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「……から、……………じゃない」
「いや………………こうりょ……」
天井のシーリングファンが、ゆったりと空気を掻き回している。
視界いっぱいに広がる、落ち着いた色合いの木地の天井と黒色のファン。
何となくそれだけで『おしゃれな空間にいるんだな』と思ってしまったのは、疾太の知識が乏しい上に偏っているせいなのだろうか。
「でも、いくら不可抗力だったからって、責任取らなくていいってわけじゃないってことは、分かっているよね?」
「分かってるよ……」
そんなことを思いながら息を吸い込めば、爽やかな香りが鼻をかすめる。
中々日常シーンでは嗅がないけれども、日本人ならば誰もが分かるこの香りは……
「まっ、ちゃ……?」
思ったことは、微かに声に出ていた。だがその声は自分自身で聞いても誰の声か判別できないくらい酷くかすれている。
風邪を引いた時でも、ここまで酷い状態になったことはない。こんな声を聞くのは初めてのことではないだろうか
『何かしたっけなぁ?』と、ぼんやり霞のかかる頭で考える。
その瞬間、視界が金色に染め変えられた。
「っうぁっ!?」
「起きた!」
その金色の中から、楽しそうな少女の声が響く。
疾太は慌てて金色に視線を向けるが、金色は疾太がピントを合わせる前に視界から消えてしまった。
「祥来! お客さん、起きたっ!! いらっしゃいませだよっ!!」
高いのに耳に心地よい声とともに、リリンッと鈴の音が鳴り響く。
「そうだね、鈴。じゃあひとまず、お客さんを座らせてあげてくれる?」
「うんっ!」
その少女の声に答えたのは、落ち着いたトーンの男性の声だった。
目まぐるしく現れる情報に処理が追い付かない。忙しなさに目を回すよりも早く状況が進んでいくことだけは分かる。
とりあえず今この場には男性と少女がいて、自分はなぜか酷く喉の調子が悪くて、鈴の音とともに軽やかな足音が自分に近付いてきていて……
「っあ!?」
そして冷たいものが手に触れた、と思った瞬間、疾太の視界は綺麗にスライドした。
近付いた少女が疾太の手を引っ張って上体を引き起こしたのだ、と理解した時には、疾太の視界には喫茶店のカウンターのような風景が映っている。自分は何やら、飲食店の座敷席の上がり框のような場所に寝かされていたらしい。
「おはよう。気分はどうかな?」
天井と同じ木地のカウンターの向こうには、たすきと前掛けを締めた和装姿の男が立っていた。
その男は瞼越しに疾太と視線を合わせると、目を閉じたままやわらかく微笑む。さっき『金色』のことを『鈴』と呼んでいた、あの声の主だ。聞く人の心を無条件で安心させるような声で、その人は続ける。
「今回は、うちのメンバーが迷惑をかけちゃったみたいだね」
男は疾太から視線を外すと、閉じたままの目をカウンター席に腰掛ける女性二人に向けた。その瞬間、顔に浮かぶ微笑みが、少しだけ相手を咎めるものに変わる。
一度も瞼を開いていないにも関わらず正確に二人の位置を把握するその仕草に『この人、もしかして目が見えないのかな?』と、疾太はぼんやり考えた。
「……何よ。こいつを生屍にしたのは結でしょ? 私は関係ないわよ」
その視線に不愉快そうに突っかかったのは、並んだ女性の内、長い金髪を背中に流した方だった。
さっき視界を占めた『金』が天然のものであるならば、こっちは明らかに脱色したと分かる人工的な『金』だった。マーメードラインの深紅のドレススーツに身を包み、羽衣のようにストールを纏ったその人は、ツンッと明後日の方に顔を向ける。
そんな彼女をたしなめるかのように、男のまなじりがわずかに下がった。
「そもそも、うちのグループからあの戦盤に招盤されていたのは姫でしょう? 結はフォローに入っただけ。結が鎌を振るうことになった一因は、姫にもあるんだよ?」
「だからって……。結が間違えてこいつを殺さなかったら、こんなことにはならなかったじゃないっ!!」
キンッと響く、ヒステリックな声。
そのせいで疾太は若干耳を痛めたが、とても、……とてつもなく大切なことを思い出した。
「僕は……」
意識を失う前、視界を過ぎったあの漆黒。
あれは、間違いなく……
「……っ、ひぁっ!?」
唐突に、ヒタリと、何かが疾太の喉に触れた。
思わず縮めた体が反動で宙に浮く。ガバッと顔を上げると、カウンターに座っていたもう一人の女性が、いつの間にか疾太の前に立っていた。
「調子は、どう?」
疾太の喉に手を伸ばした体勢のまま、その人は小さく首を傾げた。肩下まで伸ばされた黒髪と緩く巻かれたネクタイが、その動きに合わせてサラリと動く。
「ち……調子、て……」
「喉」
無表情のまま、その人はもう一度疾太の喉に触れる。ヒタリ、と、先程と同じ感触が疾太の体に走った。『金色』とは違って、温もりがじんわりと伝わってくる。
それでも疾太の思考は、その温もりに凍てついた。
意識を失う前、視界を過ぎったあの漆黒。その漆黒が薙いでいった場所を、温かい指先が丁寧になぞっていく。
「……不調、みたいだね」
さらにあろうことか、彼女はその上を手の平で覆うように触れ方を変えた。傍から見れば、片手で喉を潰そうとしているように見えるのではないだろうか。
「あ、あの」
生存本能が働いたのか、急に顔が熱くなる。絶対、彼女の顔が疾太の顔の目の前にあるからではない。
──この熱は絶対に、そんな甘いものなんかじゃない……っ!! こういうシチュでおなじみの『心臓が爆発しそうなくらいバクバクする』っていうのもないし……って、あれ?
そこまでノンストップで考えて、疾太の思考はもう一度氷結した。
「あ、れ……?」
彼女の手が喉から離れていったことにも、喉のかすれがなくなったことにも、意識が向かなかった。
「調整してみた。……他にも不調があったら言って。生屍の生体調整は、契約を結んだばかりのこの時期にしかできないから。今言ってくれないと、ずっとこのままだよ」
目の前の彼女が何か理解の届かない言葉を紡いだような気がしたが、それも耳には入ってこなかった。
ゆっくりと右手を上げて、自分自身の胸に当てる。意識というものが形を取れるならば、今、この瞬間の疾太の意識は、グローブのように右手を覆っていたことだろう。
その意識を疾太は、自分自身の心臓に向ける。
「……僕、生きてる……よ、な………?」
「ごめんね」
──どんな趣味の悪い冗談なんだ。
そう、叫びたかった。
目の前に映る景色は、どう見たってどこかの喫茶店で、天国でもなければ地獄でもない。鼻は抹茶の匂いを察知していて、肌は温もりも冷たさも感じる。耳はこの空間に溢れるあらゆる音を拾っていて、現に『深紅』のせいで、疾太は耳を痛めた。
だというのに、疾太の心臓はピクリとも動いていなくて、男は本当に申し訳なさそうに謝罪を口にする。
「今の君は、生きているようで死んでいる。……うちのメンバーがうっかり、君を殺しちゃったんだ」
──だから、これは、何の悪夢だ。どこのラノベの中だ! ゲームの中だ!!
「今の君は、結と契約した生屍。NPCだった君は、しっかりこのゲームのプレイヤーになってしまったんだよ。殺されることで、ね」
その言葉に疾太は、もう一度気を失った。