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……ということにできたら、どれだけ幸せだったのだろう。
「生屍は、眠らない。というより、眠れない」
隣を歩く事の元凶が、無表情のまま口にする。
彼女は疾太に『結』と名乗った。深紅は名乗らないままあの場から姿を消したが、周囲の人間に『姫』と呼ばれていることは、会話の流れから理解した。本名なのか、あの高飛車な態度から取られたあだ名なのかは、疾太には分からない。
「……考えを、読まないでください」
「読んだんじゃない。みぃくんが、無意識のうちにぼやいてるから、それが勝手に聞こえるだけ」
結は前に向けていた視線をチラリと疾太に投げた。
『みぃくん』というのは、喫茶店のマスターである祥来が『三五疾太』という疾太のフルネームを聞いて勝手につけたあだ名である。承服したつもりはなかったのに、疾太が唐突に突き付けられた話に混乱している間に定着してしまったらしい。
疾太は勝手に内心を漏らしていた唇を一度引き結ぶと、今度は自分の意志で言葉を紡いだ。
「それで? 結さんは僕をどこへ連れていくつもりなんですか?」
あの喫茶店……茶房・蒼月で、疾太はようやく、自分がどういう状況に置かれているかを理解した。
いや、正確に言えば、『知り』はしたけれど『理解』はできていない。
「みぃくんに、手っ取り早くこの世界のことを理解してもらおうと思って」
茶房のマスター、祥来によると、今の疾太は、生きているのか死んでいるのかで言えば、間違いなく『死んでいる』らしい。
心臓は停止しているし、肺も発声のために動いているのであって、ガス交換の役割は果たしていないのだという。脳も、一度は完全に機能を停止した。
だが疾太は今、こうして動いていて、思考もしている。その全ては結が勝手に交わした『契約』のおかげで、今の疾太は結を主とした『生屍』と呼ばれるモノである、らしい。
「この世界って……」
そんなことをいきなり説明された所で、到底理解できるはずもない。
だってここは現代日本で、ラノベの中でもなければゲームの中でもない。もちろん、漫画の中やドラマの中でもない。そんなふざけた設定をいきなりぶちまけられたところで、『はい、そうですか』と大人しく呑み込めるはずもない。
「みぃくん。蒼月で祥来も説明したけれど」
ひたすら道なりに歩いていた結は、ごく普通のマンションの中に我が物顔で入っていった。今時珍しいことにオートロックのないマンションで、疾太と結は誰にも何にも見咎められることなくマンションのエレベーターに乗る。
「ここは世間一般で言う、『現代日本』じゃないんだってば」
結が一番上にあるボタンを押すと、エレベーターは微かな音を立てながら上昇を始める。
安っぽい電光が数字を上げていくのを眺めながら、結は腕を組むとローファーの爪先で一度床を叩いた。
「というよりも、どちらかと言えば、みぃくんの言う『ラノベやゲームの中の世界』に近い」
「それを、どう信じろって」
「みぃくんだって、見たでしょう? あの肉の塊」
「ああ。ムカデカマキリ肉?」
「そのネーミングセンスは、どうかと思うけれど」
結が呟くのと電光と同じくらい安っぽい電子音が響くのは、ほぼ同時だった。億劫そうに開いた扉を、結は颯爽と通り抜ける。
「とりあえず、みぃくん」
マンションは十二階建てだった。疾太はこの街に詳しいわけではないが、街中を歩いてきた感想から言えば、このマンションはこの辺りでは結構高層住宅に入るのではないかと思う。
その最上階に降り立った結は、さらに上を目指して非常階段へ向かった。
──ちょっ!? ちょちょちょ……!
不法侵入者がさらに『関係者以外立入禁止』という看板を堂々と無視して非常階段を上っていく。そんなことをして本当に大丈夫なのかと、疾太は思わず周囲をきょろきょろと見回してしまった。
「君の言う『現代日本』では、ああいうものはごく普通に現れるものなのかな?」
だが結の足は止まらないし、時折こぼされる説明も止まりはしない。この状況下では『常識に従って足を止める』という選択肢さえ疾太には与えられていないらしい。
疾太は腹をくくると、足早に結の後に続いた。
マンションの外にへばりつくように作られた非常階段を上り切る。その先には遮るものが何もない、殺風景なコンクリートの広場があった。
言わずもがな、このマンションの屋上だ。やはり周囲よりひとつ飛び抜けて高い。視界を遮るものは、遠くに見えるやたらと大きな電光掲示板だけだ。
その電光掲示板を背景に、結は疾太に向き直った。青いタータンチェックのプリーツスカートが、強風を受けて舞い上がる。
「っ、……そんなのっ!」
「じゃあ、認めようよ」
『出るわけないじゃないですか』という言葉を、結は疾太に言わせなかった。
「ここは、君の知る世界ではない。そして君は、もう、普通ではないこの世界に巻き込まれてしまっている」
「っ……! でもっ!! そんなのどう認めろって言うんですかっ!!」
視界に鮮烈な青色を刻む結の姿が、悪夢にしか見えなかった。
その青を振り払えばこのふざけた夢を終わらせることができるような気がして、疾太は全身で叫ぶ。
「ここは閉ざされた空間で、あなた達はその中で戦うプレイヤーで、僕は一度殺されて、否応なくそのゲームに巻き込まれて……っ!! この世界から出ていくためには、戦わなくちゃいけないなんてっ!! そもそも……っ、今、こうしてここに立っているのに、僕は、……僕が……っ!!」
──死んでいる、なんて。
祥来は、言った。
この街は『カミサマ』によって創られた、大きなゲーム盤なのだと。祥来達は、そのゲーム盤の上に立たされた駒であるのだと。
駒であるプレイヤーは、『カミサマ』がセッティングするバトルフィールド『戦盤』に『招盤』されて、戦わなければならない。そのためにプレイヤー達はチームを組む。より有利に戦局を進めるために。
戦い続けて序列が上がれば、いつか『カミサマ』と直接対面する権利を得ることができる。そこで『カミサマ』に負けを認めさせることができれば、プレイヤーはひとつだけ、どんな願いでも『カミサマ』に叶えてもらうことができる。
「うん、馬鹿な話だと思う。信じられないとも、思う」
この街にいる人間は、三種類。
生きたままゲームに参加している、プレイヤー。
生きたままゲームを知らずに街を通りすぎていく、NPC。
そして生きたプレイヤーの兵力として使役される、生ける屍。
「でもこれが、この世界の真実」
その生ける屍を、この世界では『生屍』と呼ぶ。
生屍は、プレイヤーと契約を結ぶことで生まれる。見た目は生きている人間と変わらないし、生屍自身の意思も残る。ゾンビというよりも、日光などの弱点を排除された吸血鬼に近い存在だと、祥来は言っていた。
この街に生きるプレイヤーは、ゲームに関係のないNPCを、殺してはいけない。
そもそも『戦盤』というシステムは、プレイヤーを招聘する『招盤』を発動させた時点で、NPCを戦盤の範囲外へ誘導するという能力を兼ね備えているらしい。
だから今回のようにNPCであった疾太が戦盤の中にいるという事態は、起こりうることではない。だが疾太はなぜか、外へ誘導されることなく、戦盤の中にいた。
「こうなってしまった以上、みぃくんにはこの現実を受け入れてもらわないと、困る」
そして疾太は、ゲームに招聘されてプレイしていた結の攻撃を受け、致命傷を負ってしまった。
疾太の反応から疾太がNPCであることに気付いた結は、戦盤内の約定である『NPCを殺してはいけない』という言葉を守るために、疾太の了承を得ることなく、疾太を自身と契約する生屍にした。
そして疾太は、結が所属するチーム、『-B/M』の本拠地、茶房・蒼月で目を覚ました、ということであるらしい。
「困るって……そんな、勝手な……っ!!」
何もかもが無茶苦茶で、疾太の意思なんてお構いなしに流れていく。
あの時、蒼月では吐き出せなかった言葉が、今更口をついて飛び出していた。
「大体、戦うって言ったって、一体何でどう戦えって言うんですかっ!? 何と、どうやって戦うんですかっ!?」
そんな疾太の絶叫に、結は眉のひとつも動かさない。
始めからずっとそうだ。結も、他の人間も、疾太が何を叫んでも疾太の言葉に耳を貸そうとしない。疾太の言葉は、全て受け止められないまま流されて、向こうの言葉ばかりを受け取るように強要される。
──ふざけるなっ!!
「銃? 刀? ここは現代日本だ。あなたが何と言おうと、ここは現代日本だっ!! 一万歩譲ってこの街が違うって言ったって、この周囲を取り巻く世界は現代日本であるはずだっ!! 銃器の規制がかかった、法治国家であるはずだっ!!」
勝手すぎる。
どうしてこんなことに巻き込まれなければならなかったのだろうか。仮にそんな無茶苦茶な世界があったとしても、一般人はその世界の外へご案内されるはずなのに。どうして一般人であった自分の時に限って、そのシステムにバグが出たのか。
こういうことに選ばれるのは、非日常世界に憧れがあったり、何もかもを捨てたがっていたりするような人間というのが相場であるはずだ。
自分は断じて、そんな人間ではない。
殺してはいけなかった。だから勝手に生かして巻き込んだ。
そんな勝手が、疾太の了承も得ずに行われたなんて、間違っている。
「そんな中で、いきなり『戦え』『殺せ』なんて……! 勝手にも程があるだろっ!!」
「……そう。外の世界って、そうなんだ」
誰もが抱く、当然の怒りであったはずだ。
それなのに結は、真正面からそれをぶつけられていながら、平然と冷めた顔で疾太のことを見つめていた。
強い髪にサラリと黒髪が揺れる。
だが感情のない瞳は、イチミリも揺れていない。
「巻き込んだことは、申し訳ないと思ってる。でももう今は、そこを論議する段階を過ぎている」
「なっ!?」
「たとえば、こんな状況で」
風の音が、不意に一段と強くなる。
その中に何か重いモノが風を切る音が混じっていることに疾太が気付いた時には、結の腕が横一文字に振り抜かれていた。
「君は一々、責任問題を論じるつもり?」
ダンッ、と重い音が響く。
そこからはこの間の悪夢の再現だった。
「ひっ……!」
クモとカエル
テントウムシとナメクジ
カメとバッタ
形そのものはこの間とはまるで違う。だが醜悪さと雰囲気だけはそっくりな肉塊が、屋上いっぱいにあふれ返っていた。
ここは頭上に青空しか広がっていない見通しの良い場所であったはずなのに、まるでどこか頭上から生み落とされたかのように、肉塊達は疾太と結の周辺に現れた。
「私は、外の世界を知らない。物心ついた時から、この狂ったゲームの中で生きてきたから」
疾太の喉が引きつる。息をしなくても苦しくないはずなのに、狂った気道が酸素を求めて疾太自身を痛めつける。
そんな恐慌状態にあったのに、結の感情のない声は、疾太の耳に届いた。
「でも、『生きていたい』という思いだけは、外も中も一緒なんじゃないの?」
宙に向かって引き抜かれた結の右手には、身の丈よりも長大な漆黒の大鎌が握られていた。
あの日、あの戦場で、疾太の喉を切り裂いていった、あの大鎌だ。その大鎌を見たからなのか、肉塊達が耳障りな奇声を発する。
「何も行動をしないまま死ぬよりも、足掻いてでも生きる希望を、掴みたいものなんじゃないの?」
疾太を一瞥した結は、言葉が終わると同時に前へ踏み込んだ。
疾太の横を通り抜け、呆然と立ち尽くす疾太を背に庇う形で結は大鎌を振るう。
背にも刃が引かれた両刃の大鎌は、一閃で肉塊を両断した。その断面から黒く煙がたなびき、切り裂かれた肉塊は断末魔の奇声とともに悶えながらノイズと化して消えていく。
結の動きはそこで止まらなかった。
刃を振った遠心力を利用して横へ踏み込み、そこにいた肉塊を一閃。さらに踏み込んで屋上を蹴り付け、その背後にいた肉塊へも鎌を叩き込む。
恐ろしく鎌のキレがいいのか、鎌の重みと遠心力のせいなのか、肉塊が大鎌の動きを阻むことはない。クルクルと、まるで大鎌と舞踏を踊るかのように、ノイズが吹き荒れる中を結は進んでいく。
「ねぇ、」
そんな結を、疾太は呆然と見つめていた。
あの時はひたすら怖かったのに、今見る結の戦闘は、見惚れるくらいに優雅だった。
そんな疾太に、最後まで残ったクモとカエルの肉塊が肢を振り上げる。
結相手には勝てないという知能が働いたのか、はたまた動物としての本能が目の前の捕食対象に向いたのかは分からない。だがその動きは確実に、結ではなく疾太に向いていた。
「っ!!」
疾太がその動きに気付いた時には、その肢はすでに疾太に向かって振り下ろされていた。
結の動きに目を奪われていた疾太は、とっさにその動きに対するリアクションを取ることができない。
「『生きろ』という言葉に、理屈が必要?」
その声は、今まで向けられたどんな言葉よりも、近くから聞こえた。
結の瞳が目の前に迫る。その瞳に青白い光が揺れる。漆黒の刃が、足元から疾太の喉元に向かって振り上げられる。
だがその刃が疾太を切り裂くことはなかった。
疾太をかすめて飛んだ刃が、真正面からクモガエルの肢を撥ね飛ばす。吸盤のついた八本の足の一本を失ったクモガエルは、重心を崩したのかグラリと体を揺らした。
「うわぁあああああああっ!!」
ドロリとした青色の飛沫を浴びながらも、疾太は結に襟首を掴まれる形でクモガエルの下から抜け出した。
疾太と結が立っていた空間に、クモガエルの巨体が倒れ込む。
結は絶叫する疾太を後ろへ引き倒すように放り投げると、クモガエルの頭へ鎌を振り下ろした。ビクビクと痙攣したクモガエルの体が、鎌を中心にしてノイズと化して消えていく。
斬り飛ばした足まで消えた時には、疾太の体をベッタリ濡らしていた青い体液も、跡形もなく消えていた。だが『濡れた』という感触だけは生々しく残っていて、気持ち悪さは消えてくれない。
「何で戦うのか、って、言ってたよね?」
投げ飛ばされた姿勢のまま屋上にへたりこむ疾太に、結は相変わらず冷めた声を投げかけた。あれだけの大立ち回りを一人で演じたというのに、汗の一粒さえ結はかいていない。
「戦盤に参加する人間にはね、カミサマから能力が付与されるの。私の場合は、これ」
もしも結が『この数分間にあったことは、みぃくんの見た白昼夢だよ』と言ったら、疾太は迷わずそれを信じただろう。
それくらい平然と、ただ説明のために出しましたとでも言わんばかりの雰囲気で、結は自身の鎌を疾太に示した。両刃の大鎌は、静かに日の光を弾いて不気味に輝いている。
「『死神の大鎌』能力名は、『殺』」
そんな疾太の視界に、遠くに光る文字が飛び込んでくる。
「戦う相手は、人間だったり、生屍だったり、さっきみたいなバグだったり。招盤されて戦うこともあれば、日常生活で襲われることもある」
疾太の目は、その禍々しいまでに赤く表示される数字に吸い寄せられていた。
状況を説明する結の言葉が、耳に入らずに体の表面を滑り落ちていく。
「『-B/M』のメンバーは自分から喧嘩を吹っ掛けるようなことはしないけど、他のチームは、好戦的な所もあるから。だから、この街での日常生活自体が戦いだと、思ってくれてもいい」
現在人口 :36,101
(内プレイヤー:14,016)
本日の死亡者:96
傷病者:1302
「今すぐ、この現実を受け入れろっていうのは、無理な話なのかもしれない。でもみぃくん。みぃくんにも、遅かれ早かれ、能力が現れる日が、来ると思う」
疾太の視線の先に映し出された数字は、この街で繰り広げられるゲームの実況だった。
疾太が知っている世界では、決して公然と表示されるものではなかった。
「能力が現れたら、招盤からは免れない。猶予は、そこまで」
血のように赤い数字が、疾太が見ている前で大きさを増やした。じわり、じわりと増える数字は、この非現実的なゲームが今まさしく進行形であることを疾太に突き付けている。
「巻き込んだことは、申し訳なく思っている。……でも私は、私の選択を、間違っていたとは、思っていない」
──頼むから、夢だというなら覚めてくれ。
そう思うのに、脳裏に浮かんだその言葉が、先程よりも遠くからしか聞こえない。
「生きることに、腹をくくってほしい」
ああ、これが、ここの現実なんだ。
疾太はようやく、そのことを理解した。