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いつの間にか日が沈んでいた街に人気はなく、薄汚れた街灯が気だるげに明かりを灯している。そこにわだかまる闇は、疾太が知っているものよりもドロリと濁った色をしていた。
六ツ川、環状道路七号線、二見バイパス、四谷鉄道。
昼間、結が示した境界と、茶房・蒼月の位置を頭に思い浮かべる。
蒼月は街の中心から見て北東エリアに立地している。東の境界・環状七号線ならば、走ればすぐにたどり着ける位置にあるはずだ。
──出ていけばいいんだ。こんな場所からは逃げちゃえばいいんだっ!!
荒く切れる呼吸の下で、疾太は引き攣れたように笑っていた。
今日、疾太は環状七号線を越えてこの街に入った。何てことない、いつも使っている道だ。それがいきなり使えなくなるはずがない。
環状七号線を越えて外に出られさえすれば、後は近付かなければいいだけの話だ。近付きさえしなければ、こんな世界とは縁が切れる。四方四キロを迂回するのは面倒なことだが、ただ面倒であるだけで不可能であるわけではない。
「っ……はぁっ! はぁ……っ、はぁ……っ!」
裏路地から、表通りへ。表通りから、さらに大きな通りへ。
疾太もよく使っている繁華な通りは、こんな時間でも人であふれていた。だがその見慣れた光景も、今の疾太にとっては焦燥をあおる材料でしかない。
「……っ、はぁ……は……はぁっ………」
人混みが途切れ、やがて疾太の足が緩やかに止まる。
対向三車線同士が、左右に気が遠くなるほど先まで直線で走っていた。決して遅いと言える時間ではないはずなのに、計六本あるレーンに車は一台も走っていない。
環状道路七号線。通称、環七。
この街を仕切る東の境界の前に、疾太は立っていた。
「……っ、何が、境界だよ」
『環状線』と銘打っていながら、疾太の目の前に横たわった道路ははるか彼方まで直進していた。どこでどう曲がって環状になっているのかは知らないが、『環状』と冠している以上、この道路に果てはないのだろう。
「何が、越えられないんだよ」
目の前に横たわるアスファルトに向けて。自分の足元から伸びる白いストライプに向けて。その先に見える赤と青のコントラストに向けて。
疾太は歪んだ笑みを向けた。
「こんなの、ただの道路じゃないか……!」
嘲笑とともに吐き捨てて、一歩足を前へ踏み出す。
その動作に異常は感じない。心臓はどこまでも静かで、視界はいつになく明瞭だ。
「道路ごときが、人間の動きを阻めるわけ、ないんだよ……っ!」
二歩、三歩、四歩。
そこまで数えて、数えることをやめる。
歩調はいつの間にか、蒼月を飛び出した時の勢いを取り戻していた。疾太の顔に浮かぶ笑みが、歪んだまま深くなる。
「ほら、やっぱり……っ!」
疾太の足が、センターライン上に作られた退避レーンを踏む。
その瞬間、疾太の足が止まった。
「……っ!!」
疾太の動きを遮るような物がそこにあったわけではない。視界は相変わらずクリアなままで、手を伸ばせば指先は目の前に広がる空をかく。
だが疾太の足は、その場に縫い付けられたかのように動かなくなってしまった。
「っ……」
突然のことにバランスを失いかけて、足が一歩後ろへ下がる。
その一歩分は、確かに動いた。だが再び足を前へ踏み出そうとしても、疾太の足はまた同じ場所でピタリと止まってしまう。
「っ……ぅ……!」
二歩後ろに下がって、足の止まったラインを飛び越えようと助走をつける。
だがどの位置で踏み切ろうと、どれだけ助走をつけようとも、越えられないラインに変化はない。
「っぁ、あ……あ…………っ!!」
──本当は、分かっていた。
結の言葉は、嘘偽りのない『事実』で。
自分はこの境界を、越えられないのだと。
分かっていて、認めたくないだけ。これは最後の悪あがき。自分に訪れた非日常な現実に、無意味な抵抗をしていただけ。
「うぁぁぁぁぁあああああああああっ!!」
非現実な日常に引きずり込まれてから、自分がずっと胸中で同じ問答をしていることを自覚している。問いつくされたその問答に答えが出ないことも、今日一日で分かってしまった。
目の前に、ただ『現実』だけが転がされている。
それを否定したくて、言葉を並べ立てて、証拠を得ようとして、こんな所まで来た。
でも本当は、こんなことをしなくても、これが現実だということだけは、痛いほどに分かっている。
だって、自分の中に、これ以上ないと言えるほどの証拠があるのだから。
「何で……」
これだけ激しく動いて息も上がっているというのに、心臓はピクリとも動いていない。
どうしてそんな『非日常』が『現実』として自分の中にあるというのに、これが現実ではないと言えるのか。
あとは疾太さえ認めてしまえば、これが立派な『現実』なのだ。
「何で、っ、……何で僕なんだよっ!? 何で、何で何で……っ!!」
それでも疾太は、この現実を理解することを拒絶する。
「僕がいつ自分の日常に不満なんて言ったんだよっ!? 何で僕の日常がこんな訳の分かんない展開になんなきゃいけないんだよっ!? 誰がこんなもんを求めたっていうんだよっ!!」
認める、ということは、すなわち。
『自分がすでに死んでしまっていること』を、認めるということだから。
「返せよ……っ! 僕の日常を返せ……っ!」
膝から力が抜けて、体がアスファルトの上に崩れ落ちる。その衝撃で涙が飛び散ったのが分かった。
声の限り叫んでも、それを聞く人間は誰もいない。繁華街と直結しているはずなのに、この一角は不自然なほどに人影がなかった。
「何で僕が、殺されなくちゃいけなかったんだよ……っ!」
「おや? キミは非日常に焦がれていたのではないのかな?」
あるいはそれは、『彼』がその場にいたからかもしれない。
「おかしいな。『戦盤』は、争いを厭うNPCをゲームに巻き込んだりはしないはずなんだけど」
第一印象は、『白い』だった。
白い大きな野球帽に銀色の髪。帽子と髪で顔の半分が隠れていても白いと分かる肌。極薄くクリーム色が入った、限りなく白に近いダブダブのパーカー。白のカーゴパンツと、一本だけ黒いラインの入った白いスニーカー。
「ねぇ、キミは本当に、争いを求めてはいなかったの?」
白い人は、まるで宙に浮いているかのように、ふわり、ふわり、と疾太の前までやってきた。
実際には、足はきちんと地面を捉えていて、浮いてなんかいない。だがその歩みは、まるで重力から解き放たれているかのように軽やかだった。
「だったら、悪いことをしちゃったかもね」
その言葉に疾太はノロノロと顔を上げ、ようやく彼の存在を認知した。
空気の間からにじみ出てきて、そのまま空気に溶けていきそうな。それくらい存在が希薄なその人は、視線を外した瞬間から消えていなくなりそうなくらい、視界に入っていてもどこか厚みを感じさせない。
それでもなぜか疾太は、彼を見た瞬間、背筋を滑り落ちていく戦慄を覚えた。
「あなたは……?」
バグのように外見が異端であるわけでも、結のように特殊能力を見せつけられたわけでもない。
それでもなぜか、彼は自分と違う次元に立っている存在であるのだと、本能的に突き付けられたような心地がした。
「僕は、……うーん、そうだね。『カミサマ』とでも名乗っておこうか」
恐怖と呼ばれる類のものは感じない。だというのになぜか『彼に近付いてはならない』と疾太のどこかが警鐘を鳴らしている。
そうでありながら、疾太の体はまったく動いてはくれなかった。
まるで体のどこかに穴が空いていて、そこから力という力が全て流れ出てしまっているかのような。そんな感覚が疾太の全身を支配している。
「キミを戦盤から出してあげる方法が、ないわけではないんだけど……」
ただ呆然と彼を見上げることしかできない疾太の前で、『カミサマ』と名乗った少年は足を止めた。野球帽の下に隠された瞳が、疾太に向けられているのが分かる。
少年は両手を腰の後ろに回すと、そのまま上半身を前へ傾けて疾太の顔を覗き込んだ。サラリと銀の髪が揺れて、その下に隠されていた瞳が露わになる。
「でも今は、まだ早いかな? キミは、自分という存在の意味を知るべきだ」
「え?」
少年の瞳は、深い青色だった。その青はぼんやりと燐光を纏っているようにも見える。
どこかで見たことがある瞳だな、と思い返してみたら、能力を発現させた時の結の瞳に似ていることを思い出した。
少年は何もかもを覚ったような笑みを口元に浮かべると、スッと体を引いた。その代わりに片手を伸ばして疾太の顔の前にかざす。
「……あぁ、キミは『-B/M』の子なんだね? あそこはいいチームだよ。……今はまだ、そこにいた方がいい」
少年は手を引くと、もう一歩疾太から遠ざかった。
「僕はキミという存在を把握していなかったし、キミという存在が持つ存在理由も把握していない。でも、いずれキミは自分という存在の意味を、自ずと理解するはずだ」
少年の姿が、ぼんやりと視界から霞んでいく。声だけは変わらず、まるで耳元でささやかれているかのように朗々と聞こえているのに。
「どうやらお迎えが来たみたいだ。また会える時を、楽しみにしているよ」
気付いた時には、白い少年の姿はどこにも見あたらなくなっていた。
ぼんやりとした街灯は気だるい闇を強調している。パカパカと青信号が瞬いても、六車線の道路は車が一台も走ってこない。
「僕は……」
まるで、白昼夢に遭ったかのような。
だが白昼夢と呼ぶには不釣り合いなほど、彼は疾太の中に言葉を刻み込んでいった。
「『自分という存在の意味』……って」
──僕は、ただのごくごく普通の一般人で。この世界には、無理やり巻き込まれただけで。
そんな疾太の思いを否定するような言葉を、彼は残していった。
──僕は……
胸中で呟いてみても、それに返せる言葉はない。
「みぃくん」
どれだけ膝をついたまま考え込んでいたのだろうか。
呼び声に我に返った時も、周囲に人影はなかった。
ただ一人、今の疾太と同じ世界に生きる人物が、……疾太をこの世界に巻き込んだ張本人が、街灯の光をスポットライトのように浴びながら、そこに立っていた。
「……帰ろう?」
「どこに、ですか。あそこは、僕が帰る場所ではない」
無意識のうちに紡がれた言葉に、結は瞳を陰らせた。今は焦げ茶色になっている瞳から感情をうかがうことはできない。
結はゆっくりと疾太の方へ足を踏み出しながら、色素の薄い唇を動かした。
「環七、神無無……ここは、神が死ぬ所」
結が隣に並んでも、疾太は膝を上げることができなかった。
……いや、違う。
疾太は、自分の意志で、膝を上げることを拒んでいる。
「みぃくんは、この先の景色を知っているんだね」
そんな疾太を、結は無理やり立たせようとはしなかった。自然体のまま疾太の隣に立ち、疾太と同じように環状線の向こうへ視線を向ける。
「ここを簡単に越えていけるなんて、うらやましい」
その言葉に、疾太は言葉を返すことができなかった。
そんな疾太の隣に、結はいつまでもたたずんでいた。