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衆愚のベンチ

作者: 亀丸物産
掲載日:2026/09/12

SNSに取り憑かれたプロ野球監督が、

ネットのおもちゃになる物語。


※この作品はフィクションです。

実在する人物、企業名等関係ございません。

 プロ野球チーム「ブラックタートルズ」の監督・奥名京治(おくなきょうじ)は、夜の静まり返ったホテルの自室で、スマートフォンの画面の青白い光に顔を照らされていた。


 画面には、匿名アカウント『球界の御意見番・改』の通知画面が広がっている。

フォロワー数は、気づけば七万人を超えていた。


 元々は、日々の重圧を発散するためだけの毒吐きアカウントだった。

辛口な解説者真似から始まり、歯に衣着せぬ物言いで凡庸な選手やフロントを皮肉るスタイルが、いつしかネットの物好きたちの心を掴んだ。


 ある日、軽い気まぐれだった。チームが泥沼の連敗に沈んでいた夜、「明日のスタメン、どっちにしてほしいか。」とアンケート機能を使い、従来のベテランをいれたスタメンと若手中心のスタメンのどちらを起用すべきか投票を募ったのだ。


 翌日、その結果通りにスタメンを組むと、チームは嘘のように快勝した。


『奥名監督は現場の老害とは違う! ファンの声を聞いてくれる!』

『やっぱり今の若手を使うべきだったんだ!』


 ネットの絶賛の嵐は、日々のストレスですり減っていた奥名の心を心地よく麻痺させた。そこから歯車が狂い始めた。


 調子に乗った奥名は、次第に一軍昇格や二軍降格の判断までアンケートに委ねるようになった。結果としてチームは勝ち続け、ファンからの人気は徐々に上がっていった。


 だが、奥名は狡猾だった。すべてをネットの言いなりにしていたわけではない。

例えば、肉離れや肘の痛みを隠している選手を、ただファンの声だけで無理やり一軍に上げるような真似はしなかった。


 選手たちには、「お前の実力をファンがこんなにも待ち望んでいるんだ。しっかり治して、万全の状態でファンを喜ばせてくれ」と優しく声をかけ、治療に専念させ、戦力外にはしないと約束する。マスコミの前でも、選手を守る温情派の指揮官を演じきった。選手たちは奥名を信頼し、表向きのチームの雰囲気はすこぶる良好だった。


ネットの声も、「怪我なら仕方がない」「ちゃんとチーム状況を報告してくれる素晴らしい監督だ」などの声で溢れた。


 最初の二シーズンは、それでうまく回っていた。

ファンの熱狂を味方につけ、奥名自身も「名監督」としての評価を確固たるものにしていたはずだった。


 狂い始めたのは、そのオフシーズンのことだった。


 オフシーズン、ネットの海を漫然と泳いでいた奥名の目に、ふと飛び込んできた一通の批判コメント。


『奥名ってチームのやり繰りは不満ないけど、試合中たまに変な采配するよな』

『試合中と試合外で有能と無能が入れ替わる存在』


 ほんの一握りの批判だった。だが、絶賛の波に浸りきっていた奥名の脳裏には、その小さなトゲが深く突き刺さって抜えなかった。


 翌日も、その次の日も、その批判の声が頭から離れない。もっと絶賛されたい。もっと完璧な「民意の神様」でいなければならないという強迫観念が、奥名を蝕んでいった。


 そんな時期に、一人の男が奥名を頼ってきた。

 ブラックタートルズの元投手で、すでに引退していた矢口(やぐち)だった。現役引退後のセカンドキャリアに失敗し、裏社会の闇金から多額の借金を背負い、どうしようもなくなって大学の先輩である奥名に泣きついてきたのだ。


「頼む、奥名さん! これを何とかしてくれなきゃ、俺はもう殺される……!」


 冷徹な人間であれば、その場で突き返していただろう。だが、日々のエゴサで「もっと完璧な采配を」というプレッシャーに怯えていた奥名の脳裏に、ふと悪魔的な閃きが降りてきた。


(試合中の采配も、ファンにアンケートを取ればいいのではないか……?)


 もし、試合中の継投や代打のタイミングすらもネットの総意通りに動かせば、自分に対する批判は完全に消え失せる。

だが、監督である自分が試合中にスマートフォンをいじるわけにはいかない。

選手やコーチの目もある。


 そこで、この目の前の男を利用することにした。


「矢口。お前のその数百万の借金、俺がすべて肩代わりして帳消しにしてやる」


「え……? ほ、本当ですか!」


「ただし、条件がある。来季、お前をうちのブルペンコーチとして球団にねじ込む。そして、シーズン中、俺の指示通りに動いてもらう」


 矢口は困惑した。

指導者としての実績もない自分がなぜ一軍のブルペンコーチに。

しかし、背後から迫る借取りの恐怖に怯えていた矢口に、拒否権などなかった。


「……わかりました。何でもします」


 こうして、二人の歪な共犯関係が結ばれた。

 試合中、裏アカウントでリアルタイムのアンケートを仕掛け、その結果をブルペンの電話を通じて奥名に伝える「密約」が完成したのだ。


 そして迎えた新たなシーズン。

 開幕から、ブラックタートルズのベンチには異様な緊張感が漂い始めていた。


 表向き、奥名は相変わらず選手に寄り添う温厚な監督だった。

「痛むなら無理をするな、ファンはいつでもお前を待っている」と優しく声をかけ、選手からの人望は厚かった。


 しかし、その裏で、奥名の精神は完全に「ネット」に支配されていた。


「監督、またネットが荒れてますよ」


 試合中、ブルペンからの電話の向こうで、矢口の緊張した声が響く。

奥名はベンチの端で、何食わぬ顔で受話器を握りしめていた。

 

「どうなっている、矢口」


「『#ブラックタートルズ緊急アンケート』、今のピンチでベテランの八木を継続させるか、それとも最近絶好調の二軍ルーキー徳田を代打に送るか……投票数はすでに五万を超えて、『ルーキーを今すぐ代打に出せ』が七割を超えてます!」


 実は、試合前に軽度の肉離れが発覚し二軍で治療させる予定だった。

これまでなら、試合に出さず終了後に公表する流れだが…。


 アンケート結果を聞いた奥名は徳田に対し、笑顔でこう告げた。

「お前のバットをみんなが待っている。少し無理をしてでも、ファンのために打ってくれ」


 徳田は戸惑いながらも、「監督がそこまで期待してくれるなら……」と痛む足を庇いながらも準備を始めた。


「代打!徳田!」


 奥名が審判に告げる。

 グラウンドでは、突然の選手起用にどよめきが起きる。

コーチ陣は「おい、あいつは肉離れをしているんだぞ!」と異議を唱えたが、奥名は冷たくそれを一蹴した。


「俺の決断だ。文句は言わせない」


 結果として、その無茶な起用が奇跡的に当たり、代打ホームランが飛び出した。

徳田は痛む足を我慢し一振りで期待に応えた。


 球場は狂喜乱舞し、SNSは『奥名監督の神采配!』『ファンの声を形にする最高の指揮官!』という賛辞で埋め尽くされた。奥名のスマホの通知欄は、止まることのない歓喜の数字で満たされていた。


 だが、チームの歯車は確実に音を立ててすり減っていた。


 季節は秋、首位を争う熾烈なシーズン終盤。

 ブラックタートルズは上位に食い込んでいたが、ベンチ内の空気は冷え切っていた。


 ベテランの主力選手たちは、監督の不可解な起用方法に疑念を抱き始めていた。


「最近の監督、なんか変じゃないか? 本人のコンディションとか関係なしに、ネットで叩かれている選手は急にスタメン外されたり、逆に怪我明けの奴が無理やり使われたり……」


「まるで、見えない誰かの機嫌を取るために野球やってるみたいだ。俺たちの意見なんて、最初から聞いてない」


 選手たちの不満の目は、いつしか奥名に向けられていた。しかし、奥名にはもうその視線すら見えていなかった。彼の世界には、スマホの画面に映る「いいね」の数と、ブルペンの電話から聞こえてくる矢口の報告しか存在しなかった。


 そして、運命の試合がやってきた。

 宿敵との直接対決、最終戦までもつれた優勝をかけた大一番。

 二対三でリードを許すも九回裏、ツーアウト満塁の絶体絶命、いや、最大のチャンスの場面。


 打席には、ここまで三振を喫し続け、精神的にも追い詰められているチームの看板スラッガー・遠藤が立っていた。しかし、一発が出ればサヨナラ勝ちという場面だ。


 ベンチの端で、奥名は矢口からの電話を待っていた。

 ジリリリ、と静まり返ったブルペンからの直通電話が鳴り響く。奥名は周囲の目を盗み、素早く受話器を取った。


「監督……!」


 電話の向こうの矢口の声は、恐怖でひきつっていた。


「ネットのアンケート、大変なことになってます……!」


「どうなった、数字はどっちだ!」


「『A:遠藤を信じてそのまま立たせる』が四割……しかし、『B:今全く当たっていないベテラン・真壁を、この土壇場で代打として送り出す』が、六割を超えました!」


 奥名は息を呑んだ。

 常識的に考えて、ここまでチームの顔だが不振を極めており、コンディションの悪い真壁を、この大一番の九回裏ツーアウト満塁の場面で代打に送るなど、狂気の沙汰だった。

打席にいる遠藤はまだ当たりが出ていなくとも、一発の怖さがある。

チームメイトも遠藤を信じて声を枯らしている。


「ま、待て矢口……! 流石にこの場面で真壁は……!」


「ダメです監督! すでにSNSのトレンドは『#真壁を出せ』の意見が総意となってます。

もしここで遠藤が三振して負けたら、 『ファンの声を無視した無能』と、アンチが一斉に雪崩れ込んできますよ!」


 矢口の怯えた叫び声が、奥名の理性を焼き切った。

 批判されることへの恐怖。数字が自分を突き放すことへの恐怖。それが奥名の脳裏で巨大な怪物のように膨れ上がる。


「……わかった」


 奥名は震える声で呟いた。


「代打、真壁だ」


 ベンチに激震が走った。

「おい、本気かよ!?」

 打撃コーチの戸村が、血走った目で奥名に詰め寄る。


「遠藤はまだ狙い球を絞って粘れるだろ! なぜ今、二軍から上がってきたばかりで調子の上がらない真壁を出すんだ!」


「うるさい! 俺の采配だ!」


「ふざけるな! あんた、さっきからずっとブルペンと何電話してやがるんだ! まさか、ネットの意見なんて聞いて試合動かしてんじゃねえだろうな!」


 戸村の怒声に、周囲の選手たちの動きがピタリと止まった。

 選手たちの冷ややかで、侮蔑を含んだ視線が、一斉に奥名に突き刺さる。

奥名は冷や汗を流しながらも、「いいから行かせろ!」と怒鳴り返し、強引に審判へ選手交代を告げた。


 どよめく球場。

 ベンチの片隅で、打席を奪われた主砲・遠藤が、静かにヘルメットを床に叩きつけた。その目は、監督に対する敬意を完全に失っていた。


 代打として、顔面蒼白の真壁が打席に向かう。

 満員の観客席は、ネットの煽りに乗せられた一部の熱狂的なファンからの歓声と、混乱する一般ファンのどよめきが入り交じっていた。


 初球。

 相手ピッチャーの投じた渾身のストレートは、真壁のバットの遥か上を通過した。


――ストライク!


 二球目。外角低めへの厳しい変化球。

 真壁のバットは動かない、いや、動けなかった。


 三球目。内閣高めのストレートにバットが空を切った。


――空振り三振!

 ゲームセット。


 歓声は一瞬で消え去り、神宮球場は鉛のような沈黙に包まれた。ブラックタートルズの優勝が無くなった瞬間だった。


 試合後の監督会見場。

 無数のフラッシュの嵐の中、青白い顔をした奥名京治は、ただマイクの前に突っ立っていた。


「監督、あの九回ツーアウト満塁の場面での真壁選手の起用ですが、どのような意図があったのでしょうか」

「SNS上では監督は采配を全てネットに委ねていると噂になっておりますが、どうお考えですか」


 記者の鋭い質問が矢継ぎ早に飛ぶ。

 その時、奥名のポケットの中で、スマートフォンのバイブレーションが狂ったように鳴り響いた。


 ブー、ブー、ブー……と、途切れることのない通知の振動。

 奥名は震える手でポケットからスマホを取り出し、薄目を開けて画面を確認した。


『#奥名無能』

『#こんな監督即刻クビにしろ』

『#ファンを裏切った裏切り者』


 わずか一時間前まで「神采配」と持ち上げていた同じアカウントたちが、一斉に手のひらを返し、血に飢えた獣のように罵詈雑言を浴びせかけている。

 「いいね」の数は、皮肉にもこの日一番の数字を記録していた。

 奥名は力なく電源ボタンを押し、画面を闇に沈めた。

 黒く冷たくなったガラスの表面には、選手からも、ファンからも、そして自分自身からも見放された、惨めな男の顔だけがぽつんと映し出されていた。

いかがでしたでしょうか。


ネットは便利な反面、使い方を誤ると身の破滅を招く恐れもあります。


皆様には、彼のような人生を歩まれないよう心より願っております。

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