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会いたかった

作者: 香月 深青
掲載日:2026/05/27

春の風が、やわらかく街を包んでいた。


窓辺に置いた小さな観葉植物の葉が、光を受けて静かに揺れている。


けれど、その穏やかな景色とは裏腹に、ゆりの胸の奥には、長い冬のような寂しさが、ずっと居座っていた。


結婚して七年。


最初の頃は、焦りなんてなかった。


「そのうち自然に授かるよ」


夫のカケルはそう言って笑い、ゆりもまた、その言葉を信じていた。


休日には二人で少し遠くへ出かけ、美味しいものを食べ、夜になれば並んでソファに座り、たわいもない話をして笑い合う。


それだけで幸せだった。


本当に、それだけで十分幸せだった。


けれど、月日が流れるにつれて、周りの何気ない言葉が、少しずつ心に刺さるようになった。


実家へ帰れば、親戚が笑顔で言う。


「まだなの?」


「早く赤ちゃん抱っこしたいわ」


「若いうちの方がいいわよ」


悪気なんてない。


分かっている。


分かっているからこそ、胸の奥が静かに痛んだ。


友達に会えば、


「子どもがいない方が自由でいいじゃない」


「夫婦で好きに過ごせて羨ましい」


そう言われるたび、ゆりは笑って頷いた。


「そんなことないよ」


そう答えながら、心の中では別の声が泣いていた。


――羨ましいのは、私の方だよ。


小さな手を握れることが。


「ママ」と呼ばれることが。


ただ、それだけが欲しかった。


毎月、静かなため息が増えていった。


白い洗面所の灯りの下。


見慣れた赤い色を見つけるたび、胸の奥が、すっと冷えていく。


「ああ……またか」


小さく漏れた声は、誰にも届かずに消える。


鏡の中の自分は、少しずつ笑うのが下手になっていた。


そんな時、カケルはいつも優しかった。


「気にするな」


「俺は、ゆりと二人でも幸せだよ」


「ゆりが笑っていてくれれば、それでいい」


そう言って、そっと頭を撫でてくれる。


その手のぬくもりが嬉しくて、同時に泣きたくなるほど苦しかった。


この人も、本当は会いたいはずなのに。


そう思うと、余計に胸が痛んだ。


気にしないようにしよう。


考えないようにしよう。


そう決めても、毎月やってくる現実が、諦めきれない気持ちを何度も揺さぶった。


そしていつしか、ため息をつくことさえなくなった。


期待しない方が楽だった。


願わなければ、傷つかない。


そうやって、心にそっと蓋をした。


けれど、ある日。


ふと見たカレンダーに、ゆりの指が止まった。


……来ていない。


先月も。


今月も。


胸が、大きく鳴る。


「まさか……」


震える手で薬局へ向かい、検査薬を買った。


家に帰り、静かな部屋でひとり、そっと確かめる。


一本。


そして、その横に――もう一本。


ゆっくりと、確かに線が浮かび上がった。


二本並んだ線を見た瞬間、涙がぽたりと落ちた。


「ほんと……?」


胸に手を当てる。


まだ何も変わらないお腹。


けれど、その奥に、小さな命がいるかもしれない。


嬉しくて、怖くて、信じられなくて、涙が止まらなかった。


震える手で、ゆりは思わずスマートフォンを手に取った。


一番に伝えたい人の顔が浮かぶ。


カケル。


「できたかもしれない」


「私たち、会えるかもしれない」


今すぐ伝えたい。


この喜びを、一秒でも早く分け合いたい。


けれど、画面を開いた指が途中で止まった。


もし違っていたら――


ぬか喜びさせてしまう。


あんなに優しい顔で喜んでくれる人を、がっかりさせたくない。


自分もまた、その落差に耐えられる自信がなかった。


ゆりはそっとスマートフォンを胸に抱きしめ、深く息を吐いた。


「慌てない。ちゃんと確かめてから」


自分にそう言い聞かせて、静かに立ち上がる。


その足は、病院へ向かっていた。


診察室で、医師が優しく微笑んだ。


「おめでとうございます」


その一言で、ゆりの中に張りつめていたものが、一気にほどけた。


涙があふれる。


「ありがとうございます……」


「ありがとうございます……」


最後は、もう声にならなかった。


ゆりは何度も、何度も頭を下げた。


病院を出ると、空はどこまでも青く、風は驚くほど優しかった。


世界が祝福してくれているように思えた。


震える指で、カケルに電話をかける。


「もしもし?」


いつもの声。


その声を聞いただけで、また泣きそうになる。


「……できた」


一瞬の沈黙。


「え?」


「赤ちゃん……いた……」


次の瞬間。


「ほんとに!? 本当に!?」


弾けるような声。


「うん……」


「やったぁぁ!!」


電話越しの歓声に、ゆりは涙をこぼしながら笑った。


「今すぐ帰る!」


「仕事は?」


「そんなのどうでもいい!」


本当に早退して帰ってきた。


玄関が開く音。


慌ただしい足音。


そして、顔を見た瞬間、カケルは何も言わず、ゆりを強く抱きしめた。


肩が震えている。


「ありがとう……」


小さな声で、何度も言う。


「ありがとう……」


「私の方こそ……ありがとう」


二人とも泣きながら笑った。


その夜、まだ膨らみもないお腹に、そっと二人で手を当てる。


「会いたいね」


「うん」


「男の子かな」


「女の子かな」


「どっちでもいい」


カケルが笑う。


「会えれば、それだけでいい」


その言葉に、ゆりは静かに頷いた。


本当にそうだった。


ただ、会いたかった。


毎日は、小さな幸せで満ちていった。


名前を考えた。


字画を調べた。


性別も分からないのに、小さな靴下を買った。


ベビー服を手に取っては、二人で顔を見合わせて笑った。


お腹に向かって、毎日話しかけた。


「早く会いたいね」


何度も、何度も。


その言葉を口にした。


けれど、予定日の一か月前。


突然、お腹の奥から、ぬるりと温かなものが流れた。


違和感に、身体が固まる。


足元を見た瞬間、血の気が引いた。


「……え……?」


頭の中が真っ白になる。


震える手で病院へ電話をかける。


「すぐ来てください。破水の可能性があります」


その言葉に、胸がぎゅっと縮んだ。


怖い。


赤ちゃんは大丈夫?


最初にかけたのは、カケルだった。


「ゆり? どうした?」


声を聞いた瞬間、涙が溢れた。


「……破水したみたい……」


一瞬の沈黙。


それから、強く、まっすぐな声。


「すぐ行く。絶対大丈夫。俺が行くから」


その一言に、張りつめていた心が少しほどける。


次に母へ電話をかける。


「お母さん……」


名前を呼んだだけで、声が詰まった。


母はすべてを察したように、静かに言った。


「大丈夫。すぐ行くから。ひとりじゃないよ」


その言葉に、ゆりは泣いた。


病院には、二人ともすぐに駆けつけてくれた。


促進剤が入ると、やがてお腹の奥が、きゅうっと締めつけられた。


……痛い。


次の波は、もっと強かった。


腰の奥を砕かれるような痛みが、容赦なく押し寄せる。


少し落ち着いたと思った次の瞬間、また波が来る。


呼吸が乱れる。


汗が滲む。


ベッドの柵を握る手に力がこもる。


「まだ間隔が短くなりませんね」


助産師の声が遠くに聞こえた。


まだ?


こんなに痛いのに、まだなの?


絶望に近い気持ちが押し寄せる。


カケルは、ゆりが苦しむたびに何度もナースコールを押した。


ゆりが声を上げるたび、隣でカケルが飛び上がる。


「だ、大丈夫!? 水飲む!? 背中さする!? 看護師さん呼ぶ!? あ、呼んだか!」


完全にオロオロしている。


痛みの波の合間に、その必死な顔が見えて、ゆりは少しだけ笑った。


母は汗を拭きながら、しっかりと手を握ってくれた。


「大丈夫」


「終われば、今の痛みは忘れるくらい幸せだから」


「あと少し、頑張ろう」


その声に、何度も救われた。


やがて助産師が静かに言う。


「分娩室へ行きましょう」


いよいよ会える。


その喜びの裏で、身体を裂くような痛みへの恐れもあった。


怖い。


けれど、それ以上に会いたい。


胸の奥では、その想いだけが強く光っていた。


分娩台の上で、ゆりは次の陣痛の波を待った。


分娩台の横には、青ざめた顔のカケルがいた。


手を握る力だけが妙に強くて、その震えが、彼の不安をそのまま伝えていた。


「はい、今です! いきんで!」


全身に力を込める。


苦しい。


痛い。


涙が滲む。


「上手ですよ!」


「頭が見えてます!」


横ではカケルが半泣きで叫ぶ。


「ゆり、すごい!」


「あと少し!」


「会える……会えるよ!」


その声を力に変えて、最後の力を振り絞った。


その瞬間――


するり、と身体から命が生まれ落ちた。


次の瞬間。


「おぎゃあ」


小さくて、力強い産声が部屋いっぱいに響いた。


世界で一番、美しい声だった。


カケルは、その場で大号泣していた。


「ありがとう……」


「ありがとう……」


顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。


看護師が、小さな命をそっと連れてきた。


「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」


しわくちゃの小さな顔。


小さな手。


小さな指。


小さな爪。


そのすべてが、愛おしくてたまらない。


そっと指を差し出すと、小さな手がぎゅっと握り返した。


そのぬくもりに、涙が溢れた。


「会いたかった……」


声が震える。


「ずっと……会いたかった……」


何度も願った。


何度も泣いた。


諦めそうになった夜もあった。


それでも、ずっと心の奥で待っていた。


その命が、今、ここにいる。


小さな手が、もう一度ぎゅっと握る。


まるで――


会いたかったよ


そう返してくれた気がした。


窓の外では、やわらかな春の光が、部屋いっぱいに差し込んでいた。


長い冬は終わった。


そしてここから――


新しい春が始まる。

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