会いたかった
春の風が、やわらかく街を包んでいた。
窓辺に置いた小さな観葉植物の葉が、光を受けて静かに揺れている。
けれど、その穏やかな景色とは裏腹に、ゆりの胸の奥には、長い冬のような寂しさが、ずっと居座っていた。
結婚して七年。
最初の頃は、焦りなんてなかった。
「そのうち自然に授かるよ」
夫のカケルはそう言って笑い、ゆりもまた、その言葉を信じていた。
休日には二人で少し遠くへ出かけ、美味しいものを食べ、夜になれば並んでソファに座り、たわいもない話をして笑い合う。
それだけで幸せだった。
本当に、それだけで十分幸せだった。
けれど、月日が流れるにつれて、周りの何気ない言葉が、少しずつ心に刺さるようになった。
実家へ帰れば、親戚が笑顔で言う。
「まだなの?」
「早く赤ちゃん抱っこしたいわ」
「若いうちの方がいいわよ」
悪気なんてない。
分かっている。
分かっているからこそ、胸の奥が静かに痛んだ。
友達に会えば、
「子どもがいない方が自由でいいじゃない」
「夫婦で好きに過ごせて羨ましい」
そう言われるたび、ゆりは笑って頷いた。
「そんなことないよ」
そう答えながら、心の中では別の声が泣いていた。
――羨ましいのは、私の方だよ。
小さな手を握れることが。
「ママ」と呼ばれることが。
ただ、それだけが欲しかった。
毎月、静かなため息が増えていった。
白い洗面所の灯りの下。
見慣れた赤い色を見つけるたび、胸の奥が、すっと冷えていく。
「ああ……またか」
小さく漏れた声は、誰にも届かずに消える。
鏡の中の自分は、少しずつ笑うのが下手になっていた。
そんな時、カケルはいつも優しかった。
「気にするな」
「俺は、ゆりと二人でも幸せだよ」
「ゆりが笑っていてくれれば、それでいい」
そう言って、そっと頭を撫でてくれる。
その手のぬくもりが嬉しくて、同時に泣きたくなるほど苦しかった。
この人も、本当は会いたいはずなのに。
そう思うと、余計に胸が痛んだ。
気にしないようにしよう。
考えないようにしよう。
そう決めても、毎月やってくる現実が、諦めきれない気持ちを何度も揺さぶった。
そしていつしか、ため息をつくことさえなくなった。
期待しない方が楽だった。
願わなければ、傷つかない。
そうやって、心にそっと蓋をした。
けれど、ある日。
ふと見たカレンダーに、ゆりの指が止まった。
……来ていない。
先月も。
今月も。
胸が、大きく鳴る。
「まさか……」
震える手で薬局へ向かい、検査薬を買った。
家に帰り、静かな部屋でひとり、そっと確かめる。
一本。
そして、その横に――もう一本。
ゆっくりと、確かに線が浮かび上がった。
二本並んだ線を見た瞬間、涙がぽたりと落ちた。
「ほんと……?」
胸に手を当てる。
まだ何も変わらないお腹。
けれど、その奥に、小さな命がいるかもしれない。
嬉しくて、怖くて、信じられなくて、涙が止まらなかった。
震える手で、ゆりは思わずスマートフォンを手に取った。
一番に伝えたい人の顔が浮かぶ。
カケル。
「できたかもしれない」
「私たち、会えるかもしれない」
今すぐ伝えたい。
この喜びを、一秒でも早く分け合いたい。
けれど、画面を開いた指が途中で止まった。
もし違っていたら――
ぬか喜びさせてしまう。
あんなに優しい顔で喜んでくれる人を、がっかりさせたくない。
自分もまた、その落差に耐えられる自信がなかった。
ゆりはそっとスマートフォンを胸に抱きしめ、深く息を吐いた。
「慌てない。ちゃんと確かめてから」
自分にそう言い聞かせて、静かに立ち上がる。
その足は、病院へ向かっていた。
診察室で、医師が優しく微笑んだ。
「おめでとうございます」
その一言で、ゆりの中に張りつめていたものが、一気にほどけた。
涙があふれる。
「ありがとうございます……」
「ありがとうございます……」
最後は、もう声にならなかった。
ゆりは何度も、何度も頭を下げた。
病院を出ると、空はどこまでも青く、風は驚くほど優しかった。
世界が祝福してくれているように思えた。
震える指で、カケルに電話をかける。
「もしもし?」
いつもの声。
その声を聞いただけで、また泣きそうになる。
「……できた」
一瞬の沈黙。
「え?」
「赤ちゃん……いた……」
次の瞬間。
「ほんとに!? 本当に!?」
弾けるような声。
「うん……」
「やったぁぁ!!」
電話越しの歓声に、ゆりは涙をこぼしながら笑った。
「今すぐ帰る!」
「仕事は?」
「そんなのどうでもいい!」
本当に早退して帰ってきた。
玄関が開く音。
慌ただしい足音。
そして、顔を見た瞬間、カケルは何も言わず、ゆりを強く抱きしめた。
肩が震えている。
「ありがとう……」
小さな声で、何度も言う。
「ありがとう……」
「私の方こそ……ありがとう」
二人とも泣きながら笑った。
その夜、まだ膨らみもないお腹に、そっと二人で手を当てる。
「会いたいね」
「うん」
「男の子かな」
「女の子かな」
「どっちでもいい」
カケルが笑う。
「会えれば、それだけでいい」
その言葉に、ゆりは静かに頷いた。
本当にそうだった。
ただ、会いたかった。
毎日は、小さな幸せで満ちていった。
名前を考えた。
字画を調べた。
性別も分からないのに、小さな靴下を買った。
ベビー服を手に取っては、二人で顔を見合わせて笑った。
お腹に向かって、毎日話しかけた。
「早く会いたいね」
何度も、何度も。
その言葉を口にした。
けれど、予定日の一か月前。
突然、お腹の奥から、ぬるりと温かなものが流れた。
違和感に、身体が固まる。
足元を見た瞬間、血の気が引いた。
「……え……?」
頭の中が真っ白になる。
震える手で病院へ電話をかける。
「すぐ来てください。破水の可能性があります」
その言葉に、胸がぎゅっと縮んだ。
怖い。
赤ちゃんは大丈夫?
最初にかけたのは、カケルだった。
「ゆり? どうした?」
声を聞いた瞬間、涙が溢れた。
「……破水したみたい……」
一瞬の沈黙。
それから、強く、まっすぐな声。
「すぐ行く。絶対大丈夫。俺が行くから」
その一言に、張りつめていた心が少しほどける。
次に母へ電話をかける。
「お母さん……」
名前を呼んだだけで、声が詰まった。
母はすべてを察したように、静かに言った。
「大丈夫。すぐ行くから。ひとりじゃないよ」
その言葉に、ゆりは泣いた。
病院には、二人ともすぐに駆けつけてくれた。
促進剤が入ると、やがてお腹の奥が、きゅうっと締めつけられた。
……痛い。
次の波は、もっと強かった。
腰の奥を砕かれるような痛みが、容赦なく押し寄せる。
少し落ち着いたと思った次の瞬間、また波が来る。
呼吸が乱れる。
汗が滲む。
ベッドの柵を握る手に力がこもる。
「まだ間隔が短くなりませんね」
助産師の声が遠くに聞こえた。
まだ?
こんなに痛いのに、まだなの?
絶望に近い気持ちが押し寄せる。
カケルは、ゆりが苦しむたびに何度もナースコールを押した。
ゆりが声を上げるたび、隣でカケルが飛び上がる。
「だ、大丈夫!? 水飲む!? 背中さする!? 看護師さん呼ぶ!? あ、呼んだか!」
完全にオロオロしている。
痛みの波の合間に、その必死な顔が見えて、ゆりは少しだけ笑った。
母は汗を拭きながら、しっかりと手を握ってくれた。
「大丈夫」
「終われば、今の痛みは忘れるくらい幸せだから」
「あと少し、頑張ろう」
その声に、何度も救われた。
やがて助産師が静かに言う。
「分娩室へ行きましょう」
いよいよ会える。
その喜びの裏で、身体を裂くような痛みへの恐れもあった。
怖い。
けれど、それ以上に会いたい。
胸の奥では、その想いだけが強く光っていた。
分娩台の上で、ゆりは次の陣痛の波を待った。
分娩台の横には、青ざめた顔のカケルがいた。
手を握る力だけが妙に強くて、その震えが、彼の不安をそのまま伝えていた。
「はい、今です! いきんで!」
全身に力を込める。
苦しい。
痛い。
涙が滲む。
「上手ですよ!」
「頭が見えてます!」
横ではカケルが半泣きで叫ぶ。
「ゆり、すごい!」
「あと少し!」
「会える……会えるよ!」
その声を力に変えて、最後の力を振り絞った。
その瞬間――
するり、と身体から命が生まれ落ちた。
次の瞬間。
「おぎゃあ」
小さくて、力強い産声が部屋いっぱいに響いた。
世界で一番、美しい声だった。
カケルは、その場で大号泣していた。
「ありがとう……」
「ありがとう……」
顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
看護師が、小さな命をそっと連れてきた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
しわくちゃの小さな顔。
小さな手。
小さな指。
小さな爪。
そのすべてが、愛おしくてたまらない。
そっと指を差し出すと、小さな手がぎゅっと握り返した。
そのぬくもりに、涙が溢れた。
「会いたかった……」
声が震える。
「ずっと……会いたかった……」
何度も願った。
何度も泣いた。
諦めそうになった夜もあった。
それでも、ずっと心の奥で待っていた。
その命が、今、ここにいる。
小さな手が、もう一度ぎゅっと握る。
まるで――
会いたかったよ
そう返してくれた気がした。
窓の外では、やわらかな春の光が、部屋いっぱいに差し込んでいた。
長い冬は終わった。
そしてここから――
新しい春が始まる。




