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疾太はくずおれそうになる体を全身全霊を以て支えた。
そんな疾太を尻目に、軽やかに店内を駆け抜けた鈴は腕を広げて待ち構えていた祥来の胸に飛び込んでいく。鈴を受け止めた祥来は、常の笑みをさらに深めながらワシワシと鈴の頭を撫でくりまわしていた。
そして誰も、そんな二人にツッコミを入れようとしない。『誰も』というか、疾太と当事者二人を除くと、今の店内には結しかいないわけだが。
──ちょっと結さんっ!? 結さんが太鼓判を押した理由を説明していただいてもっ!?
「相変わらず、見事だよね」
『今の一連の動きの意味は』やら『あんなにすごい戦闘能力を見せつけた結さんが絶賛したのにっ!?』やらと内心だけで絶叫していると、何やら遠くに視線を置いたまま店内を見回していた結が不意に唇を開いた。
「鈴のディフェンスの凄さは、店の外からじゃないと分からないよ、みぃくん」
疾太が不満の視線を結に向けると、バチリと視線が合った。どうやら鈴を甘やかすことに忙しい祥来に代わり、結が状況を説明してくれるらしい。
「でも、戦盤が解除されるまで、みぃくんはここにいた方がいいね。この中にいれば、絶対安全……」
「そうはいかないんじゃなくって?」
だが結が詳しい説明を口にするよりも、尖った不機嫌な声が店の空気を引き裂く方が早かった。
初めの日に聞いたきり、この一週間まったく耳にしていなかったヒステリックな声に、疾太は思わず身構える。
「おや、姫。珍しいね、こんな時間に」
険のある声にも、祥来は相変わらず鈴を腕に抱きしめたまま穏やかな声を上げた。
居住スペースへつながる扉を開いて現れたのは姫だった。真っ赤なドレススーツに身を包んだ姫は、頭には真っ黒な女優帽を載せ、目元には色の濃いサングラスをかけている。ジャケットの下に隠すように背中に何かを背負っているのか、襟元と裾下から上下に何かが突出していた。
「お前、結と契約する生屍なんでしょう? 主が招盤されるなら、僕も同行よ。当然でしょう?」
祥来の言葉を無視して店に踏み込んできた姫は、高いヒールを鳴らしながら結の隣までやってきた。痛んだ金色の髪と腕に纏わせたショールがその動きに遅れて揺れる。
「姫、その格好……」
結は姫を見上げると、コップをカウンターに置きながらわずかに目を見開いた。そんな結に姫は不機嫌そうな視線を向ける。
「今度はNPCを殺すなんていうヘマはしないでちょうだいな」
姫は優雅な手つきでジャケットのポケットから赤色の紙を取り出した。先程結が見せた招盤紙と同じ物だ。
「でも姫、みぃくんのところに招盤紙は来てないよ? 能力が発現してないなら、招盤はされないんじゃ……」
「戦盤にとって、能力が発現していようがいまいが、関係ないわ」
シャリンッ
その時、姫の言葉に同意するかのように小鈴を擦り合わせるような音が控えめに響いた。
鈴が纏う鈴の音を金鈴とたとえるならば、今響いた音は銀鈴だ。儚くもろいその音色は、怪しい艶を纏って空気を揺らす。
姫の視線が天井へ向く。まるでその動きを追うかのように、店の中にいた全員が自分の頭上へ視線を投げた。
舞っていた紙は、二枚。
まるで新たなプレイヤーが招盤されたことを祝うかのように、純白と深紅の紙が舞っていた。
「純白の招盤紙は僕宛だね。グループを率いる者のところへ、グループ内の誰がどこへ招盤されたかを知らせるための招盤紙だ」
祥来の頭上に舞っていた純白の紙を、鈴が身軽な動作で宙から引きずり落とす。そこには結の招盤紙よりも簡潔に『結 姫 みぃくん』と三人の名前が書き込まれていた。
「どうやらみぃくんも、本当に招盤されてしまったみたいだね」
疾太の頭上を舞っていた招盤紙が、洗い桶の中へ滑り込む。水に触れたせいなのか、招盤紙は疾太が触れるよりも早く文面を開示した。
【本日正午 第五区起点戦盤 汝 招盤セリ】
そこに並んでいた文言は、結の元へ来た物とまったく同じだった。
ただひとつ、濡れて浮き上がった文面があったということを除いては。
【汝 争イニ乗ジテ 主ヲ抹殺セヨ】
ズボンの後ろポケットに入れたカッターナイフが、ズシリと重さを増したような気がした。なぜかその重みを、心地よく感じている自分がいる。
──あぁ、殺さなくては。
殺して、人間にならなくては。殺せば、人間になれるのだから。
その言葉が、また頭の中を転がっていく。空っぽの甕のような己の中に投げ込まれては、がランカランと大きな音を響かせる。
疾太の招盤紙は、拾い上げようと疾太が水面へ指を差し入れた瞬間、パッと弾けるように水の中へ散って消えた。
赤い紙が破片になりながら水の底へ落ちていく様は、まるで水の中に血を流しこんだかのようだった。
「……みぃくん?」
祥来の呼び声に、疾太はゆっくりと顔を上げる。
そして、この街に巻き込まれてから初めて、心の底からの笑みを浮かべた。
「はい、僕宛でした」
その笑みに、姫と鈴が表情を強張らせる。唯一結だけが、常の無表情を変えることなく疾太のことを見つめていた。
だがそれを視認していながらも、疾太の笑みは消えない。
「間違いなく、僕宛の招盤紙でした」
【汝 争イニ乗ジテ 主ヲ抹殺セヨ】
もうその言葉を繰り返すことしかできない。
まるで焼印で刻み込まれたかのように、それ以外の言葉が欠落していく。
その感覚を覚えながらも、疾太はずっと壊れたように笑みを浮かべ続けていた。




