっていた。
さらに、壁には大きな血文字で、
ニゲラレナイ
と描かれていた。
この光景が何なのか、理解するのにそんなに時間はいらなかった。
「人が死んでる……のか」
深紅色の床に横たわっているモノは、女性のようだった。
豊田秀吉の母であるような気がしてならなかった。
脳裏にある単語が過ぎる。
鬼。
これは、鬼の仕業なのか? 実は鬼は現代にも存在していて、こんな風に残虐な行為を人目につかないようにやっているのか?
「……」
俺は焦っていた。
思わず、萌奈花の姿を確認せずに、二階へドタドタと駆け上がる。
この家の他の住人はどこへ? いや、豊田秀吉はどこに行った?
何か、階段の下から声が聞こえる。その声もはっきり聞き取れなかった。ただの雑音のようにしか聞こえなかった。むしろ、雑音だった。
俺は二階へ駆け上がると、すぐに各部屋をチェックする。部屋は全部で三つあった。
一つ目。ガチャリ。
薄暗いが、奥までかろうじて見えた。物置部屋のようで奥にふすまがあり、それ以外は段ボールが積まれているだけだ。誰もいない。
二つ目。ガチャリ。
大きなベッドと、小さめの薄型テレビがあった。誰かの部屋なのだろう。誰もいない。
三つ目。
俺はドアノブに手をかける。そして、ゆっくりとユックリとドアノブを回し、少しだけドアを開ける。
中には誰かがいた。
鬼なのか?
そう思ったが、その誰かはこちら側を向いたまま宙に浮いていて、微動だにしていなかった。それは俺の想像していた鬼ではなく、人間のようで。
首を吊っていた。
そいつは。
そいつは、豊田秀吉だった。血まみれの豊田秀吉だった。
目は見開いたまま、下を眺めており、手はだらんとしている。
床にはいろいろ散乱していたが、散乱しているものの中で赤い金属バットが転げ落ちていた。
「う……ア……ッ」
今更ながら、俺の手がぶるぶる震えていることに気が付いた。
この家の住人はいない。死んでいるのだから、いない。……そうだ。警察に通報しよう。通報しよう。通報しよう。
それしか考えられなかった。
「……るッ!」
「ウワッッ」
だから、俺の背後から何かが聞こえたときは、金縛りにでもあったかのように動けないでいた。
鬼だ。鬼だ鬼だ鬼だ鬼だ。終わった。俺もあんな風にされちゃうのか。そんなのイヤダイヤダイヤダ。
「まもるッ!!」
俺はハッとなる。そして背後へ振り返る。
夜美を背負った萌奈花だった。
萌奈花は、息を荒げていた。階段を急いで登ってきたようだ。
そうだ、萌奈花も夜美もいるんだ。俺一人じゃない。
ほんの少しだけ安心する。
「誰か来たみたいなの」
そう萌奈花が言うのとほぼ同時に、一階からドアの開閉の音が聞こえてきた。
――萌奈花と夜美を守らなければいけない。
小さい頃から、こいつらが危険なことをする度に、俺はこいつらを守ってきた。今だってそうする時だ。
俺は、すぐに行動に出た。夜美を背負った萌奈花を一つ目の部屋に招いた。先に萌奈花と夜美を中に入れ、最後に俺が部屋の中に入る。
そしてさらに、部屋の奥にある物置のようなところに二人を入れた。俺は入らない。誰が来たのか確認するためにさっき閉めたドアを静かに開け、階段に向かった。そして、ゆっくりと階段の下を見る。
そこには、マスクをした担任の姿があった。
俺は息が詰まった。
絶望的に詰まった。
なんでなんでなんで?
姿だけを確認すると、すぐに一つ目の部屋に戻り、押し入れの中に入る。
それから、何分が過ぎただろうか。
野獣のような悲鳴が聞こえて、すぐに静かになり、大きなドアの開閉の音が聞こえた。
そして、それ以降は何も聞こえてこなかった。
「よし」
部屋の外から物音ひとつ聞こえてこない。だから誰もいないはずだ。
「もう出ていいぞ、萌奈花」
俺は部屋のドアを開け、外へ出る。
「うん」
夜美を背負った萌奈花も続いた。
萌奈花はすっかり青ざめていた。
「ごめんなさい……」
萌奈花の声は震えていた。瞳には光がほとんど無く、いつもの元気は全くない。
俺は萌奈花の頭に手を乗せて、やさしく、優しく撫でる。
「俺が何としてでもここに来るまでに止めておくべきだった。萌奈花が全部悪いわけじゃないから、そこまで自分を追い詰めるな」
これで萌奈花も今回の件で十分反省しただろう。都市伝説を追求しすぎてはいけない。なぜなら、中には相当危険なものも混ざっているからである。ちょっと考えてみれば分かることだが、昔から都市伝説を追及しているせいで、俺達の感覚は麻痺していた。
俺達は追及しすぎたんだ。
「よしそれじゃあ――」
――帰ろうか。
そう言おうとした。
ギィィィッィィィィィィィィィッィイィィィィィィィィィィィィィィィッィィィィイィッィィイッィィィンッッ
脳内に雷鳴が鳴り響く。意味不明な激痛に襲われる。
「ウゥァッ……ァッ」
視界がグラグラと揺れた。萌奈花を見ようとしてもぼやけてしまう。
コーヒーカップに乗った後のような激しい眩暈。吐き気。
「――る! どうし――の! ねえ、ま――!」
帰ろう。
言えなかった。
体が重たい。頭が重たい。
重心が定まらない。
俺はおそらく転倒した。
「アァグッ」
全身から汗が噴き出す。
唐突な体調の変化により、心の中は空っぽになった。
何もない。ナニモナイ。
その空白に新たな文字が刻まれていく。
コロセ。コロセ。コロセ。
俺は必死に抗おうとする。この感情を抑え込もうとする。
しかしそれは不可能なもので、どうしようもないものだった。
それから。それから、急激に情報が脳に流れ込む。いや、流れ込んで来るんじゃない。思い出してくる。
鬼。
俺は自分自身が鬼であることを思い出した。思い出してしまった。思い出されてしまった。
「まもる……頭に角が」
それからは俺の意識とは無関係に体が勝手に動き出す。殺戮の準備に向けて動き出す。
「待って、どこ行くの!」
俺の体は萌奈花の声を無視して、三つ目の部屋へと移動した。
薄暗い中、さっきあったはずの首つり死体は消えていた。
そのことを疑問に思う前に、俺の手は転がっていた血まみれのバットをつかみ取る。
おい、俺は何をどうする気なんだ。
三つ目の部屋を出る。目の前には萌奈花と気を失っている夜美の姿があった。
まさか。
俺は、バットを振り上げる。
やめろ。
「い、いや……まもるが、鬼だったなんて……」
萌奈花の表情は歪んだ。この表情を俺がさせているんだ。
そして、バットは振りかざされる。
はずだった。
「そこまでだ」
俺の手はバットを振りかざせないでいた。バットを誰かに強くつかまれているからだ。
「アァッヴェエアアッッ」
俺の声帯は苦しそうに震える。
視線が勝手に萌奈花からバットをつかんでいる誰かに向けられた。
「まもる君。意識を取り戻しなさい」
筋肉質な体格。禿げあがった頭。そこには、一本の角が生えていた。
そいつは、担任だった。
担任は萌奈花のほうを向く。
「まもる君は今、深刻な精神病にかかっている。だから、今日のことはなにもかもすべて忘れて、そして夜美さんを背負って今すぐここから立ち去りなさい。それと、どうかまもる君を嫌いにならないように」
萌奈花の瞳に光が戻ってきた。
「あ、あ、当たり前です。私と、私と夜美ちゃんはどんなことがあってもまもるを嫌いになんてなりません。まもるがこんなことをしないのは知ってます。……私は先生の言ったことを信じます」
萌奈花は俺のことをちらっと見てから、
「まもる、またね」
階段を下りていった。
「ヴァアァァァァアアァッァァァアァァッッ!」
俺は吠えていた。
それから、バットから手を放して階段を目指そうとする。だが、それをも阻止された。
いつの間にか両腕を二人にホールドされていた。
「行かせないよ。母さんももっと強く押さえつけて」
「わかった」
そいつらは頭に角を生やした豊田秀吉と一階で倒れていた女性だった。
死んだはずじゃ。なんで生きている。
「ガァアアッッ」
叫ぶ俺の口の中にしょっぱいものが入り込んだ。
それは涙だった。
俺は、泣いていた。その涙はいったい何の涙なのか。
ドウシテコロサナイノ? アノヒトタチハ、オニノショウタイヲシッテシマッタンダヨ? ニンゲンニオニノショウタイヲシラレタラ、マタニンゲンニヒドイアツカイヲウケルンダヨ? ネエドウシテコロサナイノ?
俺の本能がそう言っていた。俺はこの涙が何の涙であるかを理解した。
それ故に、俺は本能に言い放つ。
そんな人間はもういない。
生まれてから一七年間、いろんな人を見てきた。だから、はっきりと言うことができる。そんな残虐な人間はもういないんだ。
ホントウナノ? ソレハホントウナノ?
本当だ信じてくれ。
ワカッタヨ、ソレジャアキミノイウコトヲシンジル。マアキミハボクナンダケドネ。
そして俺の中から、力と同時に何かが抜けていく感覚があった。
「おっと」
「あらあら」
「やっと収まったようだな」
俺のことを押さえている三人は、笑顔で俺のことを見ている。
「……これはどういうことなんですか」
その質問をしたところで、プツリと意識は切断された。
@@@@@
後に聞いた話によると、俺はどうやら鬼と人間の二つの血を受け継いでいるらしい。それは、俺の千年前の先祖が鬼と関係を持ったからであり、千年経った今もなお、血は流れ続けているのだ。
鬼は、以前人間にひどい扱いをされていた。危険生物として監禁させられたり、駆除させられたり。だから、鬼は自身の本能に人間に正体を知られたら殺せと書き込むことによって自分達を守ろうとしたのだ。
鬼の血が薄まった現在でもそれは健在であり、人間に正体が知られそうになると本能的殺人欲望が生成されてしまう。それは鬼の血を引き継いでいるモノならば、絶対に避けることのできないことである。だから、あの時、担任と豊田二人は俺を止めてくれた。
だがそれだと、どうしてわざわざあんな事件を演出したのか、そしてそもそもどうして俺が鬼としての自我に目覚める時が近いことをあの三人は分かっていたのか、の二点が不明だ。
だから電話で担任に聞いてみたところ、
「それは、鬼の自我は極限状態に追い込まれたときに目覚めやすいからだ。なぜ目覚める必要があったかというと、後になって私達のような鬼がいないところで目覚めてしまっては、君が人を殺めることになり、さらには鬼の存在が公にさらされてしまう可能性がある。それと、どうして君が鬼としての自我に目覚めることを知っていたかというのは、いや、知っていたという表現はおかしいな。正しくは自我に目覚めさせる時を私が設定した、だ」
夜美に鬼についての会話を聞かせたのと萌奈花にチェーンメールを送ったのがそれらしい。そのことによって、夜美と萌奈花に『鬼の噂』という都市伝説に興味を持たせ、俺を豊田家へと誘導し事を起こした。
ちなみにこの都市伝説は本物だ。今回の俺みたいな状況に陥った鬼が一般人に見られたことから、この都市伝説は生まれた。世界には鬼がたくさんいるのだ。
「よし」
俺は目の前にある白いドアに書かれている番号を確認する。
そして、それが間違っていないと判断すると、ドアをコンコンと二回ノックした。
「まもる、来たのね!」
その声が萌奈花のものであると確認して、俺はドアを開けた。
「まもる、もう私は大丈夫」
ドアを開けた先には、ベッドに座りつつも俺のほうを向いてやさしく微笑んでいる夜美と、ベッドの横の椅子に座って嬉しそうにしている萌奈花がいた。
了