ナンバーワン
## 一
田村健太は三十二歳。新宿三丁目の雑居ビル五階、社員十二名のシステム会社でデータ入力をしている。
夜十一時、終電を気にする同僚たちが慌ただしく帰っていく。
「お疲れ様です」
「田村さん、あとはお願いしますね」
「はい、いつも通りに」
オフィスに一人残る。照明を落とす。パソコンの電源を切る。戸締りを確認する。
他の人にはできないこと—終電後の戸締り確認—で自分の小さな存在価値を確認する。
静寂。
エレベーターで一階へ降り、ビルの外へ出る。
靖国通り。車の音。居酒屋の笑い声。コンビニの明かり。
にぎやかさ。
健太は新大久保駅近くのアパートへ向かう。電車は使わない。毎晩、歩いて帰る。
伊勢丹を過ぎたあたりで、宣伝トラックが目の前を横切った。
トラックの荷台には巨大なモニター。そこに映し出されるのは、三人の男たちの顔。スポットライトを浴びて、シャンパンを掲げている。
「KINGDOM グランドオープン 龍斗、蓮、凱 新宿最高峰の夜へようこそ」
重低音が響く。トラックは右折し、区役所通りへ消えていった。
健太は歌舞伎町を抜ける。毎晩同じ道。
ビルの三階、四階に並ぶホストクラブの看板。窓から漏れる音楽。ドアが開くたび、笑い声と香水の匂い。
健太は、いつも視線を上げてしまう。
あの世界。
高校のとき、クラスには序列があった。一軍は教室の中心にいて、部活の試合で活躍し、文化祭で目立ち、女子に囲まれていた。二軍は一軍の周辺で笑っていた。そして三軍。健太のような存在。教室の隅で、誰からも見られず、名前すら覚えられない。
あの一軍の男たちは、今どうしているだろう。
さらに輝いているのだろうか。
歌舞伎町のホストたちも、そうだ。この街では金も、女も、羨望も、嫉妬も。すべての向かい先だ。
でも、夕方になると、健太は別の光景も見る。
大久保周辺を歩く、売れないホストたち。三人、四人で連れ立って、これから出勤するのだろう。派手な服を着ているが、どこか疲れている。あるいは明け方、一人でふらふらと歩いて帰る男。
うまくいくかわからない。
それでも、羽ばたこうとしている。
その姿が、羨ましく見える。
健太の中に、小さな声がある。
「もしかしたら、自分も」
そんな馬鹿げた考えを、三十を過ぎてもまだ捨てられない。
大久保のアパートに着く。鍵を開ける。部屋に入る。
静寂。
健太は、毎晩、異空間を旅している気になる。
## 二
金曜の夜、いつもより遅い残業を終えて歌舞伎町を歩いていると、健太はまたあの宣伝トラックを見た。
今度は停まっていた。コマ劇場跡地の前。トラックの横に、黒服の男たちが数人。
健太は足を止めた。
トラックのモニターが切り替わる。新しい映像。白いスーツの男が、VIPルームらしき場所で、シャンパンタワーを前に笑っている。
「藤原竜一 presents KINGDOM」
画面が暗転する。
「見たいのか」
声に振り向くと、そこに男がいた。
四十代半ば。黒いトムフォードのスーツ。IWCの時計。整った顔だが、ホストというより経営者の雰囲気。その立ち方、視線の動かし方、すべてがあるべき姿のように見えた。
健太は何も言えなかった。
「俺は藤原。このビルの三階から五階」男は上を指差した。「毎晩、お前ここ通るだろ。いつも看板見上げてる」
健太は驚いた。
「気になるか? この世界」
「いえ、別に」
藤原は煙草を取り出した。マルボロ・ゴールド。火をつけると、煙を吐き出して、笑った。
「お前みたいな目をした奴、何百人も見てきた」
健太は黙った。
「今から上がれ。一杯だけ付き合え」
藤原はそう言うと、ビルの入口へ歩いていった。
健太は、なぜか、ついていった。
## 三
エレベーターは三階で止まった。
扉が開くと、そこは別世界だった。
まだ開店前。照明は半分だけついている。黒い革のソファ。ガラスのテーブル。奥には巨大なシャンデリア。壁一面の鏡。
「KINGDOM」という文字が、金色に光っている。
「座れ」
藤原はVIPルームへ健太を案内した。ソファに座ると、藤原はバーカウンターから何かを持ってきた。
モエ・エ・シャンドン。
グラスに注ぐ。泡が勢いよく昇る。
「飲めるか」
「はい」
「好きか」
「まあ」
藤原は向かいのソファに座った。
「お前、いくつだ」
「三十二です」
「仕事は」
「データ入力」
「給料は」
「手取りで二十三万」
藤原は煙草を灰皿に置いた。
「お前、ホストになりたいか」
健太は笑った。
「無理ですよ」
「なんで」
「俺みたいな人間が」
藤原はグラスを傾けた。
「イケメンだらけのアイドルグループ、全員売れると思うか?」
「いえ」
「芸人も、役者も同じだ。スペックが良くても売れない奴は売れない」藤原は煙草に火をつけた。「じゃあ、何が違うんだ?」
健太は答えられなかった。
「求められている役割を、どれだけ演じきれるか。それだけだ」
藤原は立ち上がり、窓際へ行った。
「お前に素質があるかはわからん」彼は外を見た。「でも、お前は静かな道を選ばずに、毎晩ここを通る。看板を見上げる。それは何かを求めてるってことだろう」
健太は黙った。
「飛びたいんだろう?」
その言葉が、胸に刺さった。
藤原は振り返った。
「なら、組めるかもしれない」
健太はグラスを見つめた。泡が、ゆっくりと昇っている。
「考えとけ。本気なら、また来い」
藤原はそう言うと、VIPルームを出ていった。
健太は一人、鏡の前に立った。
グラスの中で、泡が静かに昇り続けている。
## 四
週末、健太は部屋で考え続けた。
月曜日の朝、彼は藤原に電話した。
「やります」
「来い。今から」
健太が店に着くと、藤原は契約書を用意していた。
「条件を説明する。住み込み。家賃タダ。給料は最初の三ヶ月は月五十万固定。四ヶ月目から歩合制。売上の三十パーセントがお前の取り分だ」
健太は息を呑んだ。
「その代わり、俺の指示に完全に従ってもらう。外見も、話し方も、生活リズムも、すべて俺が決める」
「外見って」
「整形もする。歯科矯正もする。体も作り直す」藤原は淡々と続けた。「お前という人間を、売れるホストに最適化する」
健太は何も言えなかった。
「ただし」藤原は煙草に火をつけた。「一つだけ条件がある。お前が本気でやり切ること。途中で逃げないこと。それだけは約束してくれ」
「わかりました」
健太は書類にサインした。
藤原は書類を引き取った。
「よし。今日から、地獄が始まる」
## 五
最初の一週間は、観察だった。
藤原は健太を店に住み込ませた。朝から晩まで、健太の一挙手一投足を誰かが記録した。歩き方、座り方、食べ方、話し方。すべて。
「箸の持ち方が変だ」
「姿勢が悪い」
「笑顔が不自然だ」
指摘は容赦なかった。
二週目から、改造が始まった。
まず、青山の美容クリニック。医師が健太の顔を診る。
「二重と鼻の施術をします。ダウンタイムは二週間」
次に、歯科矯正。
「八ヶ月かかります」
そして、ボディメイク。専属のトレーナーがつき、毎日二時間の筋トレ。食事も完全に管理された。
並行して、会話のトレーニング。
藤原の店のナンバーホストたちが交代で、健太に女性との会話術を叩き込む。
「相槌のタイミングが遅い」
「質問が表面的すぎる」
「褒め方が嘘くさい」
ロールプレイは一日八時間。様々なタイプの女性客を想定し、繰り返し練習した。
三週目、さらに細部へ。
「呼吸が浅い。深く、ゆっくり呼吸しろ」
「グラスを持つとき、小指が立ってる」
「相手の目を見るな。目と目の間を見ろ」
息づかい、指先の動き、視線の角度。すべてが矯正された。
藤原自身も、そうして作られた存在なのだと、健太は気づいた。彼の完璧な立ち居振る舞い。それは美学ではなく、最適化の結果だった。
## 六
一ヶ月が過ぎた。
鏡の中の健太は、もう別人だった。整形で整った顔。引き締まった体。セリーヌのシャツ。サンローランの靴。
でも、それだけではなかった。
歩き方が変わっていた。話し方が変わっていた。笑顔が、仕草が、すべてが。
「まだ足りない」藤原は言った。
彼は健太に、五十冊以上の本を読ませた。心理学、マーケティング、恋愛術。そして、古典文学。
「女を落とすのに必要なのは、テクニックだけじゃない」
トレーニングの隙間時間には映画、ドラマ、アニメを二倍速で見た。毎晩、深夜まで本を読んだ。
そして二ヶ月目、ついにデビューの日が来た。
## 七
「今夜から、お前は『翔太』だ」
藤原は健太に、新しい名前を与えた。
エレベーターで三階へ降りる。扉が開くと、そこには満席の店内。照明、音楽、笑い声。
「VIPへ行け」
翔太は奥へ進んだ。個室。そこに三人の女性客。
「初めまして、翔太です」
彼女たちが歓声を上げた。
翔太は座った。シャンパンが開けられる。ドンペリニヨン。グラスに注ぐ。泡が勢いよく昇る。
「乾杯」
会話が始まる。
翔太は、何も考えていなかった。体が勝手に動いた。
笑顔。相槌。質問。視線。
すべてが自然に流れた。
二時間後、女性たちは帰った。
「また来るわ。翔太くん、指名するから」
その言葉を聞いて、翔太は初めて実感した。
これは、本物だ。
## 八
三ヶ月後、翔太は店のナンバーファイブになっていた。
六ヶ月後、ナンバーワンを獲得した。
毎晩、シャンパンコールが響く。女性客は列をなし、翔太を求めた。月の売上は二千万を超えた。
宣伝トラックのモニターに、翔太の顔が映るようになった。
「藤原竜一 presents KINGDOM No.1 翔太 月間売上2400万」
健太は、売れっ子ホストになった。作り物のような完璧なホストに。
でも、彼は知っていた。
これは藤原の作品ではない。
羨望の視線が作ったものだ。
女性たちが求める理想。それに応えるために最適化された存在。
店を出るとき、エレベーターに乗る。三階から一階へ。扉が開く。
外の世界では、朝の清掃員が路地を掃除している。コンビニの店員が商品を並べている。スーツ姿のサラリーマンが急ぎ足で駅へ向かっている。
彼らも、彼らの世界に最適となるように演じている。
清掃員として。店員として。サラリーマンとして。
翔太も、演じているだけだ。
## 九
そして一年が過ぎた。
翔太は、VIPルームで一人、グラスを見つめていた。マッカラン18年。氷なし。
鏡に映る自分。
完璧な笑顔。洗練された仕草。計算された視線。
すべてが、誰かに求められたものだった。
ドアが開き、藤原が入ってきた。
「どうした? 今夜も満席だぞ」
「藤原さん」翔太は振り向いた。「俺、売れっ子ホストになりたかったんです」
「なっただろう。お前はナンバーワンだ」
翔太は頷いた。
「なれました。役割を演じることも、できるようになりました」
藤原は黙って聞いていた。
「でも」翔太はグラスを置いた。「俺、この役割を求めてなかったんです」
「何が言いたい」
「ナンバーワンのまま、そのまま演じ続けられるのは、また別の役割なんだと思います」翔太は窓の外を見た。「芸能人だって、トップで居続ける人は多くない。藤原さんも、ホストのままでいられずプロデューサーになった」
藤原は煙草に火をつけた。
「同じ壁にぶつかったんじゃないですか」
しばらく、沈黙があった。
藤原は煙を吐き出した。
「お前も、プロデューサーになりたいのか」
「違います」翔太は笑った。「ホストの世界は、もう十分です」
藤原は窓際へ行った。
歌舞伎町のネオンが輝いている。
「やりすぎたな」藤原は小さく言った。
「え?」
「何でもない」
藤原はそう言うと、VIPルームを出ていった。
翔太は一人、グラスを見つめた。
泡は、もう昇っていなかった。
## 十
翌月、翔太は店を辞めた。
彼は新宿三丁目の、別の小さな会社に就職した。
データ入力ではない。営業職。
初めての営業先で、健太—もう翔太ではない—は緊張していた。
でも、不思議なことに、うまくいった。
藤原に叩き込まれた会話術。心理学。相手の心を読む技術。
それは、ホストクラブだけでなく、ここでも役に立った。
「田村さん、すごいですね。初契約じゃないですか」
同僚に褒められた。
健太は笑った。
これは、自分の力だと思えた。
自分で選んだ役割。
営業マンとしての自分。
それもまた、演じることだ。
でも、今度は自分で選んだ。
エレベーターに乗る。五階へ昇る。扉が開く。
オフィス。デスク。パソコン。
ここにも、役割がある。
でも、悪くない。
グラスに水を注ぐ。泡はない。
でも、それでいい。
鏡を見る。
整形した顔。
これが、今の自分だ。
## 十一
半年後、健太は歌舞伎町を歩いていた。
久しぶりに、KINGDOMの前を通った。
宣伝トラックが走ってくる。
モニターには、複数の顔。グループのような構成。
「KINGDOM チームK No.1 遥斗 月間売上2800万」
健太は、もう看板を見上げなかった。
その代わり、心の中で笑った。
藤原は戦略を変えたのだ。一人を育てきるのではなく、複数人を同時に育てて競わせる。グループ内で切磋琢磨させて、ビジネスとして長持ちさせる。
らしいな、と思った。
尊敬しつつも、あきれる。
でも、それが藤原だ。
健太は前を向いて歩いた。
職場の同僚と約束がある。居酒屋で飲む。
普通の会話。普通の笑い。
それでいい。
夕方、大久保周辺を歩く売れないホストたちとすれ違う。
彼らを見ても、もう羨ましくない。
ただ、同じ人間だと思う。
役割を演じる人間。
健太も、営業マンを演じている。
藤原も、経営者を演じている。
清掃員も、店員も、警察官も、やくざも。
みんな、何かを演じている。
新宿の夜空に、星は見えない。
でも、健太は自分の光を、ようやく見つけた。
誰かに求められた光ではなく。
自分で選んだ、小さな光。
それで、十分だった。
—了—
芥川龍之介の「芋粥」を元に、現代新宿だったらどうなるだろうと思いながら。




