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「っ!?」
後ろポケットに入れていたカッターナイフを密かに握り込み、引き抜く。
だが実際にはその一瞬前、鈴のような音に耳を叩かれた疾太は動きを止めていた。店の中にうっすらと舞う黄金の光は、決して幻などではない。
その証拠に祥来が嘆きの声を上げる。
「あーあー……。まだまだ集客が見込める時間帯だっていうのに……」
そのボヤきさえ聞こえていない客達は、虚ろな目をしたままカタリと席を立ち、ゾロゾロと表口へ向かって移動を始めた。
そんな客の様子を苦い顔で眺めていた祥来は、小さく溜め息をついてから皿を下げるべくフロアへ向かう。一方鈴は『ありがとうございましたー』と笑顔で客を見送りながらも、きっちりそれぞれの財布から代金を抜き取っていた。その手際は玄人のそれだ。
「結、どうして戦盤が発生するって分かったの?」
「ん」
そんな中でも、結はただ一人マイペースに食事を続けていた。そんな結へ祥来が問いを投げれば、結は胸ポケットから何かを取り出して顔の前に掲げる。
それは柔らかそうな素材でできた、真っ赤な紙のように見えた。二つ折りにされていた物を片手で器用に開いた結は、それを祥来に向けてヒラヒラと振ってみせる。
「招盤紙? 結のところには事前に来ていたっていうこと?」
下げてきた皿をカウンター越しに疾太へ渡した祥来は、結から紙を受け取った。シンクの洗い桶に皿を突っ込んだ疾太は、身を乗り出して祥来の手元を盗み見る。
【本日正午 第五区起点戦盤 汝 招盤セリ】
真っ赤な紙に、プリンターで印刷したような人間味を感じさせない黒文字で、その文面は書き込まれていた。
薄ら寒い異様さを纏う紙をしげしげと眺めた疾太は、そのまま顔を上げると祥来に問いをぶつける。
「これ、何ですか?」
「プレイヤーの間では『招盤紙』って呼ばれている物だよ。戦盤への正式な召集令状だね」
「ショウバンシ?」
「戦盤への呼び出し状だよ、みぃくん」
聞き慣れない言葉をオウム返しにした疾太に答えたのは結だった。疾太が視線を向けると、くし切りにされたオレンジを手にした結がチラリと疾太を見上げる。
「何時にゲーム開始になる、どこに発生する戦盤にお前を招集するから、参加するようにって事を伝える紙」
淡々と説明しながら、結は手元のオレンジに視線を戻した。一人黙々と食事を続けていたからなのか、いつの間にか結の手元にある皿は綺麗に空になっている。
「基本的には、呼び出される戦盤が発生した時に、呼び出されるプレイヤーの目の前に、こう、ヒラヒラ〜ってどこからともなく落ちてくるものなんだけども」
「今回は、それが事前に結さんのところに来ていたっていうことですか?」
「そういうこと」
不自然なことであるはずなのに、疾太の言葉に答える結の口調は変わることなく淡々としていた。
結はそのまま手にしていたオレンジを鮮やかな手際で食べ終わると、丁寧に両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
対する祥来は軽やかに答えながらも眉間にシワを寄せていた。
「これも戦盤の歪みのひとつかもしれないね。調査対象に加えてもらわないと」
「正午って、随分時間が空いてますよね? 戦盤って、今発生したんじゃないですか?」
結へ招盤紙を返す祥来を横目に見ながら店の壁掛け時計へ視線を投げれば、時刻は11時15分をわずかに回った頃だった。正午までにはまだかなり余裕がある。
「開戦は基本的に戦盤が発生してから30分から1時間後くらいになるんだ」
かなりタイムラグがあるのでは、と祥来へ改めて視線を向けると、テキパキと後片付けを始めた祥来が手を止めることなく答えてくれた。
「戦盤の中心地から徐々にあの光が広がっていって、中心地から順番にNPCの誘導が始まる。戦盤の大きさは、その時々によってまちまちでね。大きい時だと、境界周辺の誘導が完了するのとほぼ同時に開戦ってこともあるね」
「そうなんですか……」
祥来の発言を参照すると、この間疾太が巻き込まれた戦盤は大きい部類のもので、疾太はそのエリア内でも端に位置する場所にいたのだろう。そう考えればあの状況にも納得ができる。
「この街には、外の行政が決めた区分けや地名も、もちろんあるんだけれど。プレイヤーはそれよりも、別の区分けで自分達の位置を言い表すことが多くてね。招盤紙もそっちの区分けで場所を伝えてくるんだ」
この街は、南北に三本、東西に三本の大通りが走っていて、十六の区画に分けられている。
その区画をひとつのブロックとして捉え、六ツ川沿いに環七から四谷に向かって『第一区』から『第四区』。次にひとつ南へ下がって、また環七から四谷に向かって『第五区』から『第八区』。そうやって数字で呼び習わすのが常で、本来の地名はほとんど使われいないのだという。
「結の招盤紙に書かれていた『第五区』っていうのは、北から二段目の一番東の区画ってこと。この蒼月も、第五区に属しているんだよ」
「じゃあ、ここにも敵が流れ込んでくるかもしれないってことですかっ!?」
祥来の説明に、疾太は思わず悲鳴のような声を上げていた。
脳内にフラッシュバックしたのは、ショーウィンドウを突き破って消えていった女性の姿だ。ここがあんな風になるかもしれないと思った瞬間、ゾワリと寒気が疾太の背筋を駆け上がる。
「大丈夫。幸い、鈴が招盤されていないからね。ここの守りは大丈夫だよ」
だが祥来の穏やかさが崩れることはなかった。
「ねぇ、鈴?」
「アイアイサーッ!!」
「え? 鈴さん?」
祥来に穏やかな笑みを向けられた鈴がビシッと敬礼を返す。だが疾太は思わず戸惑いの声を上げていた。
──鈴さんがいるから大丈夫って……?
疾太から見た鈴は、無邪気で明るくてあどけない少女だ。茶房の給仕という点ではものすごく心強いが、とてもじゃないが戦闘面において『鈴がいるから大丈夫』と太鼓判を押されるような人物には見えない。
「うん、大丈夫だよ、みぃくん。鈴と祥来がいれば」
疾太の『納得できない』という内心は顔にダダ漏れていたのだろう。シメのりんごジュースを啜っていた結が口を挟んできた。
「鈴のディフェンスは、この店がこの場所にあると明確に知っていて、かつ、私みたいに特殊属性の力を持っているプレイヤーじゃないと破れないから」
「えぇっ!?」
「鈴。もう結界、張っちゃおうか」
結からの手放しの賛辞に疾太は重ねて驚きの声を上げる。
そんな疾太に構わず鈴へ声をかけた祥来は、わずかに表情に緊張を混ぜた。
「驕りではなく事実として、今回この戦盤の中を縄張りとするチームの中で一番序列が高いのは『-B/M』だからね。潰そうと企んでる輩にあらかじめ目をつけられていたら厄介だ。面倒事は、なるべく避けないとね」
「はーい!」
祥来の言葉に元気よく手を上げて答えた鈴は、フロアの真ん中に出ると軽く両手を広げて立った。
こちらに向き直った鈴の瞳に、青白い光が灯る。その瞬間、店の中の空気がわずかにざわついたような気がした。
その緊張の中を泳ぐように、鈴が纏った小袖袴の裾が舞う。
「りーんりーんりーんっ!!」
リンッ
鈴はその場でクルクルと片足で回った。髪留めの金鈴が、場を清めるかのように力強く音を鳴らす。その音は三回転した鈴の袴の裾が落ち着く頃には、店の空気に溶け込むかのように消えていた。
「……」
店の中に、特に変化はない。
祥来は穏やかながらも張り詰めた表情で鈴を見つめているし、リンゴジュースに口をつけたままの結から感情を読み取ることはできない。
疾太は思わず息を詰めて鈴を見つめる。
鈴はそんな疾太の前で静かに瞬きをすると、ニコッといつものように笑った。
「祥来! 終わったよっ!!」
「うん、ありがとう鈴」
──はぁ?
『あれで終わりなんかーいっ!』というツッコミをとっさに口にしなかった自分は偉いと思う。
疾太は力が抜けそうな己の両足を叱咤しながら、とっさにそんなことを考えていた。




