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『生屍は眠らない』とは聞いているが『生屍は腹は減らない』とは聞いていない。
思い返せば昨日の夜は、歓迎会という名の夕食を途中で離脱してしまっている。口にしたのは唐揚げ数個とわずかなサラダ。その量を思えば、腹が減るのは当然のことだ。たとえ疾太が死んでいるのだとしても。
──蒼月って、『茶房』ってことは……喫茶店、ってことで、いいんだよな?
疾太は思わず自分の部屋のフローリングを見つめた。もちろん透視なんて真似はできない。だが疾太の意識はこの階下にある店に向けられている。
営業開始が何時かは知らないし、そもそもあの茶房が正しく喫茶店であるのかも分からない。だがあそこには食べ物があって、この部屋には食べ物がない。そのことだけは間違いのない事実だ。
疾太はヨロヨロと立ち上がると、廊下を抜けて玄関へ向かった。靴をつっかけながらふと靴箱の上へ視線を向ければ、小さなネームタグがつけられた鍵がひっそりと置かれている。恐らくこの部屋の玄関の鍵だろう。
疾太は鍵を後ろポケットに突っ込むと、鍵をしめることなく階段へ向かった。我ながら危なっかしく階段を下り、突き当りの扉を開き、さらにその正面にある扉を開く。
「おは……」
その瞬間押し寄せてきたのは、『雑音』よりも『騒音』と表現した方が正しい音の塊だった。
その勢いに疾太は思わず後ずさる。
「ふぇっ!? へぁ?」
昨日の静けさは何だったのかと言いたくなるくらい、扉の先の空間は活気にあふれていた。
縦に長い店内は、食事をする客、会計のために出ていく客、空いた席に向かう客と、とにかく人で埋め尽くされている。
昨晩店を満たしていた落ち着いた空気は、一体どこへ押し出されてしまったというのだろうか。内装もテーブルの配置も何ひとつ変わっていないはずなのに、とてもじゃないが同じ店の中とは思えない。
「ああ、おはよう、みぃくん」
衝撃に固まる疾太に、穏やかな挨拶が投げかけられる。騒音の壁が間にあっても不思議とよく聞こえる声に視線を投げれば、カウンターの中にいる祥来が声同様に穏やかな表情を疾太に向けていた。
──いや、そんな呑気に挨拶をしている場合じゃないのでは?
明らかに店内は修羅場と化しているのに、祥来からはなぜか余裕さえ感じられる。この状況の中に置かれていると、逆にその余裕が恐ろしい。
「店は朝の六時からやってるんだ。通勤前に来てくれるお客さんが多いから」
疾太は思わず壁に掛けられた時計に視線を投げる。時計の針はまだ七時前を指し示していた。開店してから一時間でここまで繁盛するとは、一体どれほどの人気があるのだろうか。
「みぃくん! おはよう!!」
思わず圧倒されて扉を押し開いた手もそのままに固まっていると、リリンッとにぎやかしい鈴の音とともに鈴が姿を現した。金色のツインテールを翻して進む鈴は、こんな早朝でも元気いっぱいだ。
そんな鈴が、笑顔のまま手にしていた何かを疾太に向かって差し出す。
「はい、これお願いね」
「え?」
「鈴ちゃん、ちゅ~もん!」
「はいは~い!」
突き付けられた物を、疾太は考えるよりも早く脊髄反射で受け取っていた。客に呼ばれた鈴が人波の向こうに消えてから、それが下げられてきたお皿の山だと理解が追いつく。
そして思っていた以上に山が重いことにも、遅れて気付く。
「のぁっ!?」
「みぃくん、ごめん。それはシンクに置いてくれるかな?」
腰を入れて、体勢を整える。支えを失ったドアがパタンと閉まる音が背後から聞こえてきたが、もう疾太にはそれを気にしていられる余裕がない。
「こ、ここですか……というか、どこですかっ!?」
疾太はヨロヨロとカウンターの中に入ると、祥来が指示した場所へ歩み寄る。
だが祥来が示した場所に、シンクはなかった。……より正確に言えば、シンクらしきものは、下げられてきた食器類で埋まっていた。
「これ、マズイですよねっ!? 食器、足りなくなるんじゃないですかっ!?」
「うん、そろそろマズイね」
食器で作られたバベルの塔の上にかろうじて手にしていた食器を重ねたが、その塔は疾太が触れた衝撃を受けてユラユラと不気味に揺らめいている。積み上げるのもそろそろ限界だ。
だというのに、疾太が危機を訴えても、祥来がこちらへ向かってくる気配はない。
「ちょっと、祥来さ……」
不満の声を上げながら視線を向ける。
そんな疾太の前で、祥来は調理台に並べられる限界まで皿を広げてトーストを盛りつけていた。たすきと前掛けで動きやすさを確保していても和装姿であることに変わりはないのに、その動きは目を疑うほどに速い。おまけに優雅ささえ感じさせるほどになめらかだ。
──こ、これがプロの動き……!
思わず感心する疾太に構わず、まったく無駄のない動きでモーニングプレートを仕上げた祥来は、間髪を容れずに完成した皿を配膳棚に並べていく。コココンッ! と棚板に刺さるのではないかと思うほど鋭い音を立てながら並べられた皿は、並べられた端から鈴によって運ばれていった。
祥来が配膳棚に全皿を並べ終えた一拍後には、すでに配膳棚は空になっている。それだけのスピードで注文がさばかれているのに、祥来の前に吊られた伝票の数は減らない。それどころか増えていく。
それをまぶたが閉じられたままの瞳で眺めた祥来は、食器棚から新たな皿を取り出すと、先程と変わらぬ動きで調理台に並べた。
──え? こんなに忙しいのに、二人だけしかいない? 結さんと姫さんは……
今更気付いた事実に、疾太はキョロキョロと店内を見回す。だがどれだけ探してみても、結と姫の姿は店内にはなかった。厨房を祥来が、フロアを鈴が、それぞれ一人で回している。
そしてそのどちらにも、明らかに余裕はない。
「…………」
疾太はもう一度シンクに視線を落とすと、溜め息をつきながらシャツの腕をまくった。
──さすがにこの状況は、ちょっと、……なぁ?
見て見ぬフリができれば良かったのだが、この状況で『お腹がすいたので、何か食べ物を恵んでください』と口にできるほど疾太の神経は図太くない。外で調達しようにも、巻き込まれたあの時に財布を落としてしまったのか、疾太は今一円玉の一枚さえ持ち合わせていなかった。
というよりも、この危機的状況を放置して立ち去れるような図太さも、幸か不幸か疾太は持ち合わせていない。
──働かざる者、食うべからず。
その有名な格言を胸中で呟いてから、疾太は気合いとともに皿の山に手を伸ばした。




