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ナンバーワン

掲載日:2025/12/08

## 一


田村健太は三十二歳。新宿三丁目の雑居ビル五階、社員十二名のシステム会社でデータ入力をしている。


夜十一時、終電を気にする同僚たちが慌ただしく帰っていく。


「お疲れ様です」

「田村さん、あとはお願いしますね」

「はい、いつも通りに」


オフィスに一人残る。照明を落とす。パソコンの電源を切る。戸締りを確認する。

他の人にはできないこと—終電後の戸締り確認—で自分の小さな存在価値を確認する。


静寂。


エレベーターで一階へ降り、ビルの外へ出る。


靖国通り。車の音。居酒屋の笑い声。コンビニの明かり。


にぎやかさ。


健太は新大久保駅近くのアパートへ向かう。電車は使わない。毎晩、歩いて帰る。


伊勢丹を過ぎたあたりで、宣伝トラックが目の前を横切った。


トラックの荷台には巨大なモニター。そこに映し出されるのは、三人の男たちの顔。スポットライトを浴びて、シャンパンを掲げている。


「KINGDOM グランドオープン 龍斗、蓮、凱 新宿最高峰の夜へようこそ」


重低音が響く。トラックは右折し、区役所通りへ消えていった。


健太は歌舞伎町を抜ける。毎晩同じ道。


ビルの三階、四階に並ぶホストクラブの看板。窓から漏れる音楽。ドアが開くたび、笑い声と香水の匂い。


健太は、いつも視線を上げてしまう。


あの世界。


高校のとき、クラスには序列があった。一軍は教室の中心にいて、部活の試合で活躍し、文化祭で目立ち、女子に囲まれていた。二軍は一軍の周辺で笑っていた。そして三軍。健太のような存在。教室の隅で、誰からも見られず、名前すら覚えられない。


あの一軍の男たちは、今どうしているだろう。


さらに輝いているのだろうか。


歌舞伎町のホストたちも、そうだ。この街では金も、女も、羨望も、嫉妬も。すべての向かい先だ。


でも、夕方になると、健太は別の光景も見る。


大久保周辺を歩く、売れないホストたち。三人、四人で連れ立って、これから出勤するのだろう。派手な服を着ているが、どこか疲れている。あるいは明け方、一人でふらふらと歩いて帰る男。


うまくいくかわからない。


それでも、羽ばたこうとしている。


その姿が、羨ましく見える。


健太の中に、小さな声がある。


「もしかしたら、自分も」


そんな馬鹿げた考えを、三十を過ぎてもまだ捨てられない。


大久保のアパートに着く。鍵を開ける。部屋に入る。


静寂。


健太は、毎晩、異空間を旅している気になる。


## 二


金曜の夜、いつもより遅い残業を終えて歌舞伎町を歩いていると、健太はまたあの宣伝トラックを見た。


今度は停まっていた。コマ劇場跡地の前。トラックの横に、黒服の男たちが数人。


健太は足を止めた。


トラックのモニターが切り替わる。新しい映像。白いスーツの男が、VIPルームらしき場所で、シャンパンタワーを前に笑っている。


「藤原竜一 presents KINGDOM」


画面が暗転する。


「見たいのか」


声に振り向くと、そこに男がいた。


四十代半ば。黒いトムフォードのスーツ。IWCの時計。整った顔だが、ホストというより経営者の雰囲気。その立ち方、視線の動かし方、すべてがあるべき姿のように見えた。


健太は何も言えなかった。


「俺は藤原。このビルの三階から五階」男は上を指差した。「毎晩、お前ここ通るだろ。いつも看板見上げてる」


健太は驚いた。


「気になるか? この世界」


「いえ、別に」


藤原は煙草を取り出した。マルボロ・ゴールド。火をつけると、煙を吐き出して、笑った。


「お前みたいな目をした奴、何百人も見てきた」


健太は黙った。


「今から上がれ。一杯だけ付き合え」


藤原はそう言うと、ビルの入口へ歩いていった。


健太は、なぜか、ついていった。


## 三


エレベーターは三階で止まった。


扉が開くと、そこは別世界だった。


まだ開店前。照明は半分だけついている。黒い革のソファ。ガラスのテーブル。奥には巨大なシャンデリア。壁一面の鏡。


「KINGDOM」という文字が、金色に光っている。


「座れ」


藤原はVIPルームへ健太を案内した。ソファに座ると、藤原はバーカウンターから何かを持ってきた。


モエ・エ・シャンドン。


グラスに注ぐ。泡が勢いよく昇る。


「飲めるか」


「はい」


「好きか」


「まあ」


藤原は向かいのソファに座った。


「お前、いくつだ」


「三十二です」


「仕事は」


「データ入力」


「給料は」


「手取りで二十三万」


藤原は煙草を灰皿に置いた。


「お前、ホストになりたいか」


健太は笑った。


「無理ですよ」


「なんで」


「俺みたいな人間が」


藤原はグラスを傾けた。


「イケメンだらけのアイドルグループ、全員売れると思うか?」


「いえ」


「芸人も、役者も同じだ。スペックが良くても売れない奴は売れない」藤原は煙草に火をつけた。「じゃあ、何が違うんだ?」


健太は答えられなかった。


「求められている役割を、どれだけ演じきれるか。それだけだ」


藤原は立ち上がり、窓際へ行った。


「お前に素質があるかはわからん」彼は外を見た。「でも、お前は静かな道を選ばずに、毎晩ここを通る。看板を見上げる。それは何かを求めてるってことだろう」


健太は黙った。


「飛びたいんだろう?」


その言葉が、胸に刺さった。


藤原は振り返った。


「なら、組めるかもしれない」


健太はグラスを見つめた。泡が、ゆっくりと昇っている。


「考えとけ。本気なら、また来い」


藤原はそう言うと、VIPルームを出ていった。


健太は一人、鏡の前に立った。


グラスの中で、泡が静かに昇り続けている。


## 四


週末、健太は部屋で考え続けた。


月曜日の朝、彼は藤原に電話した。


「やります」


「来い。今から」


健太が店に着くと、藤原は契約書を用意していた。


「条件を説明する。住み込み。家賃タダ。給料は最初の三ヶ月は月五十万固定。四ヶ月目から歩合制。売上の三十パーセントがお前の取り分だ」


健太は息を呑んだ。


「その代わり、俺の指示に完全に従ってもらう。外見も、話し方も、生活リズムも、すべて俺が決める」


「外見って」


「整形もする。歯科矯正もする。体も作り直す」藤原は淡々と続けた。「お前という人間を、売れるホストに最適化する」


健太は何も言えなかった。


「ただし」藤原は煙草に火をつけた。「一つだけ条件がある。お前が本気でやり切ること。途中で逃げないこと。それだけは約束してくれ」


「わかりました」


健太は書類にサインした。


藤原は書類を引き取った。


「よし。今日から、地獄が始まる」


## 五


最初の一週間は、観察だった。


藤原は健太を店に住み込ませた。朝から晩まで、健太の一挙手一投足を誰かが記録した。歩き方、座り方、食べ方、話し方。すべて。


「箸の持ち方が変だ」

「姿勢が悪い」

「笑顔が不自然だ」


指摘は容赦なかった。


二週目から、改造が始まった。


まず、青山の美容クリニック。医師が健太の顔を診る。


「二重と鼻の施術をします。ダウンタイムは二週間」


次に、歯科矯正。


「八ヶ月かかります」


そして、ボディメイク。専属のトレーナーがつき、毎日二時間の筋トレ。食事も完全に管理された。


並行して、会話のトレーニング。


藤原の店のナンバーホストたちが交代で、健太に女性との会話術を叩き込む。


「相槌のタイミングが遅い」

「質問が表面的すぎる」

「褒め方が嘘くさい」


ロールプレイは一日八時間。様々なタイプの女性客を想定し、繰り返し練習した。


三週目、さらに細部へ。


「呼吸が浅い。深く、ゆっくり呼吸しろ」

「グラスを持つとき、小指が立ってる」

「相手の目を見るな。目と目の間を見ろ」


息づかい、指先の動き、視線の角度。すべてが矯正された。


藤原自身も、そうして作られた存在なのだと、健太は気づいた。彼の完璧な立ち居振る舞い。それは美学ではなく、最適化の結果だった。


## 六


一ヶ月が過ぎた。


鏡の中の健太は、もう別人だった。整形で整った顔。引き締まった体。セリーヌのシャツ。サンローランの靴。


でも、それだけではなかった。


歩き方が変わっていた。話し方が変わっていた。笑顔が、仕草が、すべてが。


「まだ足りない」藤原は言った。


彼は健太に、五十冊以上の本を読ませた。心理学、マーケティング、恋愛術。そして、古典文学。


「女を落とすのに必要なのは、テクニックだけじゃない」


トレーニングの隙間時間には映画、ドラマ、アニメを二倍速で見た。毎晩、深夜まで本を読んだ。


そして二ヶ月目、ついにデビューの日が来た。


## 七


「今夜から、お前は『翔太』だ」


藤原は健太に、新しい名前を与えた。


エレベーターで三階へ降りる。扉が開くと、そこには満席の店内。照明、音楽、笑い声。


「VIPへ行け」


翔太は奥へ進んだ。個室。そこに三人の女性客。


「初めまして、翔太です」


彼女たちが歓声を上げた。


翔太は座った。シャンパンが開けられる。ドンペリニヨン。グラスに注ぐ。泡が勢いよく昇る。


「乾杯」


会話が始まる。


翔太は、何も考えていなかった。体が勝手に動いた。


笑顔。相槌。質問。視線。


すべてが自然に流れた。


二時間後、女性たちは帰った。


「また来るわ。翔太くん、指名するから」


その言葉を聞いて、翔太は初めて実感した。


これは、本物だ。


## 八


三ヶ月後、翔太は店のナンバーファイブになっていた。


六ヶ月後、ナンバーワンを獲得した。


毎晩、シャンパンコールが響く。女性客は列をなし、翔太を求めた。月の売上は二千万を超えた。


宣伝トラックのモニターに、翔太の顔が映るようになった。


「藤原竜一 presents KINGDOM No.1 翔太 月間売上2400万」


健太は、売れっ子ホストになった。作り物のような完璧なホストに。


でも、彼は知っていた。


これは藤原の作品ではない。


羨望の視線が作ったものだ。


女性たちが求める理想。それに応えるために最適化された存在。


店を出るとき、エレベーターに乗る。三階から一階へ。扉が開く。


外の世界では、朝の清掃員が路地を掃除している。コンビニの店員が商品を並べている。スーツ姿のサラリーマンが急ぎ足で駅へ向かっている。


彼らも、彼らの世界に最適となるように演じている。


清掃員として。店員として。サラリーマンとして。


翔太も、演じているだけだ。


## 九


そして一年が過ぎた。


翔太は、VIPルームで一人、グラスを見つめていた。マッカラン18年。氷なし。


鏡に映る自分。


完璧な笑顔。洗練された仕草。計算された視線。


すべてが、誰かに求められたものだった。


ドアが開き、藤原が入ってきた。


「どうした? 今夜も満席だぞ」


「藤原さん」翔太は振り向いた。「俺、売れっ子ホストになりたかったんです」


「なっただろう。お前はナンバーワンだ」


翔太は頷いた。


「なれました。役割を演じることも、できるようになりました」


藤原は黙って聞いていた。


「でも」翔太はグラスを置いた。「俺、この役割を求めてなかったんです」


「何が言いたい」


「ナンバーワンのまま、そのまま演じ続けられるのは、また別の役割なんだと思います」翔太は窓の外を見た。「芸能人だって、トップで居続ける人は多くない。藤原さんも、ホストのままでいられずプロデューサーになった」


藤原は煙草に火をつけた。


「同じ壁にぶつかったんじゃないですか」


しばらく、沈黙があった。


藤原は煙を吐き出した。


「お前も、プロデューサーになりたいのか」


「違います」翔太は笑った。「ホストの世界は、もう十分です」


藤原は窓際へ行った。


歌舞伎町のネオンが輝いている。


「やりすぎたな」藤原は小さく言った。


「え?」


「何でもない」


藤原はそう言うと、VIPルームを出ていった。


翔太は一人、グラスを見つめた。


泡は、もう昇っていなかった。


## 十


翌月、翔太は店を辞めた。


彼は新宿三丁目の、別の小さな会社に就職した。


データ入力ではない。営業職。


初めての営業先で、健太—もう翔太ではない—は緊張していた。


でも、不思議なことに、うまくいった。


藤原に叩き込まれた会話術。心理学。相手の心を読む技術。


それは、ホストクラブだけでなく、ここでも役に立った。


「田村さん、すごいですね。初契約じゃないですか」


同僚に褒められた。


健太は笑った。


これは、自分の力だと思えた。


自分で選んだ役割。


営業マンとしての自分。


それもまた、演じることだ。


でも、今度は自分で選んだ。


エレベーターに乗る。五階へ昇る。扉が開く。


オフィス。デスク。パソコン。


ここにも、役割がある。


でも、悪くない。


グラスに水を注ぐ。泡はない。


でも、それでいい。


鏡を見る。


整形した顔。


これが、今の自分だ。


## 十一


半年後、健太は歌舞伎町を歩いていた。


久しぶりに、KINGDOMの前を通った。


宣伝トラックが走ってくる。


モニターには、複数の顔。グループのような構成。


「KINGDOM チームK No.1 遥斗 月間売上2800万」


健太は、もう看板を見上げなかった。


その代わり、心の中で笑った。


藤原は戦略を変えたのだ。一人を育てきるのではなく、複数人を同時に育てて競わせる。グループ内で切磋琢磨させて、ビジネスとして長持ちさせる。


らしいな、と思った。


尊敬しつつも、あきれる。


でも、それが藤原だ。


健太は前を向いて歩いた。


職場の同僚と約束がある。居酒屋で飲む。


普通の会話。普通の笑い。


それでいい。


夕方、大久保周辺を歩く売れないホストたちとすれ違う。


彼らを見ても、もう羨ましくない。


ただ、同じ人間だと思う。


役割を演じる人間。


健太も、営業マンを演じている。


藤原も、経営者を演じている。


清掃員も、店員も、警察官も、やくざも。


みんな、何かを演じている。


新宿の夜空に、星は見えない。


でも、健太は自分の光を、ようやく見つけた。


誰かに求められた光ではなく。


自分で選んだ、小さな光。


それで、十分だった。


—了—

芥川龍之介の「芋粥」を元に、現代新宿だったらどうなるだろうと思いながら。

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