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「ありがとう。助かったよ、みぃくん」
結局疾太が朝食にありつけた時には、店の時計は十時を大幅に回っていた。
出勤していく人間とゆっくりお茶を楽しみに来た人間が入れ替わった店内は今、昨晩疾太が感じたゆったりと落ち着いた空気で満たされている。
「いつもどうやって回してるんですか、あれ……。食洗機、買いましょうよ」
カウンターに突っ伏した疾太は、瀕死状態で祥来に訴えかける。その声は祥来が手にした茶筅が抹茶を立てるシャカシャカという軽やかな音にかき消されそうなほどにか細い。
正直に言おう。
ナメていた。
──皿洗いがここまで過酷な労働だとは思っていなかった……っ!!
「昔、買おうかと思ったことはあったんだけどね。取り付けるにはスペースが足りないって、見積もりに来てくれた業者さんに言われちゃったんだ」
「じゃあ雇いましょうよ、従業員」
「うちの事情を考えると、下手な人間は雇えないよ。巻き込んじゃったら申し訳ないし」
「せめて結さんか姫さんを助っ人に……」
「結は学生さんなんだ。朝は忙しいんだよ。姫は、……まぁ、『姫』だからね。労働はしない主義みたいなんだ。夜行性だから、この時間帯はまだ寝ているし」
その言葉に、疾太はさらにガックリとカウンターに突っ伏す。
そんな疾太の前に、コトンと皿が置かれた。
「はい、お待たせ。蒼月の賄いプレートだよ」
その言葉に、疾太は残っていた気力の全てをかき集めて顔を上げる。
シンプルな白いプレートの上には、目玉焼きとレタスが盛られたトーストとサラダがお行儀よく乗せられていた。横に添えられた小さなマグカップの中にはオニオンスープ。よく見ればプレートの端には、飾り切りにされたフルーツの盛り合わせも同居している。
抹茶はどこに消えたのかと顔を上げると、鈴がお盆を手に軽やかにテーブル席へ向かっていく姿が見えた。どうやらあれは客注品であったらしい。
「祥来さんと鈴さんは、食べなくて大丈夫なんですか?」
「僕と鈴は、開店準備をしながらつまむんだ。あとは暇を見て、ちょっとずつね。だから大丈夫だよ」
「そうなんですか……。いただきます」
暇な時間帯なんてあるのだろうかと思いながらも、やんわりと『心配無用』と言われてしまえば、それ以上立ち入ることはできない。
まだきびきびと働いている鈴や祥来に申し訳ない気持ちはあったが、疾太は手を合わせるとトーストにかじりついた。
その瞬間、口の中に広がった旨味に、疾太は大きく目を見開く。
──え、美味い。
シンプルに塩とコショウで味付けされた目玉焼きが、トースト本来の甘みを上手く引き出していた。シャキシャキというレタスの歯ざわりがそこに良いアクセントを添えている。素朴な味わいだが、だからこそいくらでも食べられそうな気がした。
──確かにこの目玉焼きトーストのためなら、毎日でも通いたいかも。
「ところでみぃくん、今日は何か予定はあるの?」
疾太がトーストの美味しさに静かに感動していると、祥来は食器棚を開きながら何気なく問いを投げてきた。
疾太が顔を上げると、ちょうど鈴がフロアからカウンターの中へ戻ってきたところだった。新しい注文が入ったのだろう。鈴は伝票釣りに新しい伝票を挟むと、またフロアに出ていく。
「予定、ですか?」
祥来の言葉が意味するところを理解できなかった疾太は、祥来が口にした言葉をそのまま繰り返した。新しい伝票にチラリと視線を走らせた祥来は、食器棚から新しい器を取り出しながら根気よく疾太に語りかける。
「そう。何かあるのかな、と思って」
予定、とぼんやり考えてから、今日がまだ平日であることを思い出す。
本来ならばこの時間、疾太は学校に行っていなければならない。だが疾太が通っている高校は、この街の外にある。街から出られない今、疾太が学校に向かうことはできない。
「特にな……」
「特にないなら、このまま店を手伝ってもらおうかと思って」
力が入っていない声で答えようとした疾太と、言葉を付け足す祥来の発言が重なる。
その瞬間、疾太は考えるよりも早く力強い声を上げていた。
「あ、いえ! 生活に必要な物の買い出しに行こうかと思ってましたっ!!」
──いやいやいやいや! こんなん一日中続けてたら死ぬって!!
朝だけでもこれだけ疲れるというのに、ランチタイムやティータイムまで手伝うはめになったら死んでしまう。いや、肉体的にはすでに死んでいるらしいが、精神的な意味で。
「そっか。やっぱり、生活するには色々と必要だもんね」
ない予定を無理やりでっち上げた疾太を信じてくれたのか、あるいは嘘と察した上で受け入れたのか、祥来はいつも通り穏やかな表情で疾太の肯定した。
その上で祥来は、手がけていた抹茶を配膳台へ並べると、先程まで自分が向き合っていた作業台の引き出しへ手を伸ばす。
腰よりも低い位置にある引き出しを引いた祥来は、ウォレットチェーンが繋がれた財布を取り出すと疾太を振り返った。
「じゃあ、これ。結からみぃくんは財布を持ってないみたいだって聞いたから、用意してみたんだ」
「え?」
「戦盤に巻き込まれていなくても、この街は中々に治安が悪いから。財布を後ろのポケットに入れる時は、ベルトにしっかりチェーンを繋いでおくんだよ」
差し出された財布を、反射的に受け取る。
それから遅れて祥来と手の中の財布に交互に視線を向けていると、祥来はクスッと笑った。
「結もね、あれで結構責任を感じているみたいで。外身を用意したのは僕だけど、中身を入れたのは結なんだ。返さなくていいって言ってたよ」
祥来の言葉の意味が分からないまま、疾太は財布を開く。中には数枚の小銭と繁華街で使えそうなカード、そして万札が五枚ほど入っていた。
そのことを確かめた疾太は、思わず顔を跳ね上げて祥来を見つめる。
「でも……っ!!」
「当面のお小遣い。これで必要な物をそろえてくるといいよ」
結からこれほどの大金を受け取る理由がない。
そう断ろうとしたのに、祥来はサラリと話を打ち切るとシンクの前へ移動した。バベルの塔ができ上がる前に、今度は自分で洗い物をするらしい。
「いつ招盤がかかるかも分からないし、街の地理は覚えておいて損はないよ」
祥来は言葉を締めると、勢いよく蛇口を開ける。
あの場所で水を使い始めたら、疾太がいる位置からは何を言っても聞こえない。それは今朝、あの場所で洗い物と格闘していた疾太も知っている。
疾太は仕方なく財布をズボンの後ろポケットに突っ込むと、ウォレットチェーンをベルトに引っ掛けた。それから再び賄いプレートに向き直り、オニオンスープをすする。
祥来の料理は、やはりどれも美味しい。玉ねぎの甘味がしみ出たオニオンスープは、体に染み渡るような優しい味をしていた。
疾太はサラダもフルーツも、噛みしめるように丁寧に食べた。手の込んだ料理ではないはずなのにやたら美味しく感じられるのは、心境のせいもあるのかもしれない。
「御馳走様でした。あの、お代は……」
「みぃくんから取るつもりはないよ。手伝ってもらったしね」
しっかり完食した疾太は、己の手で空いた皿をシンクの傍まで運んだ。自主的にカウンターの中に入ってきた疾太に気付いた祥来は、一度手をすすいで泡を落とすと、おもむろに自身の左耳へ両手を運ぶ。
「外へ行くなら、これを渡しておくね」
その手を、祥来はそのまま疾太の方へ差し出した。シンクの中に皿を置いた疾太が祥来の手の中へ視線を落とすと、はめ込み式のピアスが片方だけ乗せられている。恐らく数秒前まで祥来の耳につけられていた物だろう。
「お守り」
疾太は祥来の手からピアスを拾い上げると、光に透かすように眺める。
緑の石がはめ込まれた、控えめで上品なものだった。だが控えめであろうとも上品であろうとも、着物姿で終始穏やかな祥来が『ピアス』というものを身につけている印象がなくて、疾太はまずそのことに目を瞬かせる。
耳元から取り外したように見えただけで、実は穴はあいていないんじゃないかと思わず反対側の耳を見つめてみたら、髪で隠れていただけで祥来の耳には確かにピアスがはめられていた。
──こういうのって、パンクでチャラい人がつけてる物だと思ってた……
思えば周囲の学生にそういう系統の人間が多いというだけで、純粋なオシャレであけている人だっているだろう。自分に縁がないからと変な先入観を持つのは良くないことだと、疾太は己の認識を改める。
その上で、疾太は口を開いた。
「あの、もらっても……」
「あぁ、鏡がないとつけられないか」
穴はあいてないんです、と続けようとしたのに、祥来は疾太が言い終わるよりも早く疾太との距離を詰めた。
右手で疾太の手からピアスを拾い上げた祥来は、疾太が何かを言うよりも早く左手でサラリと疾太の髪をかきわける。
「一穴あいているのは知っていたから、ちょうどいいと思って」
「え?」
さらに続けられた予期せぬ言葉に、疾太はもう一度目を瞬かせた。
その間に、カチリと金具がはまり込む感触が、疾太の耳朶をくすぐる。
「はい、できた」
疾太は思わず右耳へ手を伸ばした。
耳には確かに、ピアスが止まっている。だがはめられた瞬間、痛みは全く感じなかった。
──穴なんて、あけた覚え、ないのに……
「お守りって、……僕がもらって、いいんですか?」
頭の中では動揺を転がしながらも、口からは存外落ち着いた声が漏れていた。だがそんな疾太の内心を知らない祥来は、元の間合いに戻ると穏やかに笑う。
「うん、みぃくんに持っていてもらいたいんだ。僕はこの店からほとんど出ないし、いざという時には鈴がいるからね」
その言葉に答えるかのように、リリンッとフロアから音が響いた。顔を向けると、鈴が『呼んだ?』とでも問いかけるかのように、こちらを見て首を傾げている。
「気をつけて行ってきてね」
それに手を振って『何でもないよ』と示した祥来は、疾太に微笑みかけると洗い場へ戻っていった。
「あ、……はい」
それ以上会話を続けられなかった疾太は、曖昧な返事をして、カウンターを後にした。




