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「……で?」
「ん?」
「んん?」
「どうしてこんな状況になってんですかぁっ!?」
疾太の絶叫が、『CLOSED』の札がかかった茶房・蒼月に響き渡る。
だが場に集った面々は、ワンッとエコーがかかったかのように響く疾太の叫びを受けても誰も動じていない。疾太の隣に身を乗り出した鈴はキャッキャッと幼子のようにはしゃいでいるし、疾太を挟んで鈴の反対側に座った結はしれっとした顔のままストローでりんごジュースをすすっている。
その結が、冷静に口を開いた。
「みぃくん、そういきらずに」
『リンゴジュース飲む? 美味しいよ?』と結は平坦な口調で問いかけながら疾太をなだめる。
ちなみに『飲む?』と訊ねておきながら、結がグラスを差し出す気配はない。新しいグラスを用意しようとする気配も感じられない。どうやら今のは見え透いた社交辞令であったらしい。
──確かに『たかがリンゴジュース』とは言えない美味しそうな香りがしてるけども。
結のグラスから漂う芳醇なリンゴの香りは、明らかにそこら辺で売っているリンゴジュースとは一線を画すものだ。恐らくコンビニで売っているような安物のリンゴジュースとは格が違う代物なのだろう。
だが、それとこれとは全く別問題である。
「どんな経緯であれ、みぃくんはもう『-B/M』の一員だし、今後ここで生活してもらうわけだからね。歓迎会をしなくちゃと思って」
「歓迎会! 歓迎会だよ!!」
カウンターの中に立ち、テキパキと料理を作っている祥来が、瞼を閉じたまま穏やかに笑う。
その言葉にはしゃいだ声を上げるのは、もちろん鈴だ。姫は疾太達が座るカウンターから一番離れた座敷の隅で、面白くなさそうにそっぽを向いている。
「僕はこの現実を受け入れたつもりはありませんっ!」
そんな目の前の光景の全てに噛み付くように、疾太は声を荒げた。
「それに『今後ここで生活する』って何ですかっ!? 勝手に決めないでくださいっ!!」
「だって、仕方がないじゃないか、みぃくん。『戦盤』に巻き込まれた人間は、この街から出ていくことはできないんだよ?」
「っ、それは……! 聞きましたけどっ!!」
結に現実を突き付けられ、『バグ』と呼ばれる肉塊達の奇襲も受けて。心も体も疲れ果てて、疾太は蒼月に戻ってきた。
そんな疾太を出迎えたのは『歓迎会なのだよーっ!』という、鈴の底抜けに明るい声だった。鈴の音を撒き散らしながら子犬のように疾太にじゃれつく鈴に連れ込まれるがまま店のカウンターに座らされた疾太は、それからずっと訳が分からないままここに座っている。
「出られないってことは、この街の中で生活していかなきゃいけないってことだよ」
疾太がどれだけ声を荒げても、祥来の穏やかな空気が乱れることはない。逆に疾太のペースばかりが乱れていく。
「『この街』の範囲の定義、結から聞いた? みぃくんの家は、この街の範囲内なのかな?」
変わることなく穏やかに紡がれた問いに、疾太は思わず口ごもった。
北を六ツ川
東を環状道路七号線
南を二見バイパス
西を四谷鉄道
それぞれに仕切られた、四方約四キロメートル、ほぼ正方形の街。その範囲内が『戦盤』として定義されているらしい。
あの屋上でバグに襲撃された後、魂が半分抜けた状態の疾太に、結は遠くに見えるその目印達を指差しながらそう説明していた。『戦盤』でプレイするプレイヤー達は、目印で区切られた外に出ることができないとも、確かに言っていた。
もちろん、疾太の家はその範囲の外にある。祥来と結の話が確かであるならば、疾太は家に帰ることさえできない。
「みぃくんは結を契約主とする生屍だから、自動的に『-B/M』所属のプレイヤーとして戦盤に認識されてしまっているんだよ」
『もちろんそんなことがなくても、僕は喜んでみぃくんのお世話をさせてもらうつもりだけど』と続けた祥来は、瞼が閉じられたままの双眸を疾太に向けながら、苦笑するかのように目尻を下げた。
「他に借家のアテがあるなら、無理強いはしないよ? でも、安全面でここ以上にお勧めできる物件は、そうないかな?」
もちろん、アテなんてあるはずがない。
それを承知の上でこんな物言いをする祥来は、見た目の穏やかさに反して性格が悪いに違いない。
「……安全面でって、何ですか」
結局、疾太は祥来に問いを向けることしかできなかった。不機嫌丸出しの口調は、せめてもの抵抗のつもりだ。
「結からゲームの内容については、聞いたかな?」
疾太の口調にあからさまな険が増しても、祥来の穏やかさは陰ることがなかった。
話を聞く限り『戦争』や『ゲリラ戦』と言った方が正しい事柄を『ゲーム』と言い表した祥来は、完成した大盛りの唐揚げをカウンターに出しながら穏やかに続ける。
「何と戦うのか、そして、いつ戦うのか」
「……バグやプレイヤーと、戦盤に呼ばれた時に、でしょう?」
「うん、基本的にはね。だけどね、そこに『戦盤に呼ばれていない時は他のプレイヤーと戦ってはいけない』というルールはないんだよ」
──それは、うっすらと聞いたような気が……
確か、マンションから帰る時に、何かの話の流れで結が言っていた。『「-B/M」のメンバーは、自分から喧嘩を吹っ掛けるような真似はしないけど』と。
「日常生活の中でも襲われるかもしれない。それは何も、家の外に出ている時に限った話ではないんだ」
『えっと、つまり、どういうことだ?』と、一旦不機嫌を横に置いて疾太は思考を回す。
祥来の言葉は穏やかで丁寧ではあるが、少々遠回しが過ぎる。『面白くない現実を受け入れたくない』という気持ちが働いているせいもあるが、スラッと話を理解することが難しい。
「寝込みを襲われたとか、本拠地ごとチーム全員消されたとか、そういう話だってあるんだよ」
「つまりね、みぃくん」
そんな疾太の様子を察しているのかいないのか、祥来の言葉を結が引き継いだ。
その間にカウンターを出た祥来は、数個取り分けた唐揚げの小皿とこんもり野菜が盛られたサラダボールを手に、姫がいる座敷へ歩み寄る。その姿は疾太が知っている世界にもごくごく普通にいた、飲食店の店員さんそのものだ。
「一人で住みたいなら、自分の身を守れるくらいの技量は最低でもないとダメってこと」
だがこの空間に飛び交っている言葉は、そんな日常からかけ離れたものだった。
「『-B/M』のメンバーはみんなこの建物の上の階に住んでるから、ここなら何かあっても私達が守ってあげられる。祥来が言う『安全面』って言うのは、そういうことだよ」
少なくとも疾太の日常には、『一人暮らしをしたいならば、戦闘面で我が身を守れるだけの技量は必須』などという話題は転がっていない。
──どうして。
また同じ言葉が、疾太の胸中に転がる。
──どうして、どうして、どうしてっ!!
「みぃくん、ちなみに格闘技の経験は……」
「っ、あのっ!!」
我慢の限界だ。
疾太は勢いよく席を立つと、店にいる全員を睨みつけた。
そんな疾太に、結と鈴はキョトンとした顔を向ける。対して姫と祥来は、先程と何ひとつ変わらないそれぞれの表情で疾太に視線を向けていた。
──そっちの事情ばっかり押し付けられて、もう我慢の限界なんだよっ!! ふざけんなっ!! いい加減にしろっ!!
「……っ」
胸の内に溜め込んだ怒りを今度こそぶちまけようとしたのに、口にしようとしていた言葉が止まる。
結と鈴の表情に含まれているのは、純粋な疑問。祥来の表情は何ひとつ変わらず穏やかなまま。姫の冷ややかな表情は、実験動物を冷静に観察する科学者のようで。
そのそれぞれの表情を理解した瞬間、スッと疾太の背中を冷気が撫でていったような気がした。
──この空間の中で明らかに異常なのは、僕の方だ。
全員の表情を一瞬で理解できてしまった疾太は、同時にそのことも理解してしまった。
疾太を奮い立たせていた何かが、急速に消えていく。
「……っ、あの……」
疾太はモゴモゴと口ごもりながら、目の前にいる鈴から視線を逸らした。
「お、お手洗いに、行きたいんですけど……。どこ、ですか?」
──もう、消えてしまいたい。
情けなさに、そんな思いが胸を過ぎる。
だが店の中にいた人間達は、羞恥に歪んだ疾太の表情を勝手に別の意味で解釈したらしい。緊張がほどけた人間特有の笑みが、皆の顔に浮かぶ。
「奥の扉を入って、右手側だよ」
「あ、ありがとうございます……」
祥来が指差した扉を、疾太はうつむいたままくぐった。
本当は手洗いなんて行きたくもない。だがとっさの発言を誤魔化すためには、行動せざるを得なかった。
──なっさけな……
店と店裏を仕切る扉を後ろ手で閉めて、ズルズルとそのまま扉へもたれかかる。
店の中では鈴がまた何かにはしゃいで、鈴の音を撒き散らしていた。それに結が何か言っている。その音を、疾太は妙に遠く感じていた。
──僕は、どうして……
こんな場所にいるのだろう。一体、何をしているのだろう。
自分の心境と耳に届く陽気な音とのギャップに、疾太はまたそんなことを思った。
──今朝まで知りもしなかった場所で、こんな風に歓迎会なんてされて。ここに住め、なんて言われて……
今朝の自分に、何か変わったことなどあっただろうか。
いつも通りに起きて、いつも通りに支度をして、いつも通りに家を出たはずなのに。
──でも、その『いつも通り』って、何なんだろう?
不意に、そんな言葉が、脳裏を過ぎっていった。ぽっかり空いた心の虚からこぼれ落ちた言葉は、妙にストンと収まり良く疾太の胸に落ちてくる。
さらにあふれる言葉はそれだけで留まらず、割れたガラスのようにバラバラと疾太の耳の奥に落ちてきた。
【 僕は一体、 】
【 今までの日々を、 】
【 どう『いつも通り』に 】
【 すごしてきたんだっけ? 】
「 、……っ!? ────っ!!」
その、声とも音ともつかない、誰の物とも分からない言葉に、疾太の全身が音を立てて凍りつく。
いきなり氷水に突き落とされたかのように、全身が冷気で縛り上げられたような心地がした。そうでありながら背筋には悪寒が熱となって駆け上がっていく。
まるで自分自身が、自分の知らない『何か』に書き換えられていくのを知ってしまったかのような。
そんな感覚に、体の震えが止まらない。
──そんなはずはないっ!! 僕は僕だっ!!
得体の知れない恐怖に、勝手に息が上がっていた。『日常生活』とインプットされていた記憶が、扉の向こうに広がる店の中よりも遠くへ流されていく。
「っ!!」
【 モウ コレ以上
ココニイテハ イケナイ 】
疾太の警鐘が割れんばかりに音を鳴らす。
その音に叩かれたかのように、疾太は顔を跳ね上げた。
左右を素早く見回した目が、暗闇の中でぼんやりと緑に光る『非常口』という表示を捉える。
その下にある『Staff Only』の札がかかった扉を押すと、不用心なことに鍵はかかっていなかった。
物置として使われている部屋なのだろう。シーズン小物などが雑多に詰め込まれた小さな部屋の突き当りには、無骨な鉄の扉が取り付けられている。
その扉の向こう側は建物の裏路地に続いているのか、鉄格子がはめ込まれた窓からはうっすらと光がこぼれていた。ここからならば、店側にいる人間に気付かれずに逃げ出すことができるかもしれない。
疾太は素早くその扉に飛びつくと、慎重にドアノブをひねった。その武骨さに反して、ドアノブはスルリと滑らかに回り疾太へ道を譲る。
大した動きもしていないのに切れる呼吸を持て余しながら、疾太はそっと裏路地へ出るとドアを閉めると、なりふり構わず裏路地を走り出した。